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『オーレリア戦記』  作者: りあと
『オーレリア戦記』帝国歴306年
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『孤独な少年』

帝国歴306年6月。初夏の瑞々しい青葉が、皇帝アラリックの治める帝都の宮廷を鮮やかに彩っていた。

しかし、華やかな外見とは裏腹に、広大な後宮に漂う空気はどこか張り詰めている。

少し前、宮廷の要職である尚書令に、第4皇子ロデリックの従兄であるトリスタン・フォン・ブライトクロイツが抜擢された。これにより、ロデリック親王派の権勢は一気に跳ね上がり、皇后ロザリアの実家であるシュタインベルク家をはじめとする各妃の実家は、大いに揺れ動いていた。

そんな大人の野心と警戒が交錯する後宮の片隅で、第一皇子サンドルは、静かに本を閉じた。

今年で6歳になる彼は、亡き元貴妃エレアノール・ボーフォールの遺児である。後ろ盾となる実母を早くに亡くしたサンドルは、幼いながらも己の立ち位置を理解していた。実母の爵位を継ぐ有力な後ろ盾がない彼にとって、後宮は一歩間違えれば底なしの沼となる。

「サンドル様、そろそろおやつの時間でございますよ」

声をかけたのは、内侍監のカシアン・ヴァロアだった。42歳になるカシアンは、一見すると覇気のない穏やかな人物に見える。しかしその実は、後宮のあらゆる秘密と醜聞を握る陰の権力者であり、姪である賢妃ベアトリス・ヴァロアのための「目と耳」として暗躍する男だった。

「ありがとう、カシアン。今日は何かな?」

「冷たく冷やした果実の蜜浸しでございます、皇子」

カシアンの細められた目の奥に、観察するような光があるのをサンドルは見逃さない。サンドルはただ無邪気な子供の笑みを返し、差し出された器に手を伸ばした。ここで少しでも聡明さや野心を覗かせれば、賢妃ベアトリス、ひいては中書令バザラード・ヴァロアの警戒を買うことになる。それは今のサンドルにとって、死を意味していた。

庭園に目を向けると、賑やかな声が聞こえてくる。

そこには、皇后ロザリアの生んだ4歳の皇子イスマと、7歳の皇女シルチュが侍女たちに囲まれて遊んでいた。イスマは正妻の子であり、現時点での皇位継承の筆頭。皇后の実家シュタインベルク家は、トリスタン・フォン・ブライトクロイツの台頭に焦りを感じているはずだ。それゆえに、イスマを見る皇后の目はいっそう厳しく、そして過保護になっている。

また、別の東屋では、淑妃ブランシュ・ウィンザーが5歳の皇子ビェラエルを愛おしそうに抱きしめていた。

さらに遠くの宮からは、今年1月に皇子を出産したばかりの若き徳妃、18歳のルネッタ・リヴィエールの笑い声が風に乗って運ばれてくる。生後5ヶ月になるその皇子は、今や後宮の新しい台風の目だ。

その影で、ルネッタと入れ替わりで「徳妃」から「昭容」へと降格されたジゼル・サヴォイア(21歳)が、苦い表情で遠くから徳妃の宮を睨みつけているのを、サンドルは知っていた。後宮の怨恨は、いつか鋭い刃となって誰かに突き刺さる。

「……賑やかだね」

サンドルがぽつりと言うと、カシアンは意味深に微笑んだ。

「左様でございますね。ですが、賑やかな庭ほど、足元の毒虫には気づきにくいものでございます。サンドル様のように、静かに本を読まれている方が、かえって安全なこともございますよ」

それは、大人しく牙を隠し続けていろという、警告を孕んだ忠告だった。

「うん。僕は本の中にいる方が楽しいよ」

サンドルはカシアンに微笑んでみせ、再び本を開いた。

実母を亡くし、孤独な第一皇子。しかし、彼の瞳は決して光を失ってはいない。今はただ、この激動の後宮という嵐が過ぎ去るのを待ち、己の力を蓄える時。

6歳のサンドルは、初夏の風に吹かれながら、静かに、しかし確実に、この張り詰めた後宮の空気を肌で感じ取っていた。

「……随分と熱心だな、サンドル」

不意に頭上から降ってきた低く威厳のある声に、サンドルは小さく肩を揺らした。

慌てて本から顔を上げ、椅子から滑り降りて礼をとる。そこに立っていたのは、豪奢な衣服を纏った29歳の若き皇帝、父アラリックであった。

「父上……。お健やかで何よりです」

「構わん、楽にせよ」

アラリックは軽く手を振ると、カシアンが素早く引いた椅子に腰を下ろした。内侍監のカシアンは、いつもの覇気のない穏やかな笑みを浮かべ、音もなく一礼して東屋の隅へと退く。その徹底した「口の堅さ」と気配の消し方こそ、皇帝が彼を大出世させた理由だった。

アラリックは、机の上に置かれた厚い歴史書に目を留めた。

「6歳にしては、いささか退屈な書物を読んでいるのだな。他の兄弟たちは、庭で駆け回っているというのに」

その言葉には、探るような響きが含まれていた。

今、宮廷内では尚書令に就任したトリスタン・フォン・ブライトクロイツの勢力が急伸し、皇后のシュタインベルク家をはじめとする各実家が激しく牽制し合っている。第一皇子でありながら後ろ盾を失ったサンドルが、どのような思想を持っているかは、皇帝としても見極める必要があった。

サンドルは努めて幼く、無害な笑みを浮かべて答えた。

「はい。お外は少し賑やかすぎるので、ここで昔の英雄たちのお話を読んでいる方が落ち着くのです。……僕は、身体を動かすのがあまり得意ではありませんから」

実母エレアノールを亡くしたサンドルにとって、己の「聡明さ」を誇示することは、賢妃ベアトリスや他の妃たちの警戒を誘うだけの愚策でしかない。徹底した現実主義者たちが蠢くこの後宮で生き残るため、彼は「物静かで無欲な子供」を演じ続けていた。

アラリックはしばらくサンドルの顔をじっと見つめていたが、やがてふっと口元を緩めた。

「そうか。お前の母親も、騒がしい場所より、静かに花を愛でるのを好む人間だった」

「……母上も、ですか?」

思わぬところで出た亡き母の名に、サンドルの胸が少しだけ締め付けられる。

「ああ。お前はその静かな瞳を、よく受け継いでいる」

アラリックはそう言うと、サンドルの小さな頭に大きな手を置いた。その手の温もりに、サンドルは一瞬だけ、大人の権力闘争を忘れ、純粋な父親の愛情を感じそうになる。

しかし、皇帝の次の言葉が、すぐに彼を現実に引き戻した。

「だがな、サンドル。この後宮という場所は、静寂を好む者ほど、周囲の嵐に巻き込まれやすい。お前が望むと望まざるとにかかわらず、お前は私の『第一皇子』なのだからな」

それは父親としての忠告であり、同時に、この帝国を統べる絶対者としての冷徹な現実の提示でもあった。

「……はい、父上。肝に銘じます」

サンドルは小さく、しかし真っ直ぐにアラリックの目を見返した。

まだ幼い我が子の、その一瞬だけ見せた芯の強い眼差しに、皇帝アラリックは興味深そうに目を細めるのだった。


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