『獲物を狙う蜘蛛のように』
帝国歴306年6月。
初夏の瑞々しい青葉が、皇帝アラリックの治める帝都の宮廷を鮮やかに彩っていた。しかし、いくら眩い陽光が降り注ごうとも、巨大な後宮の奥深くにまでその温かさが届くことはない。そこは、大人の野心と嫉妬、そして静かな執念が冷たく渦巻く伏魔殿であった。
この地において、影のように動き、すべてを見届ける存在がいる。後宮に仕える宦官たちだ。
彼らは、主たちの権力闘争に巻き込まれぬよう細心の注意を払いながら、同時に、誰が次の覇権を握るのかを冷徹に見極めていた。少し前、宮廷の要職である尚書令に、第4皇子ロデリックの従兄であるトリスタン・フォン・ブライトクロイツが抜擢された。これにより、ロデリック親王派の権勢は一気に跳ね上がり、皇后ロザリアの実家であるシュタインベルク家をはじめとする各妃の実家は、大いに揺れ動いていた。その余波は、当然のように後宮の最末端にまで及んでいる。
後宮の出納や記録を管理する内侍省の薄暗い一室で、内侍監のカシアン・ヴァロアは、静かに帳簿をめくっていた。
今年で42歳になるカシアンは、一見すると覇気のない穏やかな人物に見える。背を少し丸め、誰に対しても腰が低く、目立たない地味な役職に長年就いていた男だ。しかしその実直さと、何よりも「口の堅さ」を皇帝アラリックに買われ、彼は内侍監という要職へ大出世を果たした。
トントン、と控えめなノックの音が部屋に響いた。
「カシアン様、よろしいでしょうか」
入ってきたのは、同じく内侍監を務めるギルバート・ウィンザーだった。ギルバートは、淑妃ブランシュ・ウィンザーの実家を後ろ盾に持つ、血筋の確かな宦官だ。
「おや、ギルバート殿。どうされましたか?」
カシアンは帳簿から顔を上げ、いつもの覇気のない笑みを浮かべた。
「徳妃の宮から、また追加の絹織物の要請が来ております。先月支給したばかりだというのに……。いささか贅沢が過ぎるのではないかと、下々の者が困惑しております」
ギルバートの言葉には、隠しきれない不快感が滲んでいた。
徳妃とは、今年1月に皇子を出産したばかりの18歳の少女、ルネッタ・リヴィエールのことだ。生後5ヶ月になるその皇子は、今や後宮の新しい台風の目であり、皇帝の寵愛も一手に集めている。
「ふむ、徳妃様ですか。若いお体で皇子を出産され、陛下も目をかけておいでですからな。多少の我が儘は、多めに見るのが我らの務めでしょう」
カシアンは穏やかに宥めるが、ギルバートの不満は収まらない。ギルバートが仕える淑妃ブランシュには、5歳になる皇子ビェラエルがいる。新興の徳妃が勢力を伸ばすことは、ウィンザー家にとっても、ギルバートにとっても面白くないのだ。
「しかし、徳妃様が昇格された裏で、ジゼル様が『昭容』へと降格された一件もございます。サヴォイア家を後ろ盾に持つ中郎将のバルトロメウス殿も、この件には不満を募らせているとか。後宮の均衡を崩すような振る舞いは、我ら宦官がそれとなく諌めるべきでは?」
「おやおや、恐ろしい。我らのような日陰者が、お妃様方の振る舞いに口を挟むなど、滅相もないことです」
カシアンは手を振って怯えてみせた。ギルバートは、この冴えない同僚の態度に内心で失望し、鼻を鳴らして部屋を去っていった。
一人残されたカシアンの顔から、一瞬にして「覇気のない笑み」が消え去った。
その瞳は、深淵のように冷たく、鋭い。
カシアンは中書令バザラード・ヴァロアの遠戚であり、その姪である賢妃ベアトリス・ヴァロアのために動く、後宮内の強力な「目と耳」であった。ギルバートが持ってきた不満、サヴォイア家の動向、それらすべてがカシアンの脳内で整理され、賢妃ベアトリスへと伝えるべき「情報」へと昇華されていく。
カシアンは席を立ち、初夏の風が吹き抜ける回廊へと出た。
遠くの庭園からは、賑やかな声が聞こえてくる。
そこでは、皇后ロザリアの生んだ4歳の皇子イスマと、7歳の皇女シルチュが侍女たちに囲まれて遊んでいた。イスマは正妻の子であり、現時点での皇位継承の筆頭だ。しかし、尚書令トリスタンの台頭により、皇后の実家シュタインベルク家は焦りを感じている。その焦りは、皇后に仕える宦官や侍女たちの、刺すようなピリピリとした空気からも伝わってきた。
その賑やかな庭園の片隅、静かな東屋で、第一皇子サンドルが一人で本を読んでいるのが見えた。
今年で6歳になる彼は、亡き元貴妃エレアノールの遺児だ。後ろ盾となる実母を早くに亡くしたサンドルは、幼いながらも己の立ち位置を理解し、あえて無欲で物静かな子供を演じている。
カシアンは、そのサンドルの様子をじっと観察していた。
「あの幼子、侮れんな……」
カシアンの勘が、そう告げていた。後ろ盾のない皇子が生き残るための、徹底した現実主義。それは、この後宮の暗部で生きる宦官たちの処世術にも似ていた。
その時、回廊の向こうから、一人の若い宦官が血相を変えて走ってきた。カシアンの部下である。
「カシアン様! 大変でございます。昭容の宮の近くで、徳妃様の宮へ運ばれるはずの漢方の包みが、破り捨てられているのが見つかりました!」
若い宦官の細い声は震えていた。
カシアンは眉を一つ動かしただけで、冷静に尋ねる。
「中身は?」
「……ただの滋養強壮の薬のようですが、包みには明らかに人の手で引きちぎられた跡が。そして、その近くを昭容のジゼル様が、恐ろしい顔でお通りになったと、下働きの者が目撃しております」
ジゼル・サヴォイア。ルネッタ(徳妃)と入れ替わりで降格された彼女の、怨恨の深さは誰もが知るところだ。
「ギルバート殿が言った通り、足元から火がつき始めていますね」
カシアンは小さく呟いた。
もしこれが、ただの嫌がらせではなく、いずれ徳妃やその生後5ヶ月の皇子への「呪詛」や「毒殺」へと発展すれば、後宮は大嵐に巻き込まれる。そして、その管理を怠ったとなれば、内侍省の宦官たちの首もいくつ飛ぶか分からない。
「その漢方は、すぐに片付けなさい。目撃した下働きの手口も封じることです。昭容様がそこを通られたという事実も、一切外へ漏らしてはなりません」
「は、はい! しかし、よろしいのですか? 徳妃様側へ報告を……」
「馬鹿者が」
カシアンは冷徹な声で一喝した。
「我ら宦官の役目は、火種を大きくすることではない。主たちの間で、都合よく立ち回るための札を握ることだ。この件は、私が賢妃様へお伝えする。お前はただ、何も見なかったことにすればいい」
若い宦官は、カシアンの放つ、普段の姿からは想像もつかない威圧感に気圧され、何度も頭を下げて去っていった。
後宮の宦官とは、自らの肉体を損なうことで、この女たちの園へ入ることを許された異端の存在だ。彼らには、誇るべき血統も、自らの子に継がせる未来もない。あるのは、今日を生き延び、より高い権力を握ることで得られる、歪んだ支配欲と安全だけだ。
そのためには、皇后のシュタインベルク家も、台頭するブライトクロイツ家も、すべては利用すべきチェスの駒に過ぎない。
カシアンは再び、覇気のない、穏やかな男の顔に戻った。
そして、何食わぬ顔で賢妃ベアトリスの宮へと向かうべく、歩みを進める。
6月の美しい青葉の間を抜ける風は心地よいが、カシアンの歩む回廊の影は、どこまでも黒く、長く伸びていた。後宮の夜は、これからさらに深く、冷たくなっていく。宦官たちはその闇の中で、息を潜め、次の獲物を狙う蜘蛛のように、静かに網を張り巡らせ続けるのだった。




