『大乱への導火線』
帝国歴305年、6月。
帝都オクタヴィアの白亜宮は、初夏の眩い緑に包まれていた。
しかし、後宮を包む空気は、陽光とは裏腹に凍りつくような冷徹さを増していた。
アルヴェリアの地では、尚書令アルベリックが仕掛けた「塩の流通制限」に対し、イリアードやセシリアたちが異能を駆使して秘密の「塩井」を掘り当て、悠々と自給自足の体制を整えていたが、帝都の文官たちはそれを未だ知らない。アルヴェリアが塩不足で干からび、後宮のルネッタも後ろ盾を失って孤立している――ボーフォール家がそう信じ込み、完全に油断しきっていたその時。
皇帝アラリックは、後宮の歴史を、そして権力の構図を根底から覆す行動を敢行した。
◇
ルネッタ・リヴィエールの懐妊はいよいよ五ヶ月を迎え、無事に安定期に入っていた。
お腹の膨らみが微かに目立ち始め、母としての柔らかな美しさを纏い始めた彼女の宮に、その日、内侍監ギルバート・ウィンザーが皇帝の直使として、極めて異例の「宣命」を携えてやってきた。
招集された後宮の文武百官、そして皇后ロザリア、貴妃エレアノールをはじめとする后妃たちが固唾を呑んで見守る中、内侍監の厳かな声が広大な殿内に響き渡る。
「――皇帝陛下、詔して曰く。昭容ルネッタ・リヴィエール、その徳高く、内に至誠を秘め、今や御子の胎動を健やかに育むは帝国の至宝なり。よって、これまでの『昭容(正五品)』の位を免じ、一期を飛び越え、正一品『徳妃』に任ず。後宮の四夫人として、位階の筆頭に据えるものとする!」
その瞬間、殿内は静まり返り、直後に地鳴りのようなざわめきが巻き起こった。
「正五品から、一気に正一品だと……っ!? 四夫人だと!?」
最前列にいた貴妃エレアノールは、あまりの衝撃に目を見開き、自身の豪華な衣装の袖を引きちぎらんばかりに指を震わせた。唐の時代から続く後宮の制度において、五階級もある位をすべて飛び越え、皇后に次ぐ最高位の「四夫人(貴妃・淑妃・徳妃・賢妃)」へと一気に昇格するなど、前代未聞、狂気の沙汰であった。
さらにこの「徳妃」の位は、元々はジゼル・サヴォイア(20歳)が持っていたはずの称号。皇帝アラリックは、ルネッタを最高位に据えるため、あえて後宮の既存の序列を力技で組み替えてみせたのだ。それは、アラリックからルネッタへ捧げられた、これ以上ない絶対的な寵愛の証明であり、同時に、実家の力(ボーフォール家やシュタインベルク家)を背景に不遜な態度をとってきた既存の后妃たちへの、皇帝からの明確な宣戦布告であった。
「徳妃ルネッタ、謹んで拝命いたします……」
十七歳のルネッタは、金糸で鳳凰が刺繍された正一品の豪奢な衣装に身を包み、深く頭を垂れた。彼女の瞳には、かつての怯えはなかった。アルヴェリアの姉セシリアから念話で聞いた「塩井の成功と、完璧な後ろ盾の構築」という事実が、彼女の背中を力強く支えていた。私は、決して後ろ盾のない哀れな娘ではない。堂々と、陛下の愛に応える資格がある。ルネッタは凛とした美しさで立ち上がった。
◇
その夜、白亜宮の最も奥深く、冷徹な静寂が支配する皇后宮。
最高権力者である二十四歳の皇后ロザリア・フォン・シュタインベルクは、薄暗い部屋の奥で、静かにチェスの駒を弄んでいた。
ルネッタが「徳妃」へと大昇格したという衝撃のニュースに対し、貴妃エレアノールは自宮で物を投げ散らかして発狂しているという。だが、ロザリアは声を荒げることも、表情を崩すこともなかった。ただ、その漆黒の瞳の奥には、底の知れない底なしの闇が広がっていた。
「正五品から正一品への抜擢……。陛下も、ずいぶんと大胆な博打に出られたものね。私やボーフォールをそこまで刺激して、ただで済むとお思いかしら」
ロザリアは、ポツリと呟いた。彼女の背後の影から、一人の異様な気配を纏った老女が姿を現す。それは、修道院に隠居した太皇太后アデレードや皇太后ジュリエットの時代からシュタインベルク家に仕え、後宮の闇の仕事を請け負ってきた、禁忌の薬術に長けた老婆であった。
「皇后様。あのルネッタという娘、ただ運が良いだけではございませぬ。我が配下の隠密が仕掛けた細かな嫌がらせや、食事への細工を、まるで『事前に知っていた』かのようにすべて完璧に回避しております。……リヴィエールの一族には、妙な『異能』の噂がございます。もしやあの娘、未来を視るか、人の心を聴く術を持っているのでは」
「異能、ね……。面白いわ」
ロザリアは、白のクイーンの駒で、黒のナイトの駒をカチャリと弾き飛ばした。
「どれほど鋭い目を持っていようとも、視えるのは『自分の周囲の未来』だけでしょう? ならば、あの娘を直接狙う必要はないわ。もっと確実で、あの娘の心を、そして陛下の正気を根底から叩き潰す方法を選べば良いのよ」
ロザリアの口元が、ゾッとするほど美しく、そして不気味に歪んだ。
「尚書令のアルベリックに、密かに文を送りなさい。内容はこうよ。――『アルヴェリアへの塩の流通制限は生ぬるい。奴らが飢えて暴動を起こす前に、表の街道を完全に封鎖し、帝国軍の名目でアルヴェリアへ直接の”武力査察”を送り込め』と。ボーフォール家の兵を動かさせるのよ」
「……ルネッタ徳妃の、故郷を攻めるのですか?」
「ええ。それだけではないわ」ロザリアは立ち上がり、蝋燭の炎を見つめた。「故郷が攻められれば、あの娘は必ず正気を失う。そして、その混乱の最中……陛下が最も信頼している、近衛軍や禁軍の『長』たちに、小さな”亀裂”を入れさせなさい」
ロザリアが狙っているのは、単なるルネッタへの毒殺といった浅い策ではなかった。
ルネッタの故郷アルヴェリアを戦火に巻き込むことで、ルネッタの精神を追い詰め、胎内の御子を流産に追い込むこと。さらに、それを引き金に皇帝アラリックと尚書省(ボーフォール家)を全面衝突させ、双方の力を削ぎ落とした上で、我が息子イスマ皇子を唯一の正統なる後継者として完璧に確立する――という、国家規模の巨大な権力謀略(蜘蛛の糸)を張り巡らせようとしていたのだ。
「ルネッタ、お前がどれほどの寵愛を受けようとも、所詮は十七歳の小娘。このシュタインベルクが築き上げてきた歴史の闇の深さを、その身をもって知るが良いわ」
初夏の夜。
ルネッタが「徳妃」という至高の栄華に浴したその裏で、皇后ロザリアの冷徹なる謀略の手が、遠くアルヴェリアの地、そして帝都の全軍を巻き込む大乱への導火線に、静かに火をつけようとしていた。




