オーレリア外伝『アクアパレスの人々』その18
アルヴェリア親王領に、待ち望んだ春が訪れた。
冬の寒気はすっかりと押し流され、中心都市アクアパレスを縦横無尽に走る水路網は、爛漫と咲き誇る菜の花の黄色と、芽吹く緑を映して光り輝いている。南部のフルヴィアルトからは柔らかな綿花の風が吹き抜け、ソルトラグーンの塩田も春の陽光を照り返していた。
水の都全体が生命の喜びに満ちあふれる中、親王府の離宮は異質な緊迫感に包まれていた。
正妻のリゼリアと、側室のセシリア。二人は揃って臨月を迎え、いつ陣痛が始まってもおかしくない状態にあった。だが、周囲の侍女たちや医師たちが息をのんでいたのは、単に出産が近いからだけではない。
「……セシリア、感じるでしょう?」
離宮の陽だまりの中で、リゼリアが自分のお腹をかばいながら、隣のベッドに横たわるセシリアを見つめた。
「ええ、リゼリア姉様。……私のお腹の中から、抑えきれないほどの『力』が溢れ出してきています」
セシリアは少し蒼白な顔で、しかし愛おしそうに大きく膨らんだ自らのお腹をさすった。
リヴィエール家の一族の血を引く二人は、生まれながらにして常人を遥かに超える異能を有している。リゼリアは念話や念視、予知を司り、セシリアは念動や念力、そして無から有を生み出す念創の力をその身に宿していた。
その二人が肌で感じていたのは、ただならぬ強力な異能の波動だった。
それは、まだ見ぬ赤ん坊――セシリアのお腹の中に宿る小さな命から発せられているものだった。生まれ落ちる前から、母親であるセシリアの強力な念動や念力を引き継ぎ、あるいはそれを超えるほどの圧倒的な念波が、うねりのように部屋全体を揺らしていたのだ。部屋に飾られたフルヴィアルト製のガラス花器が、赤ん坊の鼓動に同調するようにかすかに鳴動している。
「これほどの力を……生まれたての幼子が放つなんて」
侍女として控えていた完璧主義者のベルナデットでさえ、額に冷や汗を浮かべて緊張を隠せずにいた。同じく異能を持つ十八歳のロゼッタとエミーナも、息を殺してその波動の渦を見守っている。
「二人とも、予想通り……出産の始まりはセシリアからですね」
ロゼッタが予知の力をかすかに働かせ、静かに告げた。
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、セシリアの表情が劇的に強張った。
「くっ……! あああっ……!」
激しい陣痛がセシリアを襲う。
「セシリア!」
イリアード親王が駆けつけ、彼女の手を固く握りしめた。
初産であり、しかもこれほど強力な異能の波動を放つ子だ。産婆も医師も、そしてイリアードも、難産になることを覚悟していた。胎児の持つ強大すぎる力が母体に負担をかけ、お産を阻むのではないかと誰もが危惧したのだ。
しかし、事態は誰もが予想しなかった方向へと展開した。
「あ、アアアッ――!」
セシリアが短く叫び声をあげた、まさに次の瞬間だった。
ドォン! と、空間そのものが跳ね上がるような目に見えぬ波動が部屋の中央で弾けた。
重厚な木製の扉がガタガタと激しく揺れ、室内の燭台の火が一斉にゆらめく。セシリアのお腹から解き放たれた強烈な「念力」が、まるで産道をみずから力ずくで押し開き、世界の表側へと飛び出そうとするかのように作用したのだ。
「なっ……!?」
イリアードが目を見開く暇すらなかった。難産どころか、陣痛の始まりから驚くべき早さで、まるで弾丸のように、しかし母体を傷つけることなく完璧な力加減で、赤ん坊が外へと滑り出てきたのである。
「オギャアアアアッ! オギャアアアアッ!」
産声が部屋いっぱいに響き渡る。
「う、生まれた……! 女の赤子です!」
産婆が狂喜と動揺の混ざった声で叫んだ。一月の時点でイリアードの母フレデリカが予知した通り、セシリアが産み落としたのは愛らしい女の子だった。
だが、抱き上げられた赤ん坊の周りでは、依然としてあり得ない現象が起きていた。
赤ん坊が小さな手をひと振ると、バサバサッと産着の布が空中を舞い上がり、テーブルの上の水差しがフワリと浮き上がる。生まれたその瞬間に、自らの「念動」の力を本能のまま発散させているのだ。
その光景を目にしたリゼリアとセシリアは、我が子の無事への安堵とともに、背筋に冷たいものが走るような、どこか「恐ろしさ」さえ覚える圧倒的な才能の片鱗を感じ取っていた。
(この子は……成長した時、どれほど強大な異能の持ち主になるというの……?)
自分の娘でありながら、その潜在能力の底知れなさに一瞬だけ気押されるセシリア。イリアードもまた、浮かび上がる小物を呆然と見つめていた。
だが、驚愕に浸る時間は与えられなかった。
「……うっ……! あ……イリアード様……!」
今度はリゼリアが、自分の腹部を押さえて小さくうめき声を漏らした。
セシリアの赤ん坊が放った凄まじい異能の波動に誘発されるようにして、リゼリアのお腹の男の子もまた、「自分も出ていくのだ」と言わんばかりに力強く暴れ始めたのだ。
「リゼリア姉様……!」
汗に濡れたセシリアが、生まれたての我が子を抱きながら叫ぶ。
「大丈夫よ、セシリア……。私も……続けなきゃね」
リゼリアが毅然とした笑みを浮かべる。彼女のお腹からは、セシリアの子のような激しい物理的波動ではなく、静かで、しかしどこまでもどこまでも深く広がる、神秘的な精神の波動が溢れ出し始めていた。
「皆、動揺を捨てろ! リゼリアの出産に取りかかるんだ!」
イリアードの力強い一声で、混乱しかけていた室内が再び引き締められた。
ベルナデットとエミーナが素早くセシリアと赤ん坊を隣のベッドへ移し、温かいお湯を用意する。ロゼッタはリゼリアの手に寄り添い、念話の波動を同調させて痛みを和らげようと試みた。
「リゼリア様、呼吸を合わせてください。男の子です。アルヴェリアの未来を担う、強く優しい若君です!」
「ええ……っ……ふぅーっ……!」
リゼリアが息を整える。彼女のお腹から放たれる「念視」と「予知」の波動は、部屋にいる者たちの脳裏に、かすかな光の粒子となって届いた。
それは、満開の菜の花畑、きらめく大運河、そして豊かに栄える未来のアクアパレスの情景だった。赤ん坊が見せているのか、母であるリゼリアが見せているのか分からぬほどに溶け合った温かな未来のヴィジョン。セシリアの子が見せた「恐ろしさ」とは対照的な、すべてを包み込むような絶大な「慈愛」の力だった。
「んっ……あぁぁぁっ!」
二度目の陣痛の波が押し寄せる。リゼリアはイリアードの手を強く握りしめた。
「リゼリア! 私がついている! 頑張れ!」
「イリアード……様……!」
春の風が離宮の窓を揺らし、アルヴェリアの豊かな水の気流が部屋の中へと流れ込んでくる。
セシリアの産んだ女の子の「絶対的な力」と、リゼリアの産もうとしている男の子の「絶対的な知恵と調和」。二つの異能の粒子が空間で交差し、まるで互いを称え合うように優しく共鳴し合った。
「頭が見えました! あとひと息です、リゼリア様!」
産婆の声が響く。
離宮の外では、アクアパレスの街に春の正午を告げる鐘の音が、高らかに響き渡り始めていた。その清らかな音色に導かれるように、リゼリアは最後の力を振り絞って息を吐き出した。
新しい命が、今まさに、水の都の春の中に力強く産まれ落ちようとしていた。




