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『オーレリア戦記』  作者: りあと
外伝『アクアパレスの人々』帝国歴305年306年
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オーレリア外伝『アクアパレスの人々』その9

八月のアルヴェリアは、一年で最も眩い季節を迎えていた。

かつては底なしの湿地帯だったこの地域も、今や縦横無尽に巡らされた太い水路群によって、帝国内でも指折りの豊穣な緑と物資が行き交う経済地域へと変貌を遂げている。

親王府が置かれる中心都市「アクアパレス」は、その名の通り「煌めく水の都」であった。真夏の強烈な太陽が照りつける中、街中に張り巡らされた水路の面は、まるで砕いたガラスを鏤めたかのように白銀のきらめきを放っている。周辺の畑では特産である蓮根の大きな葉が風に揺れ、アブラナや里芋の青々とした葉が夏の生命力を誇示していた。

そのアクアパレスの中央に鎮座する白亜の親王府。その一角にある、涼やかな風が吹き抜けるテラスに、二人の美しい女性の姿があった。

「まぁ、セシリア。あなたも、やはりそうだったのね」

柔らかな微笑みを浮かべて声をかけたのは、アルヴェリア親王妃リゼリアであった。二十二歳になる彼女は、高貴な気品の中にどこか神秘的な雰囲気を纏っている。彼女はリヴィエールの娘であり、常人にはない「異能の力」――念話、念視、そして未来を垣間見る予知の力を持っていた。

そのリゼリアの視線の先にいるのは、彼女の従妹であり、夫であるイリアードの側室を務める二十一歳のセシリアである。セシリアもまたリヴィエールの娘であり、彼女の場合は念動、念力、そして無から有を生み出すような念創の異能を宿していた。

「はい、お姉様。今朝、侍医に診ていただきました。……まさか、リゼリアお姉様と同じ時期に、お腹に新たな命を授かることができるなんて、夢にも思いませんでしたわ」

セシリアは少し頬を染めながら、愛おしそうに自身のまだ平らなお腹に手を当てた。

「ふふ、予知というほどではないけれど、私にはなんとなく分かっていたわ。この夏、この親王府にとても大きな幸福の光が満ちるのを、心の中で視ていたのよ」

リゼリアが優しく語りかける。二人は従姉妹であり、同じ夫を支える身でありながら、リヴィエールの血を引く姉妹のような強い絆で結ばれていた。そこには、後宮にありがちな陰湿な嫉妬や諍いは一切存在しない。ただ互いを思いやる、温かな空気が流れていた。

「おめでとうございます、リゼリア様、セシリア様。これほど晴れやかな日はございません」

二人の背後で、控えていたリゼリアの侍女ベルナデットが、居住まいを正して深く一礼した。二十歳になる彼女は、完璧主義者で優秀な侍女として知られ、彼女自身もリヴィエールの血を引く異能者である。普段は滅多に崩さないその端正な横顔に、今は隠しきれない歓喜の色彩が浮かんでいた。

「ありがとう、ベルナデット。あなたがそう言ってくれると、本当に心強いわ」

「私も、ロゼッタとエミーナに早く伝えたくて仕方がありません。あの子たち、きっと大騒ぎしますわね」

セシリアが楽しげに笑う。彼女の侍女である十八歳の双子のようなロゼッタとエミーナは、今頃、親王府の厨房のあたりでセシリアのための特製スープの手配でもしているのだろう。

その時、テラスへと続く廊下から、急ぎ足ながらも確かな足音が響いてきた。

現れたのは、このアルヴェリア親王領を治める主であり、皇帝アラリックの異母弟である親王イリアードであった。二十三歳という若さでありながら、アンチルマ総督をも兼任する彼は、聡明で毅然とした佇まいを持つ青年である。だが、今ばかりは、その端正な顔に明らかな動揺と、それを上回るほどの歓喜を滲ませていた。

「リゼリア! セシリア! ――今、侍医からの報告を聞いた」

イリアードはテラスに踏み込むと、二人の元へと歩み寄った。

「本当なのか? 二人とも、私との子供を……」

「はい、イリアード様」

リゼリアが立ち上がり、夫の逞しい手を両手でそっと包み込んだ。

「間違いございません。私の中に、そしてセシリアの中に、あなたのお子が育っております」

「イリアード様、私もしっかりとお役目を果たすことができました」

セシリアもまた、嬉しそうにイリアードを見上げる。

イリアードは二人を交互に見つめ、それから愛おしそうにその肩を抱き寄せた。領民の前では決して見せない、一人の男としての、そして父としての顔がそこにあった。

「これほどめでたい事があるだろうか。我がアルヴェリアに、同時に二つもの宝がもたらされるとは。リゼリア、セシリア、本当によくやってくれた。心から感謝する」

「ありがとうございます。ですが、まだ始まったばかりですわ。これから無事にこの子たちを産み落とすまで、イリアード様にはしっかりと私たちを支えていただかなくては」

リゼリアが茶目っ気たっぷりに言うと、イリアードは力強く頷いた。

「もちろんだ。アルヴェリアの全力を挙げて、お前たちと子供を守る。……まずは、この暑さだ。体調に障りはないか? 何か欲しいものがあれば、帝国の果てからでも取り寄せよう。ソルトラグーンの最高の塩を使った料理でも、フルヴィアルトの極上の綿花で織った寝具でも、何でも言ってくれ」

その過保護なまでの慌てぶりに、リゼリアとセシリア、そして控えていたベルナデットまでもが思わず小さな笑い声を漏らした。

「ふふ、イリアード様、落ち着いてくださいませ。まだお腹が大きくなるのは先のことですわ」

セシリアが宥めるように言う。

「いや、しかし……」

なおも心配そうなイリアードを見て、リゼリアはふと思いついたように、その瞳を微かに輝かせた。リゼリアの内に眠る予知と念視の異能が、ほんの少し先の、未来の光景を捉えたのだ。

「イリアード様、セシリア。少し、私の手を握っていただけるかしら?」

二人は不思議そうにしながらも、リゼリアの差し出した手にそれぞれ自身の手を重ねた。リゼリアはさらに、背後にいるベルナデットにも視線で促した。

「ベルナデット、あなたも。あなたの異能の力を、少しだけ私の予知に貸して」

「御意に、リゼリア様」

ベルナデットがリゼリアの肩にそっと手を触れる。リゼリアは目を閉じ、自身の異能を集中させた。リヴィエールの血を引く者たちが共鳴し、リゼリアの脳裏に浮かぶ「視覚」が、手をつなぐイリアードとセシリアの意識へと直接流れ込んでいく。

それは、一時的な『念視の共有』であった。

――二人の意識に、鮮明な映像が飛び込んでくる。

それは、数年後の、やはり今と同じ八月のアクアパレスの庭園だった。

今よりもさらに緑が深まり、水路のきらめきが美しい庭園で、二人の幼い子供が元気に走り回っている。一人はイリアードに似た黒髪の男の子、もう一人はリゼリアやセシリアを思わせる、美しい髪を持った女の子だ。二人は笑いながら、水路の縁でガラスのおもちゃを浮かべて遊んでいる。

その傍らには、少し大人びた表情で微笑むリゼリアとセシリア、そして変わらず甲斐甲斐しく立ち働くベルナデットや、大人になったロゼッタ、エミーナの姿もあった。さらに、帝都の後宮から面会に訪れたのだろうか、妹の昭容ルネッタ・リヴィエールが、子供たちに嬉しそうにお菓子を配っている姿まで見えた。

光に満ちた、あまりにも幸福な未来の断片。

「――っ」

イリアードは息を呑んだ。

セシリアの目からは、感動のあまりぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。

リゼリアがそっと目を開け、念視の共有を解く。眩しい現実の夏の光が、再びテラスを満たした。

「今のは……」

イリアードが震える声で呟く。

「私たちの未来です、イリアード様。あの健やかな子供たちが、今、私たちの中にいるのですわ。ですから、何も心配はいりません。私たちは必ず、あの幸せな日々を迎えることができます」

リゼリアの言葉に、セシリアは涙を拭いながら深く頷いた。

「はい……お姉様。私、あの子供たちを抱きしめる日のために、どんなことでも頑張れます」

イリアードは、愛する妻たちの手をきつく握りしめた。胸の奥から湧き上がるのは、領主としての責任感を遥かに超えた、家族を命がけで守り抜くという強い決意だった。

「ああ、約束しよう。あの未来を、必ず我が手で実現させる。我が愛する妻たち、そしてこれから生まれる我が子らのために、このアルヴェリアをさらに豊かで、どこよりも安全な地にしてみせる」

親王の力強い宣言に、テラスを吹き抜ける夏の風が、祝福を運ぶかのようにさっと吹き抜けた。

アクアパレスの水路群は、太陽の光を受けて、どこまでも青く、どこまでも眩しくきらめき続けている。その輝きは、この地に新しくもたらされる二つの命と、アルヴェリア親王家に訪れる輝かしい未来を、あらかじめ祝福しているかのようであった。最盛期を迎えた夏の日の親王府は、これまでにない歓喜と、確かな幸福の予感に包まれていた。


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