オーレリア外伝『アクアパレスの人々』その17
オーレリア帝国の帝都――その中心にそびえる重厚かつ絢爛な後宮の奥深くから、春を告げる一番風よりも早く、おめでたい報せがアルヴェリア親王領のアクアパレスへと届いた。
皇帝アラリックの側室であり、今年十八歳を迎えた徳妃ルネッタ・リヴィエールが無事に第一皇子を出産したという早馬の報である。
ルネッタは、アルヴェリア親王イリアードにとっても、その妃であるリゼリアや側室のセシリアにとっても大切な従妹にあたる。リヴィエール家の血を引く彼女は、まだあどけなさの残る少女の身でありながら、帝都の後宮という渦巻く野心と陰謀の渦中に身を投じていた。
「……よかった。本当に……無事だったのね……!」
アクアパレスの離宮で手紙を受け取ったセシリアは、胸に手を当てて大きく息を吐き出した。その目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
念動や念力といった力強い異能を持つセシリアだが、遠く離れた帝都にいる実の妹・ルネッタの身の上ばかりは、どれほど案じても直接手を出して守ってやることはできなかった。陰謀渦巻く後宮で、若くして皇子を身ごもった妹がどれほど孤独で恐ろしい思いをしてきたか。セシリア自身も現在、お腹に新たな命を宿しているからこそ、その苦労と不安が痛いほど胸にしみていたのだ。
「セシリア、安心しなさい。ルネッタは立派に大役を果たしたわ」
傍らに座るリゼリアが、優しくセシリアの肩を抱き寄せた。リゼリアもお腹の大きな妊婦であり、同じく従妹であるルネッタの無事の報せに心を撫で下ろしていた。
「ええ、リゼリア姉様。昭容から徳妃へと位が進み、帝都の後宮でしっかりと自分の足で立っていたのだと分かっていても……やはり無事にお産を終えるまでは心配でたまりませんでした」
「ふふ、ルネッタは幼い頃から芯の強い子だったけれど、今や一国の皇子のお母上だものね。……ねえ、セシリア。手紙の返事を書くのも良いけれど、今すぐ私たちの声を届けてあげない?」
リゼリアが神秘的な紫水晶のような瞳を細めると、セシリアは顔を上げた。
「念話……ですね」
リヴィエール家に生まれる女性たちは、それぞれの内に特別な異能の力を秘めている。リゼリアとセシリアの侍女であるロゼッタの力としても知られる「念話」の術――離れた場所にいる者と、心と心で直接言葉を交わす力。
「ええ。帝都とこのアクアパレスははるかに離れているけれど、私とあなたの二人で深く意識を集中させ、ルネッタへ繋ぎましょう。きっと、あの子も私たちの声を待っているわ」
「はい、リゼリア姉様!」
二人は静かに目を閉じ、胸の前で互いの手を固く繋ぎ合わせた。
アクアパレスの豊かな水面が光を反射させるように、二人の精神が波紋となって広がり始める。リゼリアの持つ深く澄み渡った念視と念話の波動が軸となり、セシリアの強い念力がそれを補強して遠く北の帝都へと伸ばされていく。
距離を超え、幾重もの城壁を越え、帝都後宮の深奥にある豪華な寝所へと、二人の意識は滑り込んでいった。
◇
帝都・後宮の徳妃宮。
豪華な天蓋付きのベッドの上で、十八歳になったばかりの徳妃ルネッタは、疲れ果てた身体を横たえていた。その腕の中には、生まれたばかりの小さな、愛おしい熱塊――赤ん坊が静かな寝息を立てている。
無事に皇子を産み落とし、皇帝からも周囲からも祝福されたものの、後宮の冷ややかな空気と出産の激しい疲労に、彼女の心はどこかすり減っていた。
(お姉様……イリアード兄様……)
遠く離れたアルヴェリアの温かな風と、故郷の家族たちの笑顔が恋しくてたまらなくなった、その時だった。
『――ルネッタ』
ふっと、脳裏に優しく温かな鈴の音のような声が響いた。
『……! この声は……リゼリア姉様……?』
『ルネッタ! 私よ、セシリアよ! 聞こえる!?』
続いて響いたのは、感情を抑えきれない、少し泣きじゃくるような大好きな姉の声だった。
「あ……お姉様……!」
ルネッタは思わず声に出しそうになり、慌てて口を噤んだ。侍女たちに見咎められぬよう心の中で深く問いかける。
『お姉様! リゼリア姉様! どうして……念話で繋がってくださったのですか!?』
『早馬で報せが届いたのよ。無事に男の子を出産したと聞いて、居ても立っても居られなくてね』
リゼリアの穏やかで慈愛に満ちた念話が、ルネッタの疲れた心を優しく包み込んでいく。
『ルネッタ、本当に、本当によく頑張ったわね……! 無事だと聞いて、私、どれほど安堵したか……!』
セシリアの情熱的な念話には、溢れんばかりの姉愛が込められていた。
『お姉様……私、怖かった……。後宮の中は味方ばかりではないし、無事にこの子を産み落とせるかどうか、毎日が不安で……。でも、アルヴェリアの皆様が応援してくださっていると思って、必死で耐えたのです』
心の中で語りかけながら、ルネッタの瞳からボロボロと大きな涙がこぼれ落ちた。後宮に入ってから決して見せまいと突っぱねていた弱音が、大好きな身内とつながった瞬間に一気に溢れ出したのだ。
『ええ、分かっているわ、ルネッタ。あなたは一人の徳妃として、本当に立派に勤め上げたわ。……見てごらんなさい、あなたの抱いているその小さな命を。あなたが守り抜いたのよ』
リゼリアの声に促され、ルネッタは胸の中の小さな赤ん坊を見つめた。赤ん坊は母親の涙に気づいたのか、小さな手をうーんとお気気に伸ばしている。
『ルネッタ、イリアード兄様もとても喜んでいらっしゃるわ。「叔父になったのか!」って、朝から大騒ぎして親王府の書類を引っくり返していたくらいよ』
セシリアの言葉に、ルネッタは思わずクスリと笑いを漏らした。イリアードの朗らかな笑顔が目に浮かぶようだ。
『ふふ、イリアード兄様らしいですわ。……お二人もお体は大丈夫ですか? 春には赤ちゃんがお生まれになるのでしょう?』
『ええ、おかげさまで順調よ。イリアード兄様が毎日張り切って名前を考えてくださっているの。今日はフレデリカ様が「男の子と女の子よ!」ってフライングで教えてくださってね……ふふ』
『まあ! それはとても賑やかで素敵な春になりそうですね』
遠く離れた帝都とアクアパレス。けれど念話を通じて繋がる三人の心は、まるで同じ部屋で額を突き合わせて笑い合っているかのように近かった。
『ルネッタ。あなたはもう一人ではないわ。立派な皇子の母であり、帝国の徳妃よ。けれど、辛い時はいつだって私たちを頼りなさい。リヴィエールの一族の絆は、どんなに離れていても断ち切れるものではないのだから』
リゼリアの力強くも優しい言葉が、ルネッタの心に深く温かい光を灯す。
『ありがとう……リゼリア姉様、セシリア姉様。私、この子を大切に育てます。いつか……この子が少し大きくなったら、アルヴェリアの水の都を見せてあげたいです』
『ええ、いつでも待っているわ。アクアパレスの美味しい蓮根や里芋酒、ソルトラグーンの綺麗なお塩を用意して、最高の祝宴を開くわね』
セシリアの明るい声に、ルネッタは深く深く頷いた。
『お二人も、どうかお体を大切になさってくださいね。元気な赤ちゃんが生まれてくることを、帝都から祈っています』
『ええ、ありがとうルネッタ。本当におめでとう』
『おめでとう、私の可愛い妹』
念話の波がゆっくりと引いていき、二人の温かな温もりの余韻を残して静かに途切れた。
ふっと静寂が戻った後宮の寝所で、ルネッタは涙を拭い、抱きしめた赤ん坊の頬にそっと唇を寄せた。
不安と孤独は消え去っていた。胸を満たしているのは、遠くアルヴェリアから届いた家族の愛と、母としての誇りだ。
「……良い子ね。あなたには、こんなにも温かい伯母様たちがついているのよ」
窓の外を見上げれば、澄み切った空の向こうに、豊かに輝く水の都アクアパレスの光景が見える気がした。徳妃ルネッタは我が子を抱く腕にそっと力を込め、新しく始まった母としての道へと、強く確かな一歩を踏み出すのだった。




