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『オーレリア戦記』  作者: りあと
『オーレリア戦記』帝国歴306年
134/287

『凍りつくような冷たさ』

宮廷の最高機関の一つである尚書省の執務室で、尚書令トリスタン・フォン・ブライトクロイツ(35歳)は、届けられたばかりの後宮からの報告書を前に、深く眉間を寄せていた。

若くして財政と法務に類稀なる才能を発揮し、地方の総督職を歴任してきたキレ者。伯父である司徒マートルの強力な後ろ盾と、自身の高い実務能力によって皇帝アラリックに抜擢されたばかりのトリスタンは、表向きは物腰柔らかく誰に対しても礼儀正しい。しかしその本性は、徹底した現実主義者であった。

「……計算が狂ったな」

トリスタンは低く呟き、報告書を机に放り出した。

そこには、下級女官から一晩で「才人」へと登りつめた娘・エマが、皇帝から授かった「後宮財務監査権」を盾に、凄まじい手際で帳簿の精査を始めていることが記されていた。

トリスタンの就任により、宮廷内でのブライトクロイツ家(およびロデリック親王派)の権勢は一気に跳ね上がり、皇后の実家シュタインベルク家を震撼させていたはずだった。だが、皇帝アラリックはブライトクロイツ家の肥大化をただ黙って見ているような暗君ではなかったのだ。

「陛下は、格式高い貴族の派閥を抑え込むために、血統を持たない『金そのもの』を後宮へ招き入れたか」

エマの背後にいるのは、帝国の塩や鉄の流通を牛耳る莫大な富を持った財界連合。トリスタンが地方の総督職にいた頃から、その恐るべき資金力と経済への影響力は身に染みて知っている。もし彼らが本格的に宮廷の核心へ食い込めば、ブライトクロイツ家が築きつつある権力基盤すら、根底から買い叩かれかねない。

「さて、どう動くべきか……」

トリスタンは椅子の背にもたれ、細い指先を顎にあてた。徹底した現実主義者である彼は、感情で動くことはない。

選択肢は二つ。

一つは、財界の動きを完全に封じること。エマの出自の弱さを突き、宦官たちに金を掴ませて後宮内で孤立させるか、あるいは彼女の背後にいる商業連合に「関税の引き上げ」という国家の権力を見せつけて脅しをかけるか。

もう一つは、エマと手を組むこと。

「商人が動く理由は常に一つ。血統の栄誉ではなく、確実な『利益』だ」

トリスタンは立ち上がり、窓の外に広がる広大な後宮を見下ろした。

エマの財務監査はすでに皇后派のシュタインベルク家の裏金をあぶり出しつつある。これはブライトクロイツ家にとっても好都合だった。ならば、彼女を敵に回して圧殺するよりも、その圧倒的な経済力を我が派閥の「燃料」として取り込む方が、遥かに合理的である。

トリスタンは、影のように控えていた腹心の部下に、声音を和らげて命じた。

「今夜、内侍監のカシアン・ヴァロアに連絡を取れ。あの男は賢妃派だが、同時に徹底した保身と実利の男だ。カシアンを通じて、エマ才人へ密使を送る」

「密使、でございますか? どのような内容を?」

トリスタンは、物腰柔らかい笑みを浮かべながらも、その目は冷酷に光らせた。

「『ブライトクロイツ家は、財界連合が求めている東部国境の塩の専売権を認めてもいい』とな。その代わり、エマ才人には後宮の監査において、我がブライトクロイツ家につながる金の流れだけは『見落として』もらう。そして、皇后派を完全に叩き潰すための、刃となってもらう」

家柄という古い権力に、トリスタンの「政治力」とエマの「経済力」が結託すれば、この帝国は完全に彼らの手の中に落ちる。

キレ者・トリスタンは、迫り来る新時代の手綱を自ら握るべく、裏で冷徹に動き始めたのだった。


◇

深夜、後宮の端に位置する「才人」の私宮。その一室で、エマは届けられたばかりの書状を、蝋燭の炎で静かに焼き落としていた。

灰になっていく上質な紙を見つめる彼女の瞳には、歓喜も恐怖も浮かんでいない。ただ、緻密な数式を解き終えたかのような、冷徹な満足感だけがあった。

書状の主は、尚書令トリスタン・フォン・ブライトクロイツ。内侍監カシアン・ヴァロアという、後宮のあらゆる「隙間」を知り尽くした宦官の手を経て、極秘裏に届けられたものだった。その内容は、東部国境における「塩の専売権」を財界連合に認める代わりに、ブライトクロイツ家の財務の不整合を見逃し、皇后派(シュタインベルク家)を叩き潰す刃となれ、という「取引」の提示だった。

「さすがは地方の総督職を歴任してきたキレ者。こちらの『資本の論理』をよく理解していらっしゃる」

エマは小さく呟き、燃え尽きた灰を銀の器へと払った。

トリスタンの提案は、財界にとって莫大な利益をもたらす破格の条件だった。塩の専売権が得られれば、彼らの富はさらに数倍へと膨れ上がる。普通の商人であれば、この時点で狂喜乱舞し、喜んでブライトクロイツ家の軍門に降っただろう。

しかし、エマはただの商人ではない。帝国の「富」そのものを背負い、血統という古びた権力を内側から買い叩くために送り込まれた刺客なのだ。

「けれど……尚書令閣下。あなたは一つ、計算違いをされています」

エマは机の上に広げられた、後宮の広大な勢力図に目を落とした。

トリスタンは「塩の専売権」を切り札に、エマを『都合のいい手下』として扱おうとしている。だが、エマの背後にいる財界連合が求めているのは、貴族から与えられる「お溢れの利権」ではない。国家の財政そのものを握り、「貴族の存亡を財界が決定できる構造」を作り出すことだった。

翌夜、仲介者である内侍監カシアン・ヴァロアが、再び覇気のない穏やかな男の顔をして、エマの宮を訪れた。

「エマ才人様、夕べの『贈り物』はいかがでしたかな? 尚書令閣下は、大変に気の回るお方でございますよ」

カシアンは探るように目を細める。彼自身、この巨大な政治劇のどちらの勝ち馬に乗るべきか、ヴァロア家の利益のために見極めようとしていた。

エマは静かに微笑み、一枚の新たな書状をカシアンに差し出した。トリスタンへの「返答」だった。

「カシアン様。尚書令閣下には、このように、そのままお伝えくださいませ」

エマの切れ上がった瞳が、蝋燭の光を反射して妖しく輝く。

「『塩の専売権の提示、誠に痛み入ります。ですが、我が財界連合が求めているのは、東部国境の塩だけではございません。閣下がこれから中央で動かされるであろう、“帝国全土の軍需物資の輸送権”。これをも我が連合に一任していただきたい』と」

カシアンの息が、一瞬だけ止まった。

エマの要求は、トリスタンの提示を遥かに超える、国家の兵站(へいたん)そのものを要求する傲慢なものだったからだ。

「……才人様、それはいくら何でも、尚書令閣下の喉元に直接刃を突きつけるようなもの。ブライトクロイツ家を敵に回せば、いかに『金』があろうとも……」

「敵に回す? 滅相もない。これは最高の『協力体制』の提案ですよ」

エマはカシアンの言葉を遮り、冷徹に言い放った。

「閣下がこれから皇后派を完全に駆逐し、第4皇子ロデリック殿下を次の皇帝に据えるためには、シュタインベルク家が抱える『私兵』をも圧倒する、莫大な軍資金が必要になるはずです。ブライトクロイツ家という器に、我が財界が底なしの金を注ぎ込んで差し上げましょう。その代わり――この帝国の“物流と経済”は、すべて私たちが統治する。尚書令閣下には、血統という名の『看板』だけを誇っていいただければ、それで十分なのです」

それは、ブライトクロイツ家を後ろ盾にするのではなく、「ブライトクロイツ家を財界の傀儡(かいらい)にする」という、恐るべき逆提案であった。

カシアンは、目の前の20歳の少女の姿が、まるで巨大な怪物のよう見えた。彼女の背後には、帝国のすべてを買い漁ろうとする「黄金の亡霊」たちが控えている。

「……承知いたしました。この首が飛ぶ覚悟で、閣下へとお届けいたしましょう」

カシアンは深く一礼し、冷や汗を拭いながら闇へと消えていった。

血統のプライドで戦う皇后派、実務能力と政治力で挑むブライトクロイツ家。その両者を、エマは「資本」という冷徹な数字の網で、じわじわと絡め取ろうとしていた。後宮の夜風は、初夏だというのに、凍りつくような冷たさを孕み始めていた。



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