『アルヴェリアへの帰還』
帝国歴305年、4月下旬。
復興都市アンチルマに、真の春が訪れていた。
雪解け水で満たされた縦横無尽の水路は瑞々しく陽光を反射し、セシリアとエミーナが雪の下で拡張した広大な田畑には、青々とした苗が力強く根を張っている。かつて泥と瓦礫に塗れていた荒野は、今や誰もが目を疑うほどの豊穣の都へと生まれ変わっていた。
この完璧なる復興を成し遂げた立役者であり、一年間にわたりアンチルマ総督を務めたアルヴェリア親王イリアードは、今、ひとつの大きな決断を下していた。
総督拝命の任期満了に伴う解除、ならびに復興と治安維持のために皇帝アラリックから預かっていた、総勢十三万に及ぶ帝国軍の解体・再編。――それを帝都の皇帝へと願い出、正式に受理されたのである。
十三万の軍勢はそれぞれの故郷や本来の駐屯地へと再編されて戻り、イリアード自身は、自らの直属たる五千の「アルヴェリア親王軍」を率いて、数年ぶりに本拠地であるアルヴェリアへと凱旋することとなった。
出発の朝。アンチルマの中央広場から堅牢なレンガ敷きの主要街道にかけて、言葉に尽くせぬほど壮大な群衆が膨れ上がっていた。
「親王殿下! 行かないでくれ!」
「俺たちの命を繋いでくれたのは、イリアード様だ!」
集まったのは、アンチルマの市民たちだった。家を失い、飢えに震えていた彼らに手を差し伸べ、奇跡のような速度で都を蘇らせてくれた若き親王との別れに、誰もが涙を流していた。
だが、別れを惜しんでいたのは市民だけではない。
街道の左右に整列し、一糸乱れぬ敬礼を捧げていたのは、これまで共に血と汗を流してきた十三万の帝国軍の将兵たちであった。近衛軍や禁軍の精鋭たちも含まれる彼らは、当初、中央から見れば「辺境の親王」に過ぎないイリアードを侮る者も少なくなかった。しかし、数年前のダラーン攻略戦から始まり、アンチルマ復興、そして冬の豪雪を共に見事に乗り越えたことで、彼らのイリアードに対する敬意は、狂信的なまでの忠誠へと変わっていた。
「イリアード総督……いや、アルヴェリア親王殿下! 貴方様と共に戦えたことは、我ら帝国軍人の生涯の誇りにございます!」
前線で部隊を率いていた屈強な将軍が、声を詰まらせながら剣を掲げた。十三万の兵たちの地鳴りのような歓声と軍靴の音が、アンチルマの大地を揺らす。
愛馬の背に跨ったイリアードは、誇らしげに、そして万感の思いを込めて群衆を見渡した。
「皆、顔を上げてくれ。このアンチルマを蘇らせたのは、私の力ではない。私の言葉を信じ、共に歩んでくれた市民と、地を這うような過酷な任務を全うしてくれた帝国軍の将兵、お前たち一人一人の血と汗の結晶だ。私は総督の任を退くが、この美しい都と、お前たちという友を得たことを生涯忘れはしない。――皆、健やかにあれ!」
イリアードが力強く右手を掲げると、地平線を埋め尽くす群衆から、割れんばかりの歓声が巻き起こった。
アンチルマの門を出て、広く強固に整備されたレンガの街道を、五千のアルヴェリア親王軍が粛々と進む。
行軍の先頭、イリアードの左右には、正妃リゼリアと側室セシリアを乗せた、豪奢ながらも頑丈な馬車が並んでいた。
馬車の窓を開け、遠ざかっていくアンチルマの街並みを見つめていたセシリアは、ふう、と深く長い息を吐き出した。
「本当に……終わったのね、イリアード様。なんだか、信じられないわ」
セシリアの顔には、大仕事をやり遂げた深い安堵感が広がっていた。冬の間、エミーナと共に文字通り身を削り、人知れず『念力』や『念創』の異能を限界まで絞り出して大地を創り変えたのだ。彼女の白い指先は、今も微かにその奇跡の残光を宿しているように思えた。
「ああ。これほど綺麗に十三万の帝国軍を兄上に返上できれば、帝都の三公たちも『イリアードが私兵を囲い込んでいる』とは文句を言えまい。軍を再編し、身軽になったからこそ、我らは本来の牙を隠すことができる」
イリアードが不敵に微笑むと、隣の馬車からリゼリアが、冷徹で理知的な瞳をこちらに向けた。
「ええ。十三万の軍勢をそのまま手元に置いておけば、尚書令アルベリックやボーフォール家が、陛下に『反逆の兆しあり』と讒言したでしょう。ですが、自ら軍権を返上し、わずか五千の親王軍だけでアルヴェリアへ退く姿を見せれば、彼らは油断します。……人の記憶も、噂も、すぐに風化するものですから」
リゼリアの『予知』と『念視』は、すでにその先の未来を捉えていた。
アンチルマの西側に天然の岩山を装って完成させた「擬態砦」には、一般の帝国兵ではなく、完全にイリアードの息がかかった信頼できる精鋭たちが、密かに配置を終えている。外向きには軍を縮小したように見せかけ、その実、オーレリアの防衛能力は冬の間に数倍へと跳ね上がっていたのだ。
「それにしても……」セシリアが、胸元にそっと手を当てながら呟いた。
「帝都の後宮のルネッタ、私たちの知らせを聞いたら、きっと喜んでくれるわね」
四月、ルネッタが皇帝アラリックの子供を懐妊したという一報は、後宮に激震を走らせると同時に、このアルヴェリアの家族にとっても最大の歓喜であった。ルネッタは今、皇后ロザリアや貴妃エレアノールたちの凄まじい嫉妬の嵐の中で、アラリックの優しい愛だけを頼りに戦っている。
『――お姉様、聴こえますか……?』
その時、行軍するセシリアの脳裏に、懐かしい、そして今や力強さを増したルネッタの声が、鮮明な『念話』となって響き渡った。
「ルネッタ……! ええ、聴こえるわ! 今、イリアード様たちとアルヴェリアへの帰路についているところよ!」
セシリアは馬車の中で、弾んだ声を意識に乗せて返した。
『風の噂で聴きました。イリアード様が総督を解かれ、軍を返上して故郷へ戻られると……。後宮では、ボーフォール家の人たちが「イリアードは牙を抜かれた」と、馬鹿にしたように笑っています。でも、私には分かっています。お姉様たちが、私のために、どれほど恐ろしい「牙」を現地に残してきてくれたかを』
ルネッタの意識からは、後宮の激しい陰謀に晒されながらも、一切怯まぬ気高き后妃としての覚悟が伝わってきた。
『陛下は、今朝も私の元へ来て、お腹の子に優しく語りかけてくださいました。アルヴェリア軍の再編を受理されたのも、私の一族を帝都の文官たちの攻撃から守るための、陛下の深い配慮なのです。お姉様、私はこの白亜宮で、絶対に負けません。だから、皆さんも数年ぶりの故郷で、どうか羽を休めてくださいね』
「ええ、ありがとう、ルネッタ。何かあれば、いつでも私たちの異能を繋ぎなさい。私たちは遠く離れていても、あなたと共にあるわ」
愛する妹との念話を終え、セシリアは窓の外の青空を見上げた。
街道の先には、数年ぶりとなる懐かしいアルヴェリアの美しい山々が、うっすらと見え始めていた。五千のアルヴェリア親王軍の足取りは軽く、彼らが口ずさむ故郷の軍歌が、春の爽やかな風に乗って響き渡る。
総督としての重荷を下ろし、一見すれば牙を抜かれたかのように退くイリアード。だがその実、彼の背後には、誰にも知られず完成した難攻不落の要塞と、肥沃な大地、そして何より「皇帝の寵愛と一族の異能」という、帝国最強の絆が結ばれていた。
激動の帝国歴305年、春。
若き覇王イリアードは、次なる時代の嵐を見据えながら、最愛の妻たちと共に、静かに、そして不敵に故郷の門をくぐるのだった。




