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『オーレリア戦記』  作者: りあと
『オーレリア戦記』帝国歴305年
113/287

『見えざる死病の檻』

帝国歴305年、7月中旬。

皇后ロザリアの冷徹な教唆を受け、尚書令アルベリックが放ったボーフォール家の「武力査察軍」五千が、ついにアルヴェリアの国境へと迫っていた。彼らは「牙を抜かれたイリアード親王の領地など、一揉みにして干からびさせてやる」と、傲慢な笑みを浮かべて強行軍を続けていた。

しかし、彼らが国境の手前、深い谷間へと差し掛かったその時、見えざる運命の歯車が回り始めた。

「――よし、エミーナ。あの位置ね。あそこにいる兵たちの体内へ、アプローチを開始して」

谷を見下ろす断崖の絶壁、吹く風に長い髪を翻しながら、二十一歳のセシリアが冷徹な瞳で眼下の軍勢を見下ろしていた。彼女の傍らには、十八歳の侍女エミーナが、同じく鋭い視線を軍勢へと注いでいる。

今回の計画において、リゼリアの『予知』とルネッタの『念視』が導き出した最も美しく、もっとも残酷な回答。それは、血を流す武力衝突ではなかった。

セシリアが宿す強大な『念創』の力は、無から物質を創り出す。それはレンガや岩石といった無機物だけにとどまらない。彼女たちの異能を極限まで集中させれば、対象の体内に直接、特定の「病原体(疫病の毒素)」を念じて創り出し、増殖させることさえ可能だったのだ。

「いきます、セシリア様……! 『念創』、発動」

エミーナが『念力』で標的の空間を固定し、セシリアの『念創』が、行軍する兵たちの水瓶、そして彼ら自身の喉の奥へと、目に見えぬ「死の胞子」を直接植え付けていく。

それは、恐るべき速度で発症する未知の熱病(疫病)であった。

数時間もしないうちに、ボーフォール家の兵たちは一人、また一人と激しい高熱と嘔吐に襲われ、ばたばたと大地へ崩れ落ちていった。隊列は瞬く間に大混乱に陥り、呻き声と絶望が谷を支配する。

「な……なんだこれは!? 呪いか、それとも新型の疫病か!?」

指揮官の将軍が、己の肌に浮かび上がったどす黒い斑点を見て悲鳴を上げた。

その混乱の最中、谷の出口に、白銀の甲冑に身を包んだイリアード親王、そしてリゼリアを乗せた馬車と、完全武装した五千のアルヴェリア親王軍が悠然と姿を現した。

「止まれ、ボーフォール家の軍勢よ!」

イリアードの声が谷響き渡る。その顔には、一切の慈悲のない冷酷な笑みが浮かんでいた。

「我らアルヴェリアは、帝国の正規の査察を拒むものではない。……しかし見よ、お前たちのその惨状を。悪質なる疫病に冒された軍勢を、我が神聖なるアルヴェリア領内へ入れるわけにはいかない。これは領民を未曾有の病から守るための、親王としての絶対の義務である!」

「ま、待ってくれ! 我らは尚書省の命を受けて――」

「黙れ!」イリアードは一喝した。「お前たちがこの地に病を広め、帝国の皇子を宿す徳妃ルネッタの故郷を滅ぼそうとしたならば、それこそ国家への大逆罪だ。これ以上一歩でも国境の関所を越えれば、我が親王軍が容赦なく射殺する!」

親王軍の弓兵が一斉に、矢先に油を塗った火矢を番えた。

アルヴェリアの地へ足を踏み入れることは、物理的にも、そしてイリアードの「大義名分」の前にも完全に不可能となったのだ。

「ならば……ならば、一度退却だ! 帝都へ戻り、体勢を立て直す!」

将軍は血を吐きながら退却を命じた。しかし、彼らは知らなかった。戻る道など、最初から残されていないということを。



◇

数日後、命からがら帝都オクタヴィアの国境付近まで逃げ戻ってきたボーフォール軍の残党を待っていたのは、信じがたい光景だった。

帝都の堅牢な城門は固く閉ざされ、その壁の上には、皇帝アラリック直属の近衛軍団長レイナルドと、禁軍の長バルトロメウスが率いる、数万の精鋭軍が隙間なく並んでいた。

「開門せよ! 我らは尚書令アルベリック閣下の軍だ! 謎の熱病に冒されている、早く医師を――」

「ならぬ。陛下より直々の勅命である!」

近衛軍団長レイナルドの声が、冷酷に響き渡った。

「『アルヴェリアにて不当な軍事行動を起こし、あまつさえ正体不明の恐るべき疫病に冒された軍勢を、帝都オクタヴィアの聖域へ入れることは断じて許さぬ』との仰せだ! 万が一、この病が帝都へ広がり、徳妃ルネッタ様、そして胎内の御子へ影響が及べば、誰が責任を取るというのだ!」

「そんな馬鹿な……っ! 閣下、我らは見捨てられるのか!?」

「これは、全帝国の民を守るための陛下の『慈悲』である。国境から十里(約40キロ)以内に近づく者は、たとえ誰であろうとも、禁軍の火矢によって焼き尽くす!」

ガチャン、と一斉に弩弓が構えられる。

彼らは、アルヴェリアの関所を破ることもできず、かと言って、我が家のある帝都へ帰ることも許されない。広大な荒野の真ん中で、完全に「隔離」されたのだ。

写真のないこの世界、彼らがここでどのような最期を迎えるか、目撃する一般の民は誰もいない。ただ「不当な侵略を企てた呪われた軍勢が、天罰の疫病によって自滅した」という噂だけが、内侍監ギルバート・ウィンザーの手によって都合よく流布されていく。

それから数日もしないうちに、水分も食料も尽き、体内の異能の毒素に蝕まれた五千の武力査察軍は、誰に看取られることもなく、荒野の泥の中で文字通り全滅し、静かに息絶えていった。



◇

同じ刻、帝都オクタヴィア――白亜宮、大極殿。

「――報告は以上です、尚書令アルベリック閣下、そして貴妃エレアノール」

玉座に傲然と君臨する皇帝アラリックの傍らで、正一品「徳妃」の衣を纏った十七歳のルネッタが、澄んだ瞳で眼下の兄妹を見下ろしていた。彼女の瞳には、たった今、遠くの荒野でボーフォール軍が全滅した瞬間を捉えた『念視』の残光が静かに揺らめいている。

「な、何かの間違いだ……! 我がボーフォールの精鋭が、疫病などで全滅するはずが……!」

尚書令アルベリックは、腰を抜かして床に崩れ落ち、貴妃エレアノールは恐怖のあまり絶叫すら上げられず、ガタガタと震えていた。

「アルベリック。お前たちは、我が愛する徳妃の故郷を武力で脅かそうとし、結果として天の怒りに触れ、軍を全滅させた」

アラリック皇帝の冷酷な声が、殿内に響き渡る。

「帝国軍の名を騙り、不当な侵略を企てたその罪、もはや言い訳の余地はなし。――近衛軍、禁軍! 今すぐ尚書令アルベリックの官位を剥奪し、ボーフォール家の一族郎党、すべてを大逆罪として捕らえよ。一人として生かしてはおかぬ」

「はっ!」

ロドリック・シュミットやガウェイン・スミスら親衛隊の武官たちが一斉に踏み込み、アルベリックの髪を掴んで引きずっていく。エレアノールもまた、その豪華な衣装を引き裂かれながら、罪人として地下牢へと連行されていった。

その光景を、チェスの駒を動かすように冷ややかに見つめていた皇后ロザリアは、己が張り巡らせた蜘蛛の糸が、完全に、そして跡形もなく切り裂かれたことを悟り、背筋に冷たい戦慄を走らせていた。

(リヴィエール一族……。あの一群の『異能』は、私の想像を遥かに超えている……!)

ルネッタは、そっと自身のお腹に手を当て、遠くアルヴェリアの空へと、感謝に満ちた温かい『念話』を送りました。

『――お姉様、リゼリア様。ボーフォール家は、今、完全に粛清されました。私の、そしてこの子の未来を守ってくれて……本当に、ありがとうございました』

遥かアルヴェリアの常緑宮。星空を見上げるセシリアは、満足そうにフッと微笑み、妹へと最後の意識を返しました。

『ええ、当然のことをしたまでよ、ルネッタ。私たちはいつだって、あなたの最強の後ろ盾なんだから。これからは、誰に遠慮することもなく、その白亜宮の頂点へ、堂々と登り詰めなさい』

帝国歴305年、7月。

傲慢なるボーフォール家は、一族の異能がもたらした「見えざる死病の檻」の中で、誰に知られることもなく静かに全滅し、歴史の闇へと葬り去られていった。


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