オーレリア外伝『アクアパレスの人々』その21
煌めく水の都、アクアパレス。かつて泥濘たる湿地であったこの地は、張り巡らされた網の目のごとき
水路群と太い大運河によって、今や帝国内でも有数の物資と富が行き交う経済の要衝となっていた。
燦々と降り注ぐ陽光が水面を照らし、さざ波が煌びやかな黄金の鱗のように揺れている。
その親王府の静謐なる一室で、ベルナデットは整然と整理された書類の山を前に、完璧な手際でペンを
走らせていた。彼女はアルヴェリア親王妃リゼリアの侍女であり、御年二十歳。その仕事ぶりは正確無比
にして一切の隙がなく、周囲からは「完璧なる侍女」と讃えられていた。リヴィエールの血を引く彼女
は、人知れず特殊な異能の力をも秘めている。だが、その能力を鼻にかけることなど一切なく、日々の
職務を冷徹なまでの誠実さで遂行していた。
「ベルナデット。少し手を止めて、こちらに来てくださる?」
澄んだ鈴の音のような声が部屋に響いた。声をかけたのは、リゼリアである。艶やかな髪と知性あふれる瞳を持つリゼリアは、念話や予知といった異能を有する高貴な女性でありながら、侍女たちに対してはどこまでも温かい慈愛をもって接していた。
「はい、リゼリア様。どのようなご用件でしょうか」
ベルナデットは即座にペンを置き、姿勢を正して一礼した。乱れのない完璧な所作である。リゼリアは
小さく微笑むと、机の上に置かれた一枚の美しい装丁が施された書簡を指で軽く突いた。
「実はね、貴女に話しておきたいお見合いのお話しがあるの」
「お見合い……でございますか?」
完璧さを誇るベルナデットの表情に、かすかな揺らぎが生じた。彼女にとって仕事や異能の制御、ある
いは主君への忠誠といった事柄は計算通りの領域であったが、「自身の結婚」という話題は完全に想定
外の領域であった。
「ええ。お相手はリヴィエール商会の若旦那となった、レオン・リヴィエール殿よ。ロゼッタの兄上に当たる方だわ。商会の未来を担う非常に優秀で誠実な青年だと聞いているわ。どうかしら、ベルナデット。一度、お会いしてみない?」
「私などにそのような勿体ないお話し……。ですが、リゼリア様がお決めになられたことであれば、
私に否はございません」
「ふふ、断っても構わないのよ? でもね、貴女はいつも自分のことよりも私や親王府のことを最優先
にしてくれるでしょう。たまには一人の女性としての幸せに目を向けても良いと思うの。これは命令では
なく、私からの提案よ」
リゼリアの温かな眼差しに包まれ、ベルナデットは胸の奥が微かに熱くなるのを感じた。彼女の予知
や念視の力を持つ主が薦めるのであれば、そこにはきっと何らかの意味があるのだろう。ベルナデット
は静かに頭を下げた。
「感謝いたします、リゼリア様。謹んでお受けいたします」
◇
お見合いの日取りは、数日後の午後に決まった。場所はアクアパレスの中心部を臨む、見晴らしの良い
高級料亭の離れである。庭園には清らかな水路が引き込まれており、色とりどりの錦鯉が優雅に泳いで
いた。
ベルナデットは、普段の侍女服ではなく、落ち着いた紺青色のしとやかなドレスに身を包んでいた。髪
も綺麗に結い上げられ、その凛とした美しさがより一層際立っている。
「ベルナデットさん、本当に綺麗ですよ! お兄ちゃん、きっと驚いて目を見張るに違いありません
わ!」
準備を手伝ったロゼッタが、はしゃいだ声を上げた。彼女はセシリアの侍女であり、今回の相手であ
るレオンの実妹でもある。18歳の彼女は天真爛漫な笑みを浮かべ、念話や予知の力を持つ耳ざとい少女
らしく、あれこれと兄の評判をベルナデットに語り聞かせていた。
「ロゼッタ、あまりお戯れを。私はただ、失礼のないよう努めるだけです」
「もう、相変わらず堅いんだから。でもね、お兄ちゃんもすごく緊張しているみたいですよ。今朝な
んて、ネクタイを三回も締め直していましたもの」
ロゼッタのクスクスという笑い声に送られ、ベルナデットは部屋の扉を開けた。そこに待っていたの
は、一人の若き青年であった。
「初めまして、ベルナデット様。レオン・リヴィエールと申します」
立ち上がり、深々と頭を下げた青年――レオンは、立ち姿の美しい人物であった。リヴィエール商会を
背負う若旦那らしく、洗練された身なりと品格を漂わせているが、その瞳には誠実さと、ロゼッタの言っ
た通りのわずかな緊張の色が浮かんでいた。
「初めまして、レオン様。リゼリア様に仕えております、ベルナデットと申します。本日はお時間をい
ただき、誠にありがとうございます」
互いに着席し、静かに茶が運ばれてきた。最初はどこかぎこちない空気が漂っていた。完璧主義者の
ベルナデットは、失言のないよう慎重に言葉を選び、レオンもまた気品ある彼女を前にして少々気押され
ている様子であった。
しかし、会話が進むにつれて、その空気は次第に和らいでいった。話題が親王領の物産や経済の流通に
及ぶと、レオンの瞳に熱が宿った。
「アクアパレスの蓮根や里芋の流通経路については、水路の拡充に伴い非常に効率化されました。です
が、南部のフルヴィアルトで生産されるガラス製品や綿花の輸送に関しては、時期による水路の水量変化
に左右される点が課題となっております」
「左様でございますね。親王府の記録におきましても、干ばつの時期には南部の物資滞留が報告され
ております。もし、大運河側からの定期船の回数と連動させることができれば、損失を最小限に抑えられ
るかと存じます」
「……素晴らしい。まさにその通りなのです! ベルナデット様は、単に書類の整理をされているだけ
でなく、実物流通の本質を正確にご理解されているのですね」
レオンは感嘆の声を上げた。彼の言葉に嘘偽りはなく、真底からベルナデットの知性と洞察力に敬意を
払っていることが伝わってきた。ベルナデットもまた、単なる商人の息子にとどまらないレオンの広い視
野と、領民の暮らしまで見据えた商売に対する誠実な姿勢に、深い感銘を受けていた。
リヴィエールの一族として、内に秘めた異能の力を持つ者同士、言葉の端々に共通する鋭い感覚や波長
のようなものが存在していたのかもしれない。互いに言葉を交わすたび、胸のつかえが取れ、自然と笑
みがこぼれた。
「ベルナデット様。私は、商会の代表として忙しい日々を送っておりますが、今日こうして貴女
とお会いできたことを、心から嬉しく思っております。もし叶うならば……またこのようにお話しする機
会をいただけないでしょうか」
レオンの真摯な眼差しが、ベルナデットの瞳をまっすぐに見つめた。そこには虚飾も打算もなく、ただ
一人の女性に対する純粋な情愛と敬意が込められていた。
ベルナデットは一瞬、息をのんだ。これまで彼女の心を満たしていたのは、侍女としての完璧な義務
感と規律だけであった。しかし今、その胸の中に、温かく心地よい小さな灯火がともったのを感じてい
た。
「……はい、レオン様。私でよろしければ、喜んでお供させていただきます」
ベルナデットの唇から、小さな、しかし心からの笑みがこぼれ落ちた。その微笑みは、普段の隙のな
い「完璧な侍女」の顔ではなく、年相応の可憐な一人の少女のものであった。レオンはその笑顔に見と
れ、ぱっと顔をほころばせた。
◇
親王府への帰り道、水路を渡る風がベルナデットの頬を優しく撫でた。夕暮れどきのアクアパレスは、
茜色と紫紺が混ざり合う幻想的な光に包まれていた。
「ふふ、とっても雰囲気が良かったみたいですね」
隣を歩くロゼッタが、意味深な笑みを浮かべながら覗き込んできた。念視の力で覗き見たりはしてい
ないと言っていたが、表情を見れば一目瞭然なのだろう。
「ロゼッタ、あまりからかわないでください」
「からかっていませんよ。お兄ちゃん、帰りがけに『本当に素晴らしくて美しい方だ』って、興奮気
味に私に念話で送ってきたんですから!」
「まあ……」
ベルナデットは頬が朱に染まるのを感じ、咄嗟に顔を背けた。だが、その足取りはいつになく軽やか
であった。
執務室に戻ると、リゼリアが温かなお茶を用意して待っていた。親王妃でありながら、気さくに侍女
を迎えるその姿に、ベルナデットは改めて深く一礼した。
「お帰りなさい、ベルナデット。良いお時間が過ごせたようね」
「はい、リゼリア様。このような素晴らしい機会を賜り、誠にありがとうございました。レオン様は
大変誠実で、思慮深いお方でございました」
リゼリアは満足そうに頷き、優しく目を細めた。
「良かったわ。貴女が誰かと心を通わせ、笑顔を見せてくれることが、私にとっても何よりの喜びなの
よ。焦る必要はありません。じっくりと二人の絆を育んでいきなさいね」
「感謝申し上げます、リゼリア様」
窓の外には、水都アクアパレスの美しい夜景が広がり始めている。輝く水面を照らす街灯の光のよう
に、ベルナデットの心にも新しく不確かな光が灯っていたのであった。




