『微かな「殺気」』
「……帝国全土の軍需物資の輸送権、だと?」
深夜の尚書省。カシアン・ヴァロアからエマの「逆提案」を告げられたトリスタン・フォン・ブライトクロイツは、手にしていた硝子の杯を、指先が白くなるほどの力で握りしめていた。
物腰柔らかく、誰に対しても礼儀正しいトリスタンの顔から、完全に笑みが消えている。徹底した現実主義者である彼をして、エマの要求はあまりにも傲慢、かつ不遜極まるものだった。軍需物資の輸送権――それはすなわち、帝国の兵站の全権を商人の手に委ねるということだ。いくら軍事を統括する太尉ヴァレリオが身内にいようとも、兵糧や武器の流通を握られれば、ブライトクロイツ家は財界連合に心臓を掴まれたも同然となる。
「看板だけを誇っていいただければ、それで十分……。あの小娘、私を、ブライトクロイツ家を、金の力で買い叩くつもりか」
トリスタンの低い声に、部屋の隅に控える腹心の部下は息を呑んだ。
だが、トリスタンはそこで激昂し、エマを圧殺するような愚は犯さなかった。彼はキレ者だ。怒りを瞬時に冷徹な思考の底へと押し殺し、エマという駒の「真の価値」を測り始める。
「面白い。ただの商人の操り人形かと思えば、これほどの野心を隠し持っていたとはな。だが、文字のやり取りだけでは、あの娘の底が見えん。カシアン」
影のように控えていた内侍監カシアンが、音もなく一歩前に出る。
「はっ。ここに」
「手配せよ。後宮の『財務監査の最終報告』を口実に、私が直接、後宮へ出向く。陛下には、私が尚書令として後宮の不整合を直接正すためと奏上しておけば問題ない。エマ才人と、直接刃を交える(対面する)場を設けろ」
「直接の御対面、でございますか……。恐れながら閣下、後宮の奥深くに尚書令が立ち入るは、皇后派のシュタインベルク家にとっても格好の口実を与えかねませぬ」
カシアンの懸念はもっともだった。しかし、トリスタンは冷酷な笑みを浮かべた。
「構わん。焦り狂っているシュタインベルク家など、エマの財務監査で勝手に自滅する。私が知りたいのは、あの娘が本当に帝国を買い取るだけの器なのか、それともただの分不相応な誇大妄想狂なのかだ。もし前者なら――」
トリスタンは言葉を切り、窓の外、暗闇に包まれた後宮を睨み据えた。
「――命を懸けた、真の取引をしてやろう」
二日後の夕刻。
雨がそぼ降る後宮の一角、普段は使われない寂れた東屋が、その「対面」の舞台となった。
エマ才人は、上質な、しかし決して華美ではない地味な衣服を纏い、一人で待っていた。後ろ盾のない彼女にとって、ここは敵陣の真ん中だ。だが、その背筋は美しく伸び、理知的な瞳には微塵の揺らぎもない。
「お待たせしたな、エマ才人様」
低く、しかし驚くほどに柔らかな声と共に、傘を差した男が現れた。尚書令トリスタン・フォン・ブライトクロイツ。35歳。洗練された貴族の気品と、数々の地方総督を歴任してきた修羅の空気を同時に纏う男だ。
二人の視線が、初夏の雨のカーテンを挟んで真っ直ぐに交錯する。
「お初にお目にかかります、尚書令閣下」
エマは完璧な礼をとった。
「挨拶は不要だ。時間もない」
トリスタンは東屋に足を踏み入れ、傘を畳むと、エマの目の前に立った。その距離はわずか数歩。大人の男の圧倒的な威圧感がエマを包み込む。
「君の逆提案、実に見事な大博打だった。帝国全土の軍需物資の輸送権を要求するとは。……商人の分際で、この私の頭を飛び越え、帝国の喉元を買い取れると本気で思っているのか?」
トリスタンの目が、鋭い刃となってエマの顔を切り裂くように見つめる。
しかし、エマは微動だにしなかった。彼女はふっと、どこか哀れむような、しかし最高に不敵な笑みを口元に浮かべた。
「閣下。数字は嘘をつきません」
エマの声は、鈴を転がすように澄んでいた。
「閣下がこれからシュタインベルク家を叩き潰し、第4皇子ロデリック殿下を帝位につけるために必要な軍資金、そしてその後の治世を安定させるための財政再建――そのすべてに、どれほどの『帝貨』が必要か、閣下はすでに計算されているはずです。そして、その額は、今のブライトクロイツ家の私財や、不完全な国家予算の操作だけでは、逆立ちしても足りないということも」
エマは一歩、トリスタンの方へと歩み寄った。彼女の放つ「資本の重圧」が、トリスタンの威圧感を押し返す。
「私は商人の分際で言っているのではありません。この帝国の『血』である経済そのものとして、閣下に融資(お取引)を申し出ているのです。閣下は、古い血統の看板を守るために、我が財界の無限の金をドブに捨てるおつもりですか? それとも、私たちの手を握り、真の『新しい帝国』を築かれますか?」
トリスタンは、怒りを通り越し、目の前の少女に強烈な戦慄と、同時に歪んだ感嘆を覚えていた。彼女はただの商人の操り人形ではない。経済という名の化け物を手懐け、自らがその王になろうとする、紛れもない「天才」だった。
「ふ……ふははは!」
トリスタンは思わず、低く、しかし愉悦に満ちた笑い声を漏らした。表向きの「物腰柔らかい尚書令」の仮面が、完全に剥がれ落ちる。
「素晴らしい。合格だ、エマ。君はただの守銭奴ではない。……よし、その大博打、このトリスタン・フォン・ブライトクロイツが乗ってやろう」
二人の天才が、後宮の暗闇の中で、帝国の未来を文字通り「買い取る」ための血の契約を結んだ瞬間だった。しかし、その時、東屋の周囲の草むらから、微かな「殺気」が立ち上るのを、二人はまだ気づいていなかった。




