オーレリア外伝『アクアパレスの人々』その11
オーレリア帝国東南部に広がるアルヴェリア親王領。中心都市アクアパレスの周辺には、豊かな水路の恵みを受けた一面の畑が広がっている。そこは蓮根や里芋と並び、この地の命の源泉であるアブラナの特産地として知られていた。
秋の深まりとともに、アクアパレス郊外の農場に爽やかな風が吹き抜ける。この農場を仕切る青年・ルカは、手のひらに乗せた小さな黒い粒を見つめていた。アブラナの種子――菜種である。
今日は、次なる実りへ向けた第一の行程「播種」の日だった。
畑には、水路から引き入れた肥沃な土壌が整然と耕され、畝が美しく並んでいる。そこに、親王府から派遣された侍女のロゼッタが姿を現した。十八歳の彼女は、どこか遠くを見通すような透き通った瞳を持つ少女だ。
「ルカ、種まきの準備は整いましたか。セシリア様も、今年搾られる菜種油の出来をとても楽しみにされていますよ」
ロゼッタは穏やかに微笑みながら声をかけた。彼女は念視や予知の力を秘めた異能の持ち主だが、今は一人の手伝いとして地に足をつけ、かごを手に提げている。
「ええ、ロゼッタ様。土の温度も水分も完璧です。行きましょう」
ルカとロゼッタは、等間隔に作られた筋に沿って、指先で丁寧に種をまいていった。菜種の種は驚くほど小さく、息を強く吹きかければ飛んでしまいそうなほど軽い。これを浅く土に被せ、手で優しく押さえて定着させる。芽吹きを待つ静かな時間が始まった。
数日後、小さな双葉が土を割って一斉に顔を出した。ここから第二の行程「育成と管理」に入る。
冬の寒さが訪れる前、ルカたちは「間引き」と「中耕・土寄せ」に追われた。密集して生えた苗から弱いものを引き抜き、残った元気な株の周りの土をほぐして根元に寄せる。こうすることで風倒を防ぎ、根が深く張り巡らされるのだ。
アルヴェリアの厳しい冬の間、アブラナは地に伏せるように葉を広げ、じっと寒さに耐えた。そして春の訪れとともに、茎はぐんぐんと天に向かって伸びていく。
やがて春本番を迎えると、アクアパレス周辺の畑はいっせいに鮮やかな黄色へと染め上げられた。見渡す限りの菜の花畑が創り出す黄金色の絨毯。風が吹くたび、甘い香りが漂い、蜜蜂たちが忙しく飛び交う。
「なんて美しいのでしょう……」
花摘みを手伝いに訪れた侍女のエミーナが、思わず感嘆の声を漏らした。同じく十八歳のエミーナは念動や念創の異能を持つ少女だが、咲き誇る黄金の海を前にしては、ただの一人の若い娘として目を輝かせていた。
「綺麗な花ですが、油を採るためにはこの花が散り、実が熟すのを待たなければなりません」
ルカの言葉通り、黄金の輝きが去ると、後には緑色の細長い莢がびっしりと実った。初夏の日差しを浴びて、莢は次第に緑から茶褐色へと変化し、中で種子が熟していく。
そして第三の行程、「収穫と乾燥」の時期が訪れた。
「莢が弾けて種がこぼれ落ちる直前、今が収穫の時です!」
ルカの合図で、農夫たちが一斉に鎌を振るった。刈り取られたアブラナの株は束ねられ、風通しの良い軒下や作業場に吊るされて天日干しにされる。しっかりと乾燥させることで、種子の水分が抜け、油の抽出効率が劇的に高まるのだ。
数日後、カラカラに乾いた株をシートの上に広げ、打穀作業を行った。竿で叩くと、熟した莢が弾け、中から漆黒の丸い粒がこぼれ落ちる。それを唐箕と呼ばれる選別器に通し、風の力でゴミや空の莢を吹き飛ばすと、光沢のある純粋な菜種だけが手元に残った。
ここから先が、いよいよ真骨頂となる第四の行程「搾油」である。
工房へと運ばれた膨大な量の菜種。ルカはまず、菜種を大きな釜に入れて火にかけた。「炒り(焙煎)」の作業だ。
「直接絞る方法もありますが、こうして適度に熱を加えて煎ることで、香ばしい風味が引き立ち、油の離れが良くなるのです」
木べらで丹念に混ぜ合わせると、香ばしいナッツのような香りが工房内に立ち込めた。焦がさぬよう絶妙な火加減で炒り上げた菜種を、次は石臼(または砕鉱機)で細かく粉砕していく。ペースト状に潰された菜種からは、すでにほのかな油分がにじみ出ていた。
続いて、蒸し器に入れて高温の蒸気をあてる。加熱された菜種の細胞が破壊され、油が分離しやすい状態へと変化する。
「さあ、絞ります! 力を合わせて!」
蒸し上がった温かい菜種パーストを、頑丈な布袋へと詰め込み、重厚な木製の圧搾機にセットした。大きなテコと木槌を使い、締め上げの木楔を叩き込んでいく。
ドスン、ドスンと重い音が工房に響き渡る。
圧搾機が強い圧力を加えると、布袋の網目から、とろりとした濃密な液体が滲み出し、受け皿へと垂れ落ち始めた。
「出ました……! 菜種油です!」
搾り立ての油は、まだ濁りを含んだ深い琥珀色をしていた。これを集め、最後の第五の行程「精製とろ過」へと進める。
搾り取ったばかりの原油には、微細な種子のカスや水分、不純物が混ざっている。これを放置すると、油がすぐに傷んでしまう。ルカは油を深鍋に移し、少量の水を加えて加熱する湯洗い(水脱ガム)を行った。不純物を水に吸着させて沈殿させ、上澄みの油だけをすくい取る。
さらに、その油を何層もの布と和紙を重ねたろ過装置へとゆっくりと注ぎ込んだ。
ポタリ、ポタリ……。
時間をかけてろ過された液体は、先ほどの濁りが嘘のように消え去り、澄み切った美しい黄金色へと姿を変えて壺へと溜まっていった。窓から差し込む太陽の光を受け、油はまるで溶けた金のように輝いている。
作業を終えたルカは、綺麗に磨かれたガラス瓶に搾り立ての油を満たし、栓をした。
「見事な黄金色の油ですね、ルカ」
いつの間にか傍らに立っていたロゼッタが、出来上がった瓶を愛おしそうに見つめた。
「ええ。秋に種をまき、冬の寒さを超え、春に花を咲かせて、初夏に実った……アルヴェリアの土地と時間が育んだ命の雫です。これなら、イリアード様もセシリア様も満足してくださるはずです」
この菜種油は、アクアパレスの宮殿で料理を美しく彩り、あるいは夜を照らす灯火の燃料として、人々の暮らしを温かく支えていくのだろう。
大地に蒔かれた一粒の小さな黒い種は、農夫たちの汗と長い時を経て、煌めく一滴の黄金へと生まれ変わったのだった。




