オーレリア外伝『アクアパレスの人々』その13
オーレリア帝国東南部に位置するアルヴェリア親王領。親王府が置かれる中心都市アクアパレスの周辺は、張り巡らされた水路の恵みを受け、蓮根やアブラナと並び、上質な里芋の特産地として知られていた。
春のやわらかな風が水面を撫でる頃、アクアパレス郊外の肥沃な畑で、農夫の若い青年・サクは土の感触を確かめていた。今日は里芋の物語の始まり、第一の行程「種芋の定植(植え付け)」の日である。
「サク、準備は進んでいますか?」
静かな声とともに現れたのは、親王府から手伝いとして派遣された侍女のベルナデットだった。二十歳の彼女は完璧主義者として知られ、作業着姿であっても一切の隙がない凛とした佇まいを見せている。
「ええ、ベルナデット様。土の湿り気も温度も申し分ありません」
サクは昨秋に収穫し、冬の間大切に保存しておいた元気な種芋(親芋)を手に取った。里芋は水分を好むため、畝を高めに作り、水はけと水もちのバランスを整える必要がある。三十センチほどの等間隔で掘った穴に種芋を深めに置き、温かい土を被せていく。
「里芋は、根を広げて豊かな水を吸い上げ、地下でいくつもの子芋、孫芋を抱え込んで大きく育ちます。この最初の定植こそが、醸造した際の酒の『コク』を左右するのです」
サクの言葉に、ベルナデットは深く頷きながら、正確な手つきで作業を補佐していった。
やがて季節は巡り、第二の行程「生育と管理」へと進む。
夏を迎えると、里芋の畑には大人の背丈ほどもある大きな緑色の葉が青々と茂った。夕立が降ると、撥水性の高い葉の上に大きな水滴が溜まり、光を受けて輝く。その光景はまさに「水の都」アクアパレスの縮図のようだった。
サクとベルナデットは、猛暑の中で「追肥」と「土寄せ」を繰り返した。里芋は土の中で親芋の周りに子芋がつき、さらにその周りに孫芋が増えていく。成長に合わせて繰り返し土を寄せて根元を覆ってやらなければ、露出した芋が緑色に変色し、品質が落ちてしまうのだ。
「土の中に命が満ちていく感覚がありますね」
汗を拭いながら漏らすベルナデットの表情には、いつもの冷徹さの裏にある、生命への慈しみが滲んでいた。
そして秋、第三の行程「収穫と選別」の時期が訪れた。
朝露が降りる寒気の中、大きな葉が黄金色に枯れ始めると、土の中の里芋が完熟した合図だ。サクはスコップを深く突き刺し、株の周りの土をほぐしながら、力いっぱい株全体を引き抜いた。
「うわっ……すごい量だ!」
土の中からゴボリと持ち上がったのは、巨大な親芋の周りに、丸々と太った子芋や孫芋が鈴なりに固まった大きな塊だった。
手伝いに来ていた侍女のエミーナとロゼッタ――共に十八歳の異能を持つ少女たちも、目を輝かせて駆け寄ってきた。
「こんなに大きな塊になるなんて! まるで宝箱ですね」
エミーナが歓声をあげる。彼女たちは手分けして、親芋から子芋、孫芋をひとつひとつ丁寧に手で外していった。土を落とし、毛羽立った皮の表面を整えていく。
「醸造に使うのは、デンプン質が最も豊かで糖分をたっぷり蓄えた、この子芋と孫芋です」
サクは選り分けた里芋をかごに収め、醸造所へと運んだ。ここからが本番、第四の行程「原料の仕込み(加熱と糖化)」である。
里芋から酒を作るには、穀物酒とは異なる特殊な技術が必要となる。芋に含まれる豊富なデンプンを、酒母(酵母)が食べられる「糖」へと分解しなければならないのだ。
まず、集められた里芋を水路の清流で綺麗に洗い、泥を落とした後、皮ごと大きな蒸留釜へと投入した。ゴトゴトと音を立てて蒸気を吹き上げる釜。じっくりと時間をかけて蒸し上げられた里芋は、外皮がツルリと剥けるほど柔らかくなった。
熱々のうちに皮を剥き、木臼に入れて大きな杵で突いていく。ペースト状に潰された里芋は、独特の強い粘り気(ムチン質)を放ち、滑らかな白い生地のようになった。
「ここで、蒸した米から作った『米麹』を合わせます」
サクは人参ほどの温度まで冷ました里芋ペーストに、ほぐした米麹と、アルヴェリアの清冽な仕込み水を加えた。米麹に含まれる酵素(アミラ―ゼ)が、里芋の強力なデンプン質と粘り気を解きほぐし、やさしい甘みを持つ「もろみ」へと変えていくのだ。
仕込み桶の中で、里芋の甘い香りと麹の芳醇な香りが混ざり合い、暖かな部屋の中で静かに「糖化」が進んでいった。数十時間後、粘り気のあった生地はサラリとした液状に変化し、舐めてみると濃厚な甘みが広がった。
そして、最終段階である第五の行程「発酵・圧搾・熟成」へと移る。
糖化したもろみに蔵特有の清酒酵母を加え、発酵室へと移した。仕込み桶の中では、酵母が糖を食べてアルコールと炭酸ガスを生み出し始める。
プツプツ……プツプツ……。
静寂に包まれた蔵の中に、小さな命が息づく泡立ちの音が響き渡る。発酵のピーク時には、桶の表面が白い泡で覆われ、爽やかな果実のような酒香が蔵いっぱいに満ちた。
「温度が高すぎても低すぎてもいけません。慎重に見守ります」
完璧主義者のベルナデットは、昼夜を問わず発酵桶の温度を点検し続けた。
二週間後、泡立ちが落ち着き、芳醇なアルコールの香りがピークに達した。サクたちはもろみを綿の布袋に移し、木製の酒搾り機(槽:ふね)に並べた。上から重石をかけて静かに圧力をかける。
ポタリ、ポタリ……。
袋の目から滲み出た液体は、ほのかに白濁した乳白色の美しさを持っていた。搾りたての里芋酒である。
これを甕に移し、低温の貯蔵庫で数ヶ月間じっくりと熟成させた。熟成を経ることで、角が取れた液体は澄んだ淡い黄金色へと変わり、里芋特有のまろやかなコクと、米麹由来のキレのある味わいが完璧に調和した。
寒さが本格化する冬の日、熟成を終えた酒が、美しく磨かれたガラスの壺へと注がれた。
「完成です……『アルヴェリア親王領特製・里芋酒』です」
サクが盃に酒を注ぐと、とろりとした透明感のある液体が光を反射させた。一口含めば、まろやかな旨味と独特の甘やかな香りが口いっぱいに広がり、喉を渡ると体にポッと温かな温もりが灯る。
「見事な出来栄えです、サク」
ベルナデットが盃を見つめ、静かに、しかし満足そうに微笑んだ。
「これならば、アクアパレスの親王府にてイリアード様やリゼリア様、そしてセシリア様をおもてなしする祝宴の席でも、最高の逸品として高い評価を受けるでしょう」
春の泥の中に植えられた一粒の種芋から始まり、夏の陽光と清流を受け、職人たちの手で紡がれた至高の一滴。アルヴェリアの豊穣な土地の恵みが凝縮されたその酒は、人々の心と体を温めるため、今静かに宴の時を待っていた。




