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『オーレリア戦記』  作者: りあと
『オーレリア戦記』帝国歴306年
133/287

『未知の聡明さ』

尚書令トリスタンの就任による「ブライトクロイツ家」の台頭と、それに焦る「シュタインベルク家(皇后派)」、静観する「ヴァロア家(賢妃派)」の三つ巴の影で、後宮に新たな地殻変動が起きようとしていた。

それは、血統や家柄ではなく、莫大な富で帝国の財政を支える「財界系派閥」が送り込んだ、一人の下級女官の存在だった。


◇

尚宮局の最末端、後宮の帳簿や備品管理を行う事務職に、エマという20歳の女官がいた。彼女の表向きの出自は地方の商人。しかしその実、帝国の塩や鉄の流通を牛耳り、先の戦費も調達した豪商・財界連合が、莫大な黄金を積んで後宮の宦官に手を回し、密かに潜り込ませた「刺客」であった。

若くして財政と法務のキレ者である尚書令トリスタンが、地方の総督職を歴任していた頃から、財界は宮廷の権力構造が「血統」から「実利」へと移り変わる予兆を感じ取っていた。彼らが求めたのは、貴族たちの不毛な権力闘争の駒ではなく、「財界の利権を宮廷の核心で守るための代弁者」だった。

エマは、目が覚めるような美女ではない。しかし、磨き抜かれた珠玉のような白い肌と、すべてを見透かすような理知的な切れ上がった瞳、そして何より、大人の男を狂わせる「圧倒的な計算高さ」を隠し持っていた。


◇

その夜、皇帝アラリック(29歳)は、宮廷の権力闘争に疲れ、深夜に一人で後宮の書庫を訪れていた。皇后の実家シュタインベルク家からの執拗な突き上げ、そしてブライトクロイツ家の急速な肥大化。皇帝とはいえ、彼もまた孤独な盤上の王だった。

暗い書庫の奥で、微かな蝋燭の光を頼りに、膨大な「関税と地方税の対比帳簿」を素手で計算している女官がいた。エマだった。

「深夜に何をしている。それは下級女官が触れていい書物ではない」

アラリックの冷徹な声が響く。普通の下級女官であれば、恐怖で平伏し、命乞いをする場面だ。しかし、エマは静かに立ち上がり、完璧な、しかしどこか血の通わない美しい礼をとった。

「失礼いたしました、陛下。ですが、この帳簿には三百万帝貨の使途不明金がございます。このままでは、今秋の東部国境の兵糧調達に支障が出ると判断し、僭越ながら確認しておりました」

「……何だと?」

アラリックの目が細められた。その額は、まさに彼が昼間、尚書令トリスタンと議論していた不自然な国家予算の歪みと完全に一致していたのだ。

「お前、名は何という。なぜそれを知っている」

「エマと申します。私は……数字の嘘を見抜くことしか取り柄がございませんので」

エマは、財界仕込みの正確無比な計算能力と、宮廷の誰もが持たない「経済の視点」から、現在の帝国の歪みを淡々と、しかし恐ろしいほど明晰に解説してみせた。血統のプライドに塗れた妃たちや、保身ばかりの宦官たちとは明らかに違う「未知の聡明さ」に、アラリックの冷徹な心が激しく揺さぶられた。

「面白い。女の口から、これほど鮮やかな国家経営の策を聞くことになるとはな」

その夜、アラリックはエマを自らの寝所に召した。


◇

翌朝、後宮は文字通り蜂の巣を突いたような騒ぎとなった。

家柄もない、ただの帳簿係の下級女官が、皇帝の直接の勅命によって一晩で「才人(さいじん)」の位を授けられ、正式なお妃様の一員となったのだ。さらに皇帝は、彼女に後宮の一切の財務を監査する臨時の権限まで与えた。

この一報に、各派閥の女官たちは驚愕し、激しく動揺した。

「本当に……恐ろしい娘が上がってきたものですな」後宮の奥深く、賢妃ベアトリス・ヴァロア(24歳)の私宮の薄暗い一室で、内侍監カシアン・ヴァロア(42歳)はいつもの覇気のない笑みを完全に消し去っていた。手元にあるのは、下級女官から一晩で「才人」へと登りつめた娘、エマに関する極秘の身上調査書だ。そこには、彼女の背後にいる帝国の巨大豪商連合、すなわち「財界派閥」の影がびっしりと書き込まれていた。「サヴォイア家やブライトクロイツ家を警戒していたら、まさか下から『金』そのものが這い上がってくるとはね。賢妃様、あの娘の背後には帝国の金蔵がついております。迂闊に触れば、こちらの首が飛びますよ」カシアンの低い声が、静まり返った室内に響く。部屋の主である賢妃ベアトリスは、5歳になる皇女ライナを侍女に預け、自身は優雅に茶を口に運んでいた。その美しい顔立ちは穏やかそのものだったが、カシアンの言葉を聞くその瞳には、怜悧な光が宿っている。「私の伯父である中書令(バザラード)や、宮廷の貴族たちは、血統や家柄という古びた格式だけで天下が回っていると信じ込んでいる。けれど、陛下は違う。皇帝アラリックは、あの若さで徹底した現実主義者だもの。ブライトクロイツの肥大化とシュタインベルクの横暴を抑えるために、彼らが最も欲する『金』という実利を投げつけてきた新興勢力を、陛下が喜んで手元に置くのは当然だわ」ベアトリスは、エマという存在の恐ろしさを正確に看破していた。「左様でございます」カシアンは深く頷き、細い指で帳簿を叩いた。「エマ才人に与えられた『後宮の財務監査権』。これはただの嫌がらせではございません。すでに皇后派のシュタインベルク家が、後宮の維持費と称して実家へ横流ししていた莫大な裏金の証拠を、彼女は掴みつつあります。今、皇后宮の女官たちは、帳簿を隠そうと大慌てで右往左往しておりますよ」「ふふ、傑作ね。格式を誇るシュタインベルク家が、商人の娘に首根っこを掴まれるなんて」ベアトリスは冷ややかに微笑んだが、すぐに真剣な面持ちに戻った。「けれど、カシアン。あのエマという娘の矛先は、いずれ私たちヴァロア家にも向くのではないかしら? 私たちの実家だって、清廉潔白というわけではないでしょう」「その通りでございます。ですから、我らが取るべき道は一つ」カシアンの口元が、蜘蛛が網を張るような歪んだ笑みに変わった。「あの『金』そのものと、真っ向から戦ってはなりません。むしろ、皇后派やブライトクロイツ派が勝手にエマ才人と衝突し、自滅していくのを特等席で眺めるのです。そして……あの娘が本当に『使える札』であるならば、ヴァロアの利権の一部を差し出してでも、こちらに取り込む道を探るべきかと」「商売人には、より大きな利益を提示しろ、ということね」「御意にございます。私が後宮の『目と耳』として、エマ才人の真の目的と、彼女が次にどの喉元に噛み付くのか、じっくりと見極めてまいりましょう」初夏の風が、窓からヴァロア宮の豪奢な帳を揺らす。血統という古いルールが崩壊し、莫大な富が後宮の主権を書き換えようとする中、カシアンという陰の権力者は、すでに新しい時代の盤面を冷徹に計算し始めていた。


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