『親王軍の凱旋』
帝国歴305年、5月。
数年ぶりに帰還した五千のアルヴェリア親王軍を迎え入れたのは、帝都オクタヴィアの白亜宮にも、復興都市アンチアルマにもない、どこまでも深く、穏やかな緑とキラキラと輝く水路に囲まれたアルヴェリアの美しい景色であった。
親王軍の凱旋を告げる角笛が響き渡ると、アクアパレスの居城である「常緑宮」の重厚な鉄門がゆっくりと開かれた。
「イリアード! よくぞ、よくぞ無事で戻ってくれました……!」
城の玄関口で、溢れる涙を隠そうともせずに駆け寄ってきたのは、イリアードの母親、フレデリカ・リヴィエールであった。彼女の後ろには、数年間にわたりこの本拠地の留守を完璧に守り抜いてきた一族の長老や、リヴィエール一族の血を引く多くの同胞たちが、万雷の拍手をもって彼らを出迎えた。
「ただいま戻りました、母上。留守中の見事な差配、心より感謝いたします」
二十三歳となり、アンチルマの十三万の軍勢を率いて一国を蘇らせた若き覇王としての威厳を纏ったイリアードは、母の華奢な身体を優しく抱きしめた。フレデリカは、息子の逞しくなった肩を撫でながら、その背後に控える正妃リゼリア、そして側室セシリアへと視線を向けた。
「リゼリア、セシリア。あなたたちも、過酷な北の地でイリアードを支え、一族の誇りを示してくれました。本当にありがとう。……そして、何より……」
フレデリカは胸元に手を当て、歓喜に声を震わせた。
「帝都のルネッタが、陛下のお子を宿したという知らせ、これ以上の奇跡はありません。先月、その一報が届いてから、城中が喜びの涙に包まれているのです」
その夜、常緑宮の大広間では、数年ぶりの凱旋と、ルネッタの懐妊を祝う盛大な祝宴が催された。
テーブルには、アルヴェリアの豊かな山海の幸が並び、一族が秘蔵していた極上の里芋酒が惜しみなく振る舞われた。
宴の最中、セシリアは侍女のエミーナやロゼッタたちに囲まれながら、楽しそうに笑い声を上げていた。冬の間、アンチルマの雪の下で、己の『念創』や『念力』の異能を極限まで絞り出して大地を創り変えた過酷な戦いは、今や心地よい達成感へと変わっていた。
「セシリア様、エミーナ様、お疲れ様でした。お二人が雪の下で築いたあの擬態砦とレンガの街道のおかげで、帝国の防衛線は完璧です。リゼリア様とベルナデットの図面も、一族の歴史に刻まれるべき大功績ですわ!」
留守を守っていたリヴィエールの娘たちが、羨望の眼差しで彼女たちを称える。
イリアードは、正妃リゼリアと並んでグラスを傾けながら、暖炉の炎に照らされる一族の笑顔を見つめていた。
「母上。ルネッタは帝都の後宮で、皇后や貴妃の激しい嫉妬に晒されながらも、アラリック陛下の優しい愛に守られ、気高き后妃として戦っています。彼女が命がけで新しい未来を創ろうとしている以上、我らアルヴェリア一族も、ただここで羽を休めているわけにはいきません」
リゼリアが、その理知的で冷徹な瞳を微かに光らせ、静かに頷いた。
「ええ。アンチルマで十三万の軍権を返上し、わずか五千の兵で退いたことで、帝都の文官たちは油断しているでしょう。ですが、だからこそ……次なる陰謀が仕掛けられるはずです」
◇
リゼリアの「予知」と懸念は、驚くべき速さで現実のものとなった。
舞台は再び、帝都オクタヴィアの政治の中枢――尚書省。
豪奢な執務室の机を、狂おしいほどの怒りで叩きつけている男がいた。新しく尚書令の座に就いた、貴妃エレアノールの実兄、アルベリック・ボーフォールである。
「おのれ、リヴィエール家の小娘め……! 懐妊を阻止するどころか、陛下は後宮の全警備を近衛軍に命じ、食事の一粒にいたるまで内侍監ギルバートに検閲させている! 我らの隠密が近づく隙すらもないとは!」
エレアノールがルネッタの懐妊に発狂し、後宮で毒殺を企てようとしたものの、ルネッタ自身の異能(予知・念視)と皇帝アラリックの絶対的な護衛の前に、ボーフォール家の陰謀はすべて水泡に帰していた。
「尚書令閣下、後宮が無理ならば、その『根』を断つべきかと」
影から進み出たのは、ボーフォール家に飼われている冷酷な文官であった。
「アルヴェリア親王イリアードは、アンチルマの総督を解かれ、十三万の軍を返上して、わずか五千の親王軍とともに本拠地へ引き籠もりました。これは、奴らが牙を抜かれ、弱体化した証拠。ならば……政治の力で、アルヴェリアを内側から干からびさせれば良いのです」
アルベリックの口元に、卑劣な笑みが浮かんだ。
「……経済的な嫌がらせか。面白い、具体的にはどうする?」
「オーレリアは豊かな土地ですが、決定的に欠けているものがあります。――『塩』にございます。人間が生きていく上で不可欠であり、軍の維持、食料の保存にも絶対に欠かせない塩。幸いにも、塩の流通権と専売権は、我が尚書省が完全に握っております」
文官は不敵な笑みを浮かべ、一枚の公文書を差し出した。
「『帝国の塩の備蓄調整』という名目で、塩の生産地であるアルヴェリア領内への塩の流通量を、通常の『一割』にまで制限いたします。さらに、近隣の領地からの密輸を徹底的に取り締まるため、尚書省直轄の査察官を国境の街道に配置する。塩がなくなれば、アルヴェリアの民は困窮するでしょう。イリアードが民の暴動を抑えるために帝都へ頭を下げてくるか、あるいはルネッタ昭容が、我が妹エレアノールの前で涙を流して『子供を諦める』と乞うてくるか……どちらかですな」
「素晴らしい」アルベリックは、すぐさま尚書令の公印をその文書に叩きつけた。「今すぐ実行しろ! アルヴェリアの塩を取り上げ、干からびさせてやる!」
◇
数日後。尚書省が発した「塩の流通制限」の非情な通達は、アクアパレスの常緑宮へと届いた。
この露骨な経済制裁に、城内の文官たちは「これでは民が生きていけない!」「帝都の暴挙だ!」と激昂し、大混乱に陥っていた。
しかし、その報告を玉座で受け取ったイリアード、そして隣に座るリゼリアとセシリアの顔に、動揺の色は一切なかった。
「ふん、ボーフォール家め。後宮でルネッタに手を出せないからと、今度は実家の政治力を使って、我らの資金源を攻めてきたか。底の浅い策だな」
イリアードは、届いた書状を冷ややかに笑い飛ばした。
「殿下、どうされるのですか? 一割の塩では、数ヶ月もすれば領内は限界を迎えます」
心配そうに尋ねるロゼッタに対し、側室セシリアが、ふっと悪戯っぽく、しかし絶対的な自信に満ちた笑みを浮かべて前に出た。
「ロゼッタ、心配ないわよ。ボーフォール家の人たちは、大きな勘違いをしていらっしゃるの。塩を取り上げたら私たちが困ると思っているの。言ってきているのは塩で塩漬け食材とは言ってないわ」
セシリアの背後から、侍女のエミーナとベルナデットが進み出る。
「今ある在庫の塩を全部、塩漬け肉、塩漬け魚、塩漬け昆布、塩漬け蓮根にして各地に分散」
リゼリアが冷徹な笑みを浮かべ、言葉を引き継いだ。
「ええ。ボーフォール家が表の街道でいくら塩の目を光らせようとも、我らはその裏で、彼らの預かり知らぬルートから、純度の高い塩を以前の『数倍』の規模で密かに、かつ大量に運び込むことができます。アルヴェリアの民が塩に困ることなど、未来永劫ございません」
イリアードは立ち上がり、力強く拳を握った。
「それだけではない。尚書省が『塩を制限した』という事実そのものを、逆に利用させてもらう。領内にはあえて『塩が足りなくて困っている』という偽の噂を流し、ボーフォール家を徹底的に油断させる。その隙に、我らは裏のルートで富と兵糧を蓄え、来たるべき時のための牙をさらに研ぎ澄ますのだ!」
その夜、ルネッタから、心配そうに震える『念話』がセシリアの脳裏に届いた。
『お姉様……! 尚書令アルベリックが、アルヴェリアへの塩を止めたと聴きました……! 私のせいで、故郷の皆さんが……っ!』
セシリアは、満天の星空を見上げながら、どこまでも温かく、そして力強い意識を妹へと返した。
『何を言っているの、ルネッタ。あんな見え透いた嫌がらせ、リゼリア様と私たちがとっくに先を読んで、塩食材を完成させておいたわ。アルヴェリアの倉庫は、今や真っ白な食材で溢れ返りそうよ。各地に塩井も作ったわ。だから、あなたは何も心配しなくていいの。お腹の子と共に、陛下の愛をたくさん受けて、ただ美しく笑っていなさい。――実家の私たちは、絶対に負けないから』
帝都の後宮で、ルネッタは涙を拭い、確かな微笑みを浮かべた。
ボーフォール家が仕掛けた卑劣な政治戦は、リヴィエール一族の圧倒的な異能と絆、そして冬の間に築き上げた完璧な戦略の前に、始まる前から完全に破綻していた。
帝国歴305年、5月。
アルヴェリアの地は、塩の檻に閉じ込められるどころか、誰にも見えぬ地下の動脈から爆発的な富と力を蓄えていたのであった。




