『まるで蛇の這う音のように』
初夏の瑞々しい青葉が、皇帝アラリックの治める帝都の宮廷を鮮やかに彩っていた。しかし、いくら爽やかな風が吹き抜けようとも、広大な後宮の奥深くに漂う「熱気」を冷ますことはできない。そこは、大人の野心と嫉妬が冷たく渦巻く伏魔殿。そしてその伏魔殿を実際に動かし、主たちの手足となって立ち回るのが、何百人もの女官たちだった。
主の栄華は、女官たちの栄華。主の没落は、女官たちの死。
運命を共にする彼女たちにとって、宮廷の政治的変動は一大事であった。少し前、宮廷の要職である尚書令にトリスタン・フォン・ブライトクロイツが抜擢され、ロデリック親王派の権勢が跳ね上がった。この一報は、後宮の女官たちの間にも、目に見えない巨大な亀裂を生んでいた。
「手が止まっているぞ、お前たち。早くその絹布を皇后様の宮へ運びなさい」
後宮の衣服や調度品を管理する「尚宮局」の廊下で、年配の高級女官が鋭い声を響かせた。
小走りで散っていく若い女官たちを見送りながら、彼女は小さく溜息をつく。最近の後宮は、どこを歩いても女官たちのひそひそ話が絶えない。
特に、皇后ロザリアに仕えるシュタインベルク家の女官たちのピリピリとした空気は異常だった。
皇后の宮の筆頭女官であるヘレナは、朝から侍女たちを集めて厳しい指示を飛ばしていた。
「トリスタンが尚書令に就いたことで、ブライトクロイツ派の調子づいている。ですが、この後宮の正統なる主は皇后ロザリア様であり、次の皇帝となられるのは4歳のイスマ皇子殿下です。新興の者たちに、一歩も引いてはなりません。言葉遣い、立ち振る舞い、すべてにおいてシュタインベルクの威厳を見せつけなさい」
女官たちは一斉に頭を下げたが、その背中には緊張が張り詰めていた。
皇后の実家シュタインベルク家は、トリスタンの台頭に焦りを感じている。その焦りはそのまま、女官たちの過剰なまでのプライドと、他派閥への攻撃性となって表れていた。
その「攻撃」の矛先が最も向けられているのが、今年1月に皇子を出産し、18歳で「徳妃」へと上り詰めたルネッタ・リヴィエールの宮だった。
「見てご覧なさい、あの歩き方。所詮は地方の小貴族の出、はしたないわ」
「陛下の寵愛と、生後5ヶ月の皇子を盾に、随分と大きな顔をして……」
ルネッタの宮の近くを通りかかる皇后派、あるいは他の妃派の女官たちは、すれ違いざまに聞こえるような声で嘲笑を投げかける。
それに対し、ルネッタに仕える若い女官たちも負けてはいない。
「お黙りなさい。我が徳妃様は、陛下から最も深い寵愛を受け、お若い身で瑞々しい皇子様を授かったお方。ただ古めかしい家柄だけを誇るどなたか達とは、格が違いますわ」
売り言葉に買い言葉。女官たちの諍いは、そのまま主たちの代理戦争だった。
しかし、その後宮の喧騒から完全に孤立し、狂気とも言える怨嗟の空気を纏っている一角があった。
ルネッタと入れ替わりで「徳妃」から「昭容」へと降格された、21歳のジゼル・サヴォイアの宮である。
ジゼルに仕える古参の女官、クララは、暗い部屋の中で主の髪を梳かしながら、低く呪わしげな声で囁いていた。
「ジゼル様、どうか気を落とされませぬよう。あの小娘、ルネッタなど、一時の気の迷いで陛下に娶られたに過ぎません。サヴォイア家の後ろ盾を持つ貴女様が、あのような異端の娘に遅れをとるはずがないのです」
「……わかっているわ、クララ」
鏡の中のジゼルは、恐ろしいほどに青白い顔で、ガタガタと指先を震わせていた。
「ルネッタが降格させた。私の地位も、誇りも、すべてあの女が奪ったのよ。許さない……絶対に許さないわ」
「ええ、ジゼル様。サヴォイア家の誇りに懸けて、必ずやあの娘を泥に引きずり落としてやりましょう。まずは、あの生後5ヶ月の生意気な赤ん坊から、陛下の目を逸らさねばなりませんね。私に策がございます……」
クララの歪んだ笑みが、鏡越しにジゼルの狂気を煽る。女官は主の感情を増幅させるスピーカーであり、時に主を破滅へと導く毒薬にもなる。彼女たちは、ルネッタの宮へ運ばれる薬に細工をするか、あるいは呪詛の呪符を埋め込むか、暗闇の中で具体的な謀略を練り始めていた。
一方、そんな女官たちのドロドロとした暗闘を、少し離れた場所から冷ややかに見つめる目があった。
賢妃ベアトリス・ヴァロアに仕える女官たちだ。
24歳の賢妃ベアトリスは、中書令バザラード・ヴァロアを伯父に持ち、後宮内には内侍監のカシアン・ヴァロアという強力な「目と耳」を持っている。ヴァロア家の女官たちは、他の宮の女官たちのように声を荒らげることは決してない。
「今日も皇后様のところと、徳妃様のところで女官同士の小競り合いがあったそうです」
若い女官が静かに報告すると、賢妃派の筆頭女官は、お茶を淹れながら静かに微笑んだ。
「放っておきなさい。愚かな犬ほど、よく吠えるものです。私たちが仕える賢妃様は、5歳のライナ皇女様を育てながら、静かに時を待っておられます。皇后派と徳妃派が潰し合ってくれれば、私たちの勝ちです。お前たち、他宮の女官に話しかけられても、絶対にヴァロアの情報を漏らしてはなりませんよ。カシアン様がすべてを見ておられますからね」
「はい、承知いたしました」
彼女たちは、嵐の中で身を潜める智慧を知っていた。女官たちの間で交わされる一言、視線一つが、明日の宮廷の勢力図を塗り替える。
6月の美しい新緑の影で、女官たちはそれぞれの主のために、あるいは自身の生き残りのために、今日も笑顔の裏に鋭い針を隠し持っていた。華やかな衣の擦れる音が、まるで蛇の這う音のように、後宮の回廊に不気味に響き渡っていた。




