『確かな後ろ盾となる為に』
帝都オクタヴィアから遙か離れた復興都市アンチルマ。
凍てつく冬の海から吹き付ける風は鋭く、街を囲む石壁を白く染めていたが、アルヴェリア親王イリアードの館の奥深くにある一室だけは、暖炉の爆ぜる音と共に温かな空気に満たされていた。
二十三歳になるアルヴェリア親王、そしてアンチルマ総督であるイリアードは、長い旅路の疲れを滲ませながらも、安堵の息を漏らして長椅子に深く身を沈めていた。皇帝アラリックの異母弟という重責を担い、帝都での大がかりな「元会儀礼」を無事に終えて帰還したばかりだった。
「お帰りなさいませ、殿下。長旅、本当にお疲れ様でございました」
静かに熱い茶を差し出したのは、親王妃リゼリア。二十二歳になる彼女は、イリアードの従妹であり、そしてリヴィエール一族の血を引く「異能」の持ち主でもある。彼女の湛える理知的な瞳は、言葉にせずとも夫の無事な帰還を深く喜んでいた。
リゼリアのすぐ後ろには、彼女の従妹であり、イリアードの側室である二十一歳のセシリアが控えていた。普段は快活な彼女の顔には、今、隠しきれない焦燥と不安が張り付いている。
それもそのはずだった。先月十二月、セシリアの実の妹である十七歳のルネッタが、皇帝アラリックの強い希望によって帝都の後宮へと召し上げられたのだ。そして、このお正月に行われた元旦大朝会の宴にて、大勢の前にて舞を披露したという噂は、早くも遠くアンチルマにまで届いていた。
「殿下……帝都で、ルネッタに、妹に会えたのですか?」
セシリアは、縋るような声を漏らした。その指先が微かに震える。彼女の持つ異能――念動や念力、物質を創り出す「念創」の力が、感情の揺らぎに呼応して、部屋の片隅に置かれた銀の燭台をわずかにカタカタと震わせた。
「ああ、会えたよ、セシリア。落ち着くんだ。……リゼリア、彼女にもこちらへ来て座るように言ってくれ」
イリアードは優しく首を振り、セシリアを促した。リゼリアがそっと手を差し伸べると、彼女たちの侍女であるベルナデット、ロゼッタ、エミーナらリヴィエールの娘たちも、固唾を呑んで部屋の隅からその様子を見つめた。彼女たちもまた、念話や念視といった様々な異能を持つ一族の者たちであり、年若いルネッタの身を誰よりも案じていたのだ。
セシリアが椅子に腰を下ろすと、イリアードは茶を一口含み、記憶を紐解くように静かに語り始めた。
「元旦の『元会儀礼』、その後の上寿酒礼の宴は、それは壮大なものだった。世界のあらゆる国からの使節団が集まり、白亜宮は大極殿が割れんばかりの熱気に包まれていた。……そして、宴の最中、兄上――皇帝アラリック陛下が、新たな妃の舞を披露させると仰った」
「ルネッタの、舞……」
セシリアが胸元に手を当てる。十七歳のルネッタは、リヴィエール一族の中でも一際強大な「異能」を秘めた娘だった。念動や念話、念視だけでなく、未来を垣間見る「予知」の力さえも持っている。だが、その心根はまだ幼く、純粋で、何より戦いや政治とは無縁の静かな少女だった。
「ルネッタが舞台に進み出た時、私は息が止まるかと思った。だが、彼女は見事だったよ。まるでオクタヴィアの冬空を舞う一筋の光のように、本当に、美しく清らかな舞だった。百官は皆、言葉を失って見惚れていた。もちろん、私もだ」
イリアードの言葉に、セシリアの目からぽろぽろと涙が溢れ落ちた。
「よかった……。あの、あの子が、大勢の前で大役を……。でも、殿下。陛下は……陛下はルネッタに、どのように接していらっしゃるのですか?」
これこそが、この部屋にいる全員が最も恐れ、知りたがっていた核心だった。冷徹なる暴君、あるいは絶対的な覇王として知られる皇帝アラリック。彼がアルヴェリアを牽制するための人質としてルネッタを奪ったのだとしたら、彼女の命は常に刃の上にある。
しかし、イリアードの口から出た言葉は、意外なものだった。
「心配いらない、セシリア。兄上は……アラリック陛下は、ルネッタをとても大切に、優しく扱ってくださっている」
その言葉に、部屋中がしんと静まり返った。リゼリアが驚いたように夫の顔を見つめる。
「私は宴の翌日、内侍監のウィンザーの手引きで、極秘裏に後宮のルネッタの宮を訪れる許しを得たんだ。兄上からの特別な配慮だった。そこでルネッタと二人だけで話すことができた」
イリアードは当時の情景を思い浮かべるように、目を細めた。
金銀財宝や最高級の香料に満ちた豪華な部屋。そこにいたルネッタは、確かに緊張と戸惑いの表情を浮かべてはいた。しかし、その瞳に「怯え」や「絶望」の色はなかったのだという。
「ルネッタは、私にこう言ったんだ。『イリアード様、私は大丈夫です』と。陛下は、緊張で震えていた彼女の肩を優しく抱き寄せ、その不安を溶かすように、温かい手で髪を撫でてくださったそうだ。アルヴェリアから遠く離れて寂しかったろう、と、その孤独に寄り添う言葉をかけてくださったと、ルネッタ自身の口から聞いた」
「陛下が……あの冷酷な皇帝が、ルネッタに優しく?」
セシリアは信じられないといった様子で、涙に濡れた目を丸くした。
「ああ。兄上はルネッタに対し、至高の宝物を扱うかのように真摯な情愛を注いでおられるようだ。『何も恐れるな、私が必ずお前を守る』と、そう仰ってくださったと、ルネッタは少し頬を赤らめながら話してくれたよ」
その言葉を聞いたリゼリアは、そっと自分の胸に手を当て、目を閉じた。彼女の持つ「予知」や「念視」の力が、遠く離れた帝都の光景を微かに捉えたのかもしれない。リゼリアは小さく息を吐き、微笑んだ。
「殿下の仰る通りです、セシリア。私の感覚にも、不穏な闇は伝わってきません。陛下は、本当にルネッタの心を受け入れ、彼女を愛そうとしてくださっている。……ですが、だからこそ、別の危険が生まれています」
リゼリアの言葉に、イリアードも重々しく頷いた。
「その通りだ、リゼリア。後宮は美しき狼たちが牙を剥く戦場だ。後ろ盾の薄い、アルヴェリア出身の十七歳の少女が、皇帝の破格の寵愛を二夜連続で受けた。皇后ロザリアのシュタインベルク家、そして尚書令となった兄を持つ貴妃エレアノールのボーフォール家……。彼女たちの嫉妬と敵意が、今、ルネッタに集中している」
部屋の空気が、再び引き締まる。侍女のロゼッタやエミーナも、拳を固く握りしめていた。
「ルネッタ様はリヴィエールの異能を持っています。念話や念視の力で、敵の悪意を事前に察知することはできるかもしれません」と、ロゼッタが静かに言った。
「ええ、それに予知の力も。でも、あの方はまだ十七歳よ。政治の権謀術数に耐えられるほどの狡猾さは持っていないわ」と、エミーナも続く。
セシリアは涙を拭い、強い光を宿した瞳でイリアードを見つめた。
「イリアード様。ルネッタが陛下に愛されているのなら、私は姉として、全力であの子を支えたい。私たちの『異能』は、そのためにあるはずです」
「分かっている、セシリア」
イリアードは立ち上がり、二人の妻の肩に手を置いた。
「ルネッタも言っていた。『私はここで、陛下を信じて、己の運命に立ち向かいます。だから、アンチルマの皆さんも、どうか私を心配しないで、それぞれの役目を果たしてください』とね。十七歳とは思えぬ、立派な覚悟だったよ。彼女は、陛下から注がれる愛を道標に、あの後宮で生き抜く気だ」
イリアードの力強い言葉は、アンチルマの館に集うリヴィエールの娘たちの心に、確かな灯火をともした。
遠く帝都オクタヴィアの白亜宮では、今もルネッタを巡る激しい権力闘争の歯車が回っているだろう。近衛軍や禁軍、三公たちの思惑が交錯する中で、ルネッタは皇帝アラリックの優しい腕の中に囲われながら、自らの戦いに挑んでいる。
「私たちはここで、アンチルマの復興を成し遂げ、ルネッタの確かな後ろ盾とならねばならない。彼女が誇れるアルヴェリアであるために」
イリアードの宣言に、リゼリア、セシリア、そして侍女たちは深く深く頷いた。窓の外では相変わらず冷たい寒風が吹き荒れていたのであった。




