オーレリア外伝『アクアパレスの人々』その20
オーレリア帝国東南部に広がるアルヴェリア親王領。太い水路が縦横無尽にはしり、緑と豊かな水の恵みに満ちたこの広大な地域は、中心都市アクアパレスをはじめとする幾つもの街を抱え、帝国屈指の経済地域として発展を続けている。
その膨大な行政、財政、そして領民の暮らしのすべてを陰で支える男がいた。アルヴェリア親王領副代官、マグナス・クレインである。
今年で六十手前を迎えるマグナスは、実質的にこの親王領という「一国」の宰相と言っても過言ではない男だった。かつて先帝が、まだわずか十七歳であったイリアード親王のために「この男がいれば領政に憂いなし」と与えた有能極まりない文官である。
昨年に至るまで、イリアード親王が様々な任務や事情で不在がちであった際も、マグナスはこの広大な湿地を切り拓いた水路網の維持から、ソルトラグーンの塩の生産調整、フルヴィアルトのガラス工芸や綿花の取引取りまとめ、大運河に面するアルヴェリア港の物流管理に至るまで、そのすべてを一手に背負い込み、不眠不休で奮闘し続けてきた。
「マグナス様、北西部の大運河より米と小麦の輸送計画書が届いております! 確認を!」
「マグナス様、ソルトラグーンの採塩業者から、泥炭の追加発注に関する認可申請です!」
「マグナス様、フルヴィアルトからの綿花取引の関税について、商組合が調整を求めております!」
親王府の執務室は、朝から書類の山と執務官たちの飛び交う声で怒涛の如き惨状を呈していた。
デスクの真ん中に鎮座するマグナスは、白髪の交じる眉根をぎゅっと寄せ、老眼鏡の奥の鋭い瞳で目にも留まらぬ速さで書類に署名と検印を捺していた。
「大運河の輸送量は昨年の二割増しで許可を出せ。ただし水路の渋滞を避けるため、通過時刻はロゼッタ殿の気象予測と照らし合わせて夜間に分散させろ。ソルトラグーンの泥炭は、北部の掘削事業から直ちに追加分を回すように手配済みだ。綿花の関税は現行維持、その代わり港での保管料を半月免除する旨を伝えよ!」
「は、はいっ! 直ちに!」
次々と指令を飛ばすその手腕は、御年六十近くなろうとは到底思えぬ冴え渡りぶりだった。
しかし、指示を出し終えた瞬間、マグナスは誰も見ていない隙を突いて「ふぅ……」と深々と重い溜息を吐き出し、痛む腰を摩った。
(やれやれ……今年は殊のほか体に響くわい)
それもそのはずであった。今年のアクアパレス親王府は、まさに未曽有の「おめでたい大多忙」に見舞われていたのである。
春、イリアードの正妻であるリゼリア親王妃と、側室のセシリアが、揃って無事に出産した。待望の王子リアム様と、王女ルシア様の誕生である。親王領全体が歓喜に沸き立ち、連日の祝賀行事と領民への賜り物の手配だけでも気が遠くなるほどの仕事量が発生した。
本来であれば、知性に長けたリゼリアや、行動力に溢れるセシリアが政務の助力を申し出てくださる場面もあったのだが、今は二人とも産後の大切な体である。幼い王子と王女の育児に専念してもらうため、二人に頼るわけには絶対にいかない。
さらには、完璧主義者の侍女ベルナデットも、ロゼッタも、エミーナも、総出で赤ん坊たちの護衛と身の回りのお世話、そして母親たちのケアにかかりきりであった。
「……つまり、政務のシワ寄せがすべて私のもとへ雪崩れ込んできているということだな」
マグナスは乾いた笑いを漏らした。
親王イリアードも父親としての自覚を胸に政務へと向き合ってはいるものの、何しろ相手は生まれたばかりの愛くるしい我が子である。執務の合間に「ちょっとリアムの顔を見てくる」「ルシアが笑ったんだ!」と席を外そうとする親王を、マグナスは「いけません、殿下!この予算書に署名するまでは一歩もここを出させません!」と襟首を掴む勢いで引き留める日々だった。
そんな折、執務室の重厚な扉が静かに開いた。
「マグナス、入っても良いかい?」
入ってきたのは、当の親王イリアードだった。手には木製の小さなトレイが乗せられている。
「殿下。どのようなご用件でしょうか。まさか『またルシア様が物を浮かべた』などという理由で執務を放り出してきたわけではありませぬな?」
マグナスがジロリと老眼鏡越しに睨むと、イリアードは苦笑いを浮かべて手を振った。
「失礼だなあ。今日はちゃんとお仕事の進捗の報告と……まあ、これを持って来たんだよ」
イリアードがデスクの上に置いたのは、温かな湯気が立ち上る一杯のお茶と、アクアパレス特産の蓮根とアブラナの菜種油を使って香ばしく焼き上げられた、出来立ての小菓子だった。
「リゼリアとセシリアからだよ。『マグナス殿にばかりご苦労をかけて申し訳ない』と言ってね。ベルナデットたちに手伝ってもらって、夜食を用意してくれたんだ」
「親王妃様と、セシリア様が……」
マグナスは拍子抜けしたように目を丸くした。
「二人が言うにはね、マグナス。君は先帝陛下から私に下された、アルヴェリアの『大黒柱』だ。君が倒れてしまったら、リアムもルシアも、この親王領の未来も立ち行かなくなる。だから、たまには茶でも飲んで息を抜きなさい、とね」
イリアードはそう言って、マグナスのデスクの端に置かれた山積みの書類を自らの手元へ引き寄せた。
「ここからの半分の決済は私が引き受けるよ。私だって、もう二人の子の父親なんだ。いつまでも君の背中に甘えてばかりはいられないからね」
イリアードの真っ直ぐで力強い言葉に、マグナスは一瞬呆気にとられ、それから深々としわの刻まれた顔を綻ばせた。
先帝から預かった時は、わずか十七歳だった頼りない少年だった。それが今や、立派に一国の領主として、そして二人の子の父親として、たくましく自分の足で立っている。
「……ハッ。殿下。少しは見直しましたぞ。ですが、この書類の三ページ目の治水予算、計算が一桁間違っております」
「えっ!? 本当に!? どこだ……あ、本当だ……」
頭を抱える若い親王の姿に、マグナスはクスリと笑いを漏らした。
温かいお茶を口に含む。絶妙な香りと、香ばしい菓子の甘みが、疲れ切った五臓六腑にしみ渡っていくようだった。
「マグナス、いつも本当にありがとう。君がこのアルヴェリアを守り続けてくれたからこそ、私はリゼリアやセシリアと出会い、リアムやルシアを抱くことができたんだ」
イリアードの心からの言葉に、マグナスは胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……何を今更、気恥ずかしいことをおっしゃいますか。私は先帝陛下との約束を果たしているだけに過ぎませぬ。それに……」
マグナスは立ち上がり、窓の外を見やった。
夜のアクアパレスの街並みが広がり、縦横無尽に走る水路には灯籠の明かりが美しく揺れている。フルヴィアルトのガラス工芸、ソルトラグーンの白き塩、北部の泥炭、大運河を行き交う物資の船。すべてが豊かに循環し、人々の笑い声が聞こえてくるような、美しい水の都。
「この豊かなアルヴェリア親王領の繁栄と、新しくお生まれになったリアム様、ルシア様の健やかなご成長を見届けるためでしたら……六十の手習い、いくらでも馬車馬の如く働いて見せますとも」
「ははは! 頼もしいけれど、程々にしてくれよ? 君に倒れられたら私が困るんだから」
イリアードとマグナスは、顔を見合わせて朗らかに笑い合った。
老文官の肩には、今日もズッシリと重い政務の重圧がのしかかっている。しかしその表情には、一切の陰りはなかった。
愛する親王と、その大切な家族、そしてこの親王領に暮らす何万もの領民の笑顔を守るため。老練なる副代官マグナス・クレインは、今宵もペンを手に取り、頼もしい背中を丸めながら、未来を紡ぐ政務へと向き合い続けるのであった。




