オーレリア外伝『アクアパレスの人々』その12
オーレリア帝国東南部に広がるアルヴェリア親王領。中心都市アクアパレス周辺は、張り巡らされた水路と豊かな泥土に恵まれた蓮根の特産地として知られている。
春の兆しが水面に差し込む頃、アクアパレスの広大な蓮池に一人の青年の姿があった。農夫のカイである。今日は、新しい命を泥の中に託す第一の行程「定植(植え付け)」の日だ。
冷たい泥の中に膝まで浸かりながら、カイは昨秋から大切に保存してきた「種蓮根」を手に取った。芽がついた丸々と太い節を選び抜き、泥の深さ十センチほどの場所に斜め四十五度の角度で慎重に埋め込んでいく。
「カイ、水の深さはそのくらいで大丈夫ですか?」
池の端から声をかけたのは、親王府から手伝いとして派遣された侍女のロゼッタだった。十八歳の彼女は予知や念視の力を持つ異能者だが、作業着の裾をまくり上げ、真剣な眼差しで水面を見つめている。
「ええ、ロゼッタ様。植え付けの初期は水深を浅くして、太陽の熱で泥の温度を上げることが大切なんです。芽が日光を浴びて元気に育つようにね」
カイの手によって、次々と種蓮根が温かい泥の床へと静かに横たえられていった。
やがて季節は巡り、第二の行程「生育と水管理」へと移る。
初夏を迎えると、水面には鮮やかな緑色の丸い葉(立葉)が次々と立ち上がり、風にそよぐようになった。カイの毎日は、水深の微調整と雑草取りに追われた。葉が大きく育つにつれて池の水深を深くし、害虫や病気から葉を守る。
夏本番、蓮池一面に薄桃色と純白の大輪の花が咲き誇った。甘い香りが水辺を包み込み、訪れる人々の心を和ませる。だが、花が散るといよいよ地下茎――つまり蓮根が本格的に太り始める時期の到来だった。
「花が落ちてからが勝負です。葉で作られた栄養が、すべて土の中の茎へと注ぎ込まれていきますから」
秋の風が吹き抜ける頃、地上部の葉は枯れ色へと変わり、栄養分が完全に地下の蓮根へと凝縮された。ここからが第三の行程「収穫」である。
晩秋の冷気が満ちる水田で、カイは胴長(水産用長靴)を身につけ、水中に分け入った。かつては鍬で泥を掘り返していたが、アクアパレスの水路網を活かした「水掘り」と呼ばれる手法を用いる。高圧の水流を噴出するホースを手に、泥の中に沈む蓮根の周りを洗うように削り取っていくのだ。
ドボボボ……という音とともに泥が跳ね返り、水底から真っ白で太々とした蓮根がぽっかりと水面に浮き上がってきた。
「やりましたね、カイ! 見事な蓮根です!」
手伝いに来ていた侍女のエミーナが、思わず歓声をあげた。十八歳のエミーナは念動や念創の異能を秘めているが、浮き上がった蓮根を傷つけないよう、優しく手繰り寄せて船へと積み込んでいく。泥の中から姿を現した蓮根は、みずみずしく、節ごとに張り裂けんばかりの生命力を蓄えていた。
こうして船いっぱいに収穫された蓮根は、第四の行程「洗浄と下処理」のために作業場へと運ばれた。
まずは表面にこびりついた黒い泥を、大量の綺麗な水で丁寧に洗い流す。水路の清流に晒された蓮根は、驚くほど白い肌を見せた。
「乾燥蓮根にするには、切り方と厚みが命になります」
カイは包丁を手に取り、洗った蓮根の節目を切り落とし、皮をむいていく。そして、五ミリから七ミリほどの均一な厚さに素早くスライスしていった。断面には、蓮根特有の美しい放射状の穴があいている。
スライスした蓮根は、すぐさま酢をわずかに加えた水に放ち、「アク抜き」を行った。蓮根に含まれるポリフェノールが空気に触れて変色するのを防ぎ、美しい白さを保つための大切な知恵だった。
数十分ほど水に晒した後、ザルにあげてしっかりと水気を切る。そして、沸騰した湯の中にサッとくぐらせる「ブリーチング(加熱処理)」を施した。これにより酵素の働きを止め、長期保存しても品質と風味が損なわれないようにするのだ。
湯通しを終えた蓮根からは、ほのかに甘く香ばしい蒸気が立ち上った。
最後に迎えるのが、第五の行程「乾燥」である。
カイとエミーナ、ロゼッタの三人は、竹で編まれた平ザルに、重ならないよう一枚一枚ていねいに蓮根を並べていった。規則正しく並んだ白い輪切りは、まるで大地の花が咲いたかのように壮観だった。
それらを風通しが良く、日の当たる干し場へと並べる。
「ここから数日間、じっくりと天日干しにします。水気を完全に抜き切ることで、蓮根の旨味と栄養が何倍にも凝縮されるのです」
秋の澄み渡る空の下、心地よい風が乾物ザルの間を吹き抜けていく。一日が経ち、二日が経つにつれ、みずみずしかった蓮根の片は水分を失い、キュッと小さく縮みながら、身を固く引き締めていった。弾力のあった質感は飴色の硬質な状態へと変わり、カラカラと軽い音を立てるようになる。
四日目の夕暮れ時、カイは乾ききった蓮根をひとつ手に取り、指で軽く叩いた。カンカン、と木片のような澄んだ音が響く。
「完璧です。水分は完全に抜けました」
完成した乾燥蓮根は、黄金色を帯びた半透明の美しさを持っていた。水分を失ったことで長期の保存に耐えうるものとなり、水で戻せばいつでも収穫したてのような歯ごたえと旨味が蘇る。
「素晴らしい手際でしたね、カイ」
ロゼッタが完成した品を木箱に収めながら、心からの笑みを向けた。
「ええ。これならアクアパレスの親王府へ納めても、イリアード様やセシリア様、リゼリア様にきっと満足していただけます。冬の間の貴重な滋養となってくれるはずです」
泥の中に蒔かれた一粒の種から始まり、水と太陽の恵みを受け、人の手によって丹念に干し上げられた白き環。
アルヴェリアの風と光をたっぷりと閉じ込めた乾燥蓮根は、やがて来る冬の食卓を温かく彩るため、静かに木箱の中で出番を待っていた。




