『咲き誇る薔薇の庭園』
帝国歴306年5月。初夏の瑞々しい青葉が、大帝国の首都にある壮麗な宮殿を彩っていた。しかし、吹き抜ける薫風とは裏腹に、後宮の空気はひやりと張り詰めている。
若き皇帝アラリックが29歳にして統べるこの宮廷は、今、静かなる「世継ぎの嵐」の渦中にあった。
「――お健やかに育っておいでですね、徳妃様」
後宮の一角、咲き誇る薔薇の庭園を望む回廊で、内侍監のギルバート・ウィンザーが恭しく頭を下げた。その視線の先には、18歳という若さで徳妃の座に就いたルネッタ・リヴィエールと、彼女の胸に抱かれた生後五ヶ月の皇子がいる。
今年の1月に生まれたばかりの小さな命。その存在こそが、現在の後宮のパワーバランスを激変させた元凶であった。ルネッタは異母弟であるアルヴェリア親王イリアードの従妹であり、リヴィエール家の血を引く。彼女の台頭は、宮廷の重鎮たち、そして他の妃たちの心を激しく揺さぶっていた。
その様子を、少し離れた渡り廊下の陰から冷徹な眼差しで見つめる影があった。
「……忌々しい小娘め」
低く呟いたのは、昭容のジゼル・サヴォイアである。21歳の彼女は、かつて最高位に近い「徳妃」の座にいた。しかし、ルネッタとの入れ替わりによって現在の「昭容」へと降格させられた経緯がある。その胸中に渦巻く怨嗟の炎は、初夏の陽光を以てしても気圧せぬほどに昏かった。ジゼルの実家であるサヴォイア家は、禁軍の長である中郎将バルトロメウスを擁する武門。その誇りを傷つけられた怨みは、深く静かに沈殿している。
後宮の頂点に君臨する皇后ロザリアは、今年で25歳。皇帝アラリックの従妹であり、名門シュタインベルク家の正統たる血筋だ。彼女には、4歳になる正嫡の皇子イスマがいる。さらに、修道院で隠居しているとはいえ、太皇太后アデレード、皇太后ジュリエットという二代の権力者も同じシュタインベルクの女たちだ。盤石とも言える地位にありながらも、ロザリアの心休まる日はなかった。
なぜなら、後宮には他にも虎視眈々と機会を窺う妃たちがひしめき合っているからだ。
賢妃ベアトリス・ヴァロア(24歳)は、中書令バザラード・ヴァロアの係累。
淑妃ブランシュ・ウィンザー(23歳)は、5歳になる皇子ビェラエルを育て、実家は内侍監ギルバートに繋がる。
恵妃マチルダ・デル・ペーレ(22歳)の後ろ盾は、近衛軍団軍団長レイナルドだ。
そして、親衛隊長バルドゥイン・ダキタニアの娘である昭儀イザベル(19歳)も、若さと実家の武力を背景にその存在感を増しつつある。
軍事を統括する太尉ヴァレリオ・フォン・ボルゲーゼが率いる正規軍、近衛軍、禁軍、そして皇帝直轄の親衛隊。それぞれの武官たちの思惑が、妃たちの背後で複雑に絡み合っていた。
その頃、政務を執る宮殿の奥深くに、三公の一角である司徒マートル・フォン・ブライトクロイツの姿があった。民政と内政を統括する彼は、第4皇子であるソブリナ親王ロデリックの叔父にあたる。
マートルは、土木や国家事業を統括する司空ベアトリクス・フォン・オルデンブルクと、静かに視線を交わした。
「徳妃の皇子誕生から五ヶ月……。そろそろ、水面下の動きが表に現れる頃合いですな」
「うむ。皇帝陛下のご年齢を考えても、次の権力闘争は避けられまい。特にアルヴェリア親王イリアード様と、ソブリナ親王ロデリック様の動向からは目が離せんな」
皇帝アラリックの異母弟たちは、それぞれが油断ならない実力と血統を持っている。アルヴェリア親王イリアード、ソブリナ親王ロデリック、そしてアーカル親王ジョシア。彼ら皇弟たちの存在もまた、宮廷の天秤を複雑に傾けさせていた。
夕刻、皇帝アラリックは侍中ゲオルグ・フォン・フェルゼンを伴い、静かに自らの執務室へと戻った。
29歳の若き統治者の瞳は、冷徹で、すべてを見通しているかのように深い。
「ゲオルグ。後宮が騒がしいな」
「はっ。徳妃様の皇子誕生に伴い、サヴォイア家やダキタニア家、そしてウィンザー家に動きが見られます。皇后陛下も、少なからず警戒を強めておいでかと」
アラリックは窓の外、夕闇に染まりゆく広大な宮廷を見下ろした。
誰もが己の血脈を、己の権力を残そうと躍起になっている。だが、この帝国の主は未だ自分だ。
「踊りたい奴らには、踊らせておけばいい」
皇帝の唇が、酷薄な笑みを刻んだ。
帝国歴306年5月。美しくも残酷な季節の変わり目。
栄華を極める宮廷の床下では、一触即発の権力闘争という名の、底なしの沼が広がっていた。




