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『オーレリア戦記』  作者: りあと
外伝『アクアパレスの人々』帝国歴305年306年
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オーレリア外伝『アクアパレスの人々』その16

帝国歴三〇六年一月。

新しい年の訪れとともに、親王府が置かれるアルヴェリア親王領の中心都市アクアパレスは、冴え渡る新春の光の中に包まれていた。太い水路群は冬の澄み切った空を鏡のように映し出し、街ゆく小舟が滑るたびに水面がキラキラと眩しく煌めいている。

親王府の広大な庭園を見渡す日当たりの良い温室の一角で、アルヴェリア親王イリアードは書類の山と格闘していた。

昨秋の大収穫祭を無事に成功させ、新年の祝賀行事も一段落したこの時期は、親王領の春に向けた治水事業や交易の計画を詰める大切な時期だ。しかし、ペンを走らせるイリアードの表情には、疲労どころかどこか浮き立つような柔らかさが漂っていた。

「イリアード、少しよろしいかしら」

静かで、しかしどこか落ち着きのない声が響き、イリアードは顔を上げた。そこに立っていたのは、彼の母であるフレデリカであった。

「母上。どうされたのですか、そんなにソワソワとなさって。お茶でも淹れさせましょうか」

「いいえ、お茶どころではないのですよ、イリアード……! 本当に、もう、居ても立っても居られなくて……!」

フレデリカは胸元で両手を固く握りしめ、優雅な普段の佇まいからは想像もつかないほど頬を紅潮させていた。彼女はリヴィエール家の一族の血を引く女性であり、その身には一族特有の精妙な異能の力が流れている。

「母上……まさか、何か良からぬ予兆でもご覧になったのですか?」

身を乗り出したイリアードに、フレデリカはぶんぶんと首を横に振った。

「いいえ! まったく逆ですわ! 先ほど、リゼリアとセシリアの様子を見に離宮へ伺ったのです。ふたりの健康状態を確かめようと、ほんの少しリヴィエールの異能を意識に向けただけだったのですけれど……見えてしまったのですよ!」

「見えた……? 一体何がです?」

「お腹のお子たちの性別ですわ!」

フレデリカは抑えきれない笑みを爆発させるように言った。

「リゼリアのお腹にいるお子は、凛々しく健やかな『男の子』! そして、セシリアのお腹にいるお子は、愛らしく愛おしい『女の子』です! 間違いありません、リヴィエール家の一族の力で見えたのですから絶対ですわ!」

「な……っ!?」

イリアードは手にしていた万年筆をポロリとデスクの上に落とした。

リヴィエール家の一族が持つ念視や予知といった異能の確実性は、イリアード自身が誰よりもよく理解している。母がそう断言したということは、春に生まれてくる二人の子供の性別は、まさにその通りだということだった。

「まあ! これで親王家の跡継ぎとなる男子も、華やかな姫君も、一度に授かることが確定いたしましたのよ! こんなにめでたいことがありましょうか! ああ、早くベビー服や産着の準備を仕直さなくては……!」

フレデリカは一人で歓喜に酔いしれ、「失礼いたしますね!」と嵐のように温室を去っていった。

取り残されたイリアードは、ぽつんと一人、落ちたペンを見つめたまま深く息を吐き出した。

「……あちゃあ」

イリアードは頭を抱え、苦笑いを浮かべた。

もちろん、母の報告はこれ以上ない吉報である。リゼリアもセシリアも無事に春を迎えられそうだし、男の子と女の子を授かるなど、父親としてこれ以上の幸せはない。

しかし――ほんの少しだけ、残念でもあった。

「春に生まれるその瞬間まで、『男の子かな、女の子かな』って二人と笑い合いながら楽しみに待つのが、父親の醍醐味だと思っていたのになあ……」

あらかじめ答えを知ってしまったという、贅沢極まりない脱力感。イリアードは「まあ、母上らしいけれど」と呟き、椅子の背もたれに深く身体を預けた。

だが、落胆している暇などない。答えが分かったのなら、父親として今すぐ取り組むべき、最高に重大で幸せな大仕事がある。

――子供たちの「名前」を考えることだ。

イリアードは引き出しから、上質な和紙と羊皮紙の束を取り出した。

「春に生まれる我が子たち……か」

窓の外に目をやると、一月の寒気の中でもアクアパレスの水路は途切れることなく流れ、春の芽吹きを待つ豊かな大地が広がっている。

まずは、正妻であるリゼリアがお腹に宿している男の子だ。

「リゼリアは……静かで深い知性を持ち、異能の力で人の心や未来を優しく見通す女性だ。そして、このアルヴェリアの豊かな水のように、どんなものも包み込む寛容さがある」

長男となるその子は、将来このアルヴェリア親王領を継ぎ、民を導く立場になるかもしれない。ならば、誇り高く、かつ水の如く清らかで力強い名が良い。

イリアードはペンを走らせる。

『アルヴィン』――アルヴェリアの恵みを体現し、智勇を備えた者。 『カイゼル』――帝国東南部の輝く星となるように。 『レオン』――勇猛でありながら、優しさを忘れないように。

「いや……もっとこの土地と、リゼリアの面影を感じさせる名が良いな」

イリアードの脳裏に、澄み切った水路と、そこに映る凛とした青空が浮かんだ。

『リアム』――強い意志と、人々を護る盾となる者。 『ジュリアン』――光に満ち、春の萌芽とともに芽吹く若木のような命。

「『ジュリアン』……ふむ、悪くない。リゼリアの『リ』の音を少し感じさせつつ、男の子らしい響きだ」

イリアードは微笑みながら、紙に『ジュリアン・アルヴェリア』と書き記した。

次に、側室であるセシリアがお腹に宿している女の子だ。

「セシリアは……情熱的で、一途で、時にその異能のように力強く自分の道を切り拓く可愛らしい女性だ。あいつの生む女の子なら、きっとひまわりのように明るく、愛くるしい姫になるだろうな」

女の子の名前を考える段になると、イリアードの目尻はさらに下がり、でれでれとした笑みが漏れた。

女の子なら、花や光、そして水の美しさを感じさせる名前が良い。

『シェリール』――愛される者。 『セレスティア』――澄み渡る空のように美しい心を持つ者。 『フローラ』――アルヴェリアに咲き誇る菜の花のように華やかな者。

「セシリアはソルトラグーンに素晴らしい人工塩湖を造り上げてくれた。輝く結晶と、煌めく水面……」

光を受けて七色に光る水滴。あるいは、フルヴィアルトの職人が丹精込めて作った透明なガラスのように、曇りのない純粋な美しさ。

『クラリス』――光り輝く、清らかな乙女。 『ルシア』――光をもたらす者。 『シルヴィア』――豊かな森と水の恵みを受ける者。

「『クラリス』……いや、『エレナ』も捨てがたいな。『光』を意味する言葉を込めてあげたい」

イリアードは楽しそうにいくつもの候補を書き連ねていった。

気がつくと、陽は傾き始め、温室の中は柔らかな茜色に染まっていた。机の上には、びっしりと名前の候補と、その由来が書き込まれた紙が広がっている。

「イリアード様?」

温室の扉が静かに開き、リゼリアとセシリアが顔を覗かせた。二人ともゆったりとした厚手のドレスを纏い、愛おしそうにお腹に手を当てている。

「お仕事は終わりまして? 母上が何やら大慌てで『産着の仕立て直しを指示しなければ!』とおっしゃって去っていかれたのですが……」

リゼリアが不思議そうに首をかしげると、セシリアも続いて尋ねた。

「何かありましたの、イリアード様?」

イリアードは苦笑いを深めつつ、書き連ねた紙をサッと隠すように手元に引き寄せた。

「……いやね。母上がリヴィエールの異能で、君たちのお腹の子の性別を当ててしまったんだよ。リゼリアの子が男の子で、セシリアの子が女の子だってね」

「まあ……!」

ふたりは驚いたように顔を見合わせ、それからクスクスと笑い出した。

「母上らしくていらっしゃいますわね。でも、イリアード様……少し残念でしたでしょう? 『生まれるまでの楽しみにしたい』とおっしゃっていましたものね」

リゼリアの目ざとい指摘に、イリアードは降参したように肩をすくめた。

「まあね。楽しみにしていた父親の醍醐味を一つ奪われてしまったよ。……でもね、そのおかげで一足早く、最高の仕事にとりかかれたんだ」

イリアードは机の上の紙を差し出した。そこには、びっしりと書かれた名前の候補と、二人への愛、そして生まれてくる子供たちへの祝福の言葉が並んでいた。

「ふたりの名前の候補さ。春になって、この子たちが無事に生まれてきたら……三人でどれが一番ぴったりか、ゆっくり決めよう」

リゼリアとセシリアは紙を受け取り、そこに込められた深く温かな愛に触れて、胸を熱くした。

「まあ……素敵な名前ばかり……」

「イリアード様、私、この名前がとても気に入りましたわ!」

ふたりの弾んだ声が温室に響く。

窓の外では、夕暮れのアクアパレスが静かに夜の帳を受け入れようとしていた。冷たい冬の風の向こう側には、確かに温かな春の足音が聞こえている。

新しい年、新しい生命。アルヴェリア親王領の未来を照らす小さな光たちを迎える準備は、こうして幸せな愛に包まれながら、一歩ずつ進んでいくのだった。

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