『静かなる戦場』
燦々と降り注ぐ冬の陽光が、白亜宮の奥深くに位置する後宮の回廊を白く照らし出していた。
前夜の賑わいが嘘のように、朝の後宮は静まり返っている。しかし、それは平穏を意味してはいない。むしろ、嵐が去った後の静けさというよりは、巨大な嵐が到来する直前の、気圧が急激に下がるような不気味な緊迫感が満ちていた。
帝国歴三〇五一年、一月二日。
前日の「元会儀礼」において、満座の前にて見事な舞を披露した新たなる妃――十七歳の昭容ルネッタ・リヴィエールの存在は、一夜にして後宮の勢力図に冷たい一石を投じていた。
「昨夜の瑞々しい舞は、今朝になっても宮中の一番の噂になっておりますよ、皇后様」
後宮の最高位に君臨する正室、皇后ロザリア・フォン・シュタインベルクの居宮にて、側近の女官が恭しく茶を捧げながら声を潜めた。
ロザリアは二十四歳。皇帝アラリックの従妹であり、名門シュタインベルクの血を引く気高き女性である。彼女の膝元には、三歳になる息子のイスマ皇子が愛らしく座り、玩具に手を伸ばしていた。離れたところでは、六歳のシルチュ皇女が静かに書物に目を落としている。
「……あのような若い娘の舞ひとつで、いちいち騒ぎ立てるものではありません」
ロザリアは気品溢れる仕草で茶杯を傾けながら、冷淡に言い放った。その声音にはいささかの動揺も感じられない。シュタインベルク家は先の司徒リヒャルト、尚書令ジョヴァンニが更迭され、宮廷での政治的基盤に揺らぎが生じていた。太皇太后アデレードも皇太后ジュリエットも修道院に隠居した今、後宮におけるシュタインベルクの栄光を支えているのは、自分一人であるという強い自負が彼女にはあった。
「リヴィエール家の娘……。イリアードの母親の血筋であり、その側室の妹。陛下があえてあの娘をアルヴェリアから呼び寄せ、元旦という大舞台で舞わせた意味を、私たちが違えるわけにはいきません」
アラリックがルネッタを入宮させたのは、単なる好色によるものではない。それは、異母弟であるアルヴェリア親王イリアードへの牽制か、あるいは別の意図があるのか。ロザリアの切れ長の瞳に、鋭い光が宿る。
「まずは様子を見ます。どれほど美しく舞おうとも、ここは後宮。根の張らぬ若木など、一陣の風で吹き飛ぶということを、いずれ思い知るでしょう」
同じ時刻、後宮の一角にある華麗な宮殿では、まったく異なる空気が流れていた。
「お兄様が尚書令に就かれたというのに、陛下は元旦の夜、あの小娘にばかり目を細めていらしたわ」
不満を隠そうともせず、豪奢な長椅子に身を横たえているのは、貴妃エレアノール・ボーフォールであった。彼女も皇后と同じく二十四歳。兄のアルベリック・ボーフォールが新たな尚書令として実権を握ったばかりであり、今やボーフォール家は飛ぶ鳥を落とす勢いにある。
彼女の傍らでは、五歳になる息子のサンドル皇子が退屈そうに控えていた。
「貴妃様、お心を静めましてお口を慎みくださいませ。新参の昭容ごときに、貴妃様が格の違いを見せつけてやれば済むことでございます」
老練な侍女が宥めるように言うと、エレアノールはふんと鼻を鳴らした。
「わかっているわ。たかが十七歳の、後ろ盾も薄い娘。ただ、あの舞の最中、陛下が一度もこちらに視線をくださらなかったのが気に入らないのよ。あの娘が纏っていたのは、アルヴェリアの気配……。陛下はあのイリアード親王の影を、あの娘に重ねて楽しんでおいでなのかもしにゃいわね」
エレアノールは美しい爪をいじりながら、ふっと妖艶な笑みを浮かべた。
「お兄様にも伝えておかなければ。リヴィエール家の娘が後宮でどのような動きを見せるか、前線の近衛軍や禁軍の動きも含めて、監視を強めるようにと。ねえ、サンドル、お前が次の皇帝になるのですからね。あのような羽虫に惑わされてはなりませんよ」
さらに別の宮では、賢妃ベアトリクス・ヴァロアが四歳のライナ皇女を優しく抱きかかえながら、窓の外を見つめていた。二十三歳の彼女は、中書令のバザラード・ヴァロアを実家に持つ、聡明で物静かな女性である。
「お母様、昨日の舞のお姉様、とっても綺麗だった」
ライナ皇女が無邪気に呟く。ベアトリクスはその柔らかな髪を撫でながら、ふっと寂しげな微笑を漏らした。
「ええ、本当に綺麗な舞だったわね、ライナ。でもね、あの綺麗さが、この後宮では時に刃よりも鋭く人を傷つけるのよ」
ベアトリクスは、昨夜の宴の席で、他の中書令や侍中たちがルネッタを見る目が一変した瞬間を忘れていない。ただの少女ではない。皇帝が自ら望んで引き入れたという事実だけで、彼女は後宮の誰もが無視できない巨大な存在となったのだ。
「私はただ、あなたと静かに暮らせればそれでいいのだけれど……」
彼女の願いとは裏腹に、後宮の歯車は確実に狂い始めていた。
その頃、当の本人である昭容ルネッタ・リヴィエールは、与えられたばかりの自宮の庭園に佇んでいた。
十七歳の彼女の顔には、昨夜の大舞台をやり遂げた安堵感とともに、隠しきれない疲労と、この巨大な宮殿に対する深い孤独感が滲み出ていた。
「ルネッタ様、外は冷えます。中へお入りください」
アルヴェリアから連れてきた数少ない侍女が、心配そうに厚手の長衣を彼女の肩にかけた。
「ありがとう。でも、もう少しだけ、この空気を吸っていたいの」
ルネッタは遠くの空を見つめた。西の古都アンチルマにいる、姉のセシリア。そして、叔母でありイリアード親王の母であるフレデリカのこと。さらに、従姉である親王妃リゼリアの顔が脳裏をよぎる。
(私は、陛下の何になれば良いのだろう……)
皇帝アラリックの強い希望によって、このオクタヴィアの白亜宮へと召し上げられた。昨夜の舞は、皇帝への絶対的な従属を示すためのものであり、同時に、自分がこの後宮という戦場で生きていくための最初の洗礼でもあった。
百官の視線、そして何より、皇后や貴妃をはじめとする后妃たちの、肌を刺すような冷ややかな眼差しを、ルネッタは肌で感じていた。二十二歳の淑妃ブランシュ・ウィンザー、二十一歳の恵妃マチルダ・デル・ペーレ、二十歳の徳妃ジゼル・サヴォイア。そして自分に最も年齢が近く、十九歳にして昭儀の位にあるイザベル・ダキタニア。彼女たちの視線には、明らかな警戒と、値踏みするような鋭さがあった。
「失礼いたします、ルネッタ昭容様」
突如、庭園の入り口から涼やかな声が響いた。
振り返ると、そこには豪華な、しかしどこか洗練された衣装を纏った一人の女性が立っていた。それは、皇帝の身の回りの世話や事務を統括する「六局二十四司」を率いる高位の女官であった。
「内侍監ギルバート・ウィンザー様の名代として参りました。ルネッタ様、昨夜の素晴らしい舞に対し、陛下より特別なお下賜品が届いております。また、今宵、陛下がこちらの宮へ渡られるとの仰せにございます」
その言葉を聞いた瞬間、ルネッタの身体が微かに震えた。
入宮してひと月、そして元旦の舞。ついに、皇帝アラリックが自分を本当の意味で「妃」として扱う時が来たのだ。それは栄誉であると同時に、他の后妃たちの嫉妬と敵意を決定決定づける、決定的な引き金となる。
「……謹んで、拝命いたします」
ルネッタは深く頭を垂れた。
その知らせは、瞬く間に後宮の隅々にまで駆け巡った。
「今夜、陛下が新参の昭容の元へ行かれる」という事実は、淑妃ブランシュのウィンザー家、恵妃マチルダのデル・ペーレ(近衛軍団長レイナルドの実家)家、徳妃ジゼルのサヴォイア(禁軍の長バルトロメウスの実家)家、そして昭儀イザベルのダキタニア(親衛隊長バルドゥインの実家)家といった、武官や重臣たちの家系にもすぐさま伝わることとなる。
皇后ロザリアは、その報告を耳にしても、ただ静かにイスマ皇子の手を握り直すだけだった。しかし、その爪は、敷かれた絨毯を深く突き刺さんばかりに強張っていた。
貴妃エレアノールは、手にした磁器の茶杯を床へと叩きつけ、激しい破砕音を響かせた。
誰もが、この十七歳の少女がもたらすであろう波乱を予感していた。
近衛軍、禁軍、そして三公たちの権力闘争の影が、美しき后妃たちの微笑みの裏で妖しく蠢いている。
帝国歴三〇五年の二日目の夜が、静かに、そして重々しく更けようとしていた。白亜宮の後宮は、美しく着飾った女性たちの静かなる戦場として、その門をさらに深く閉ざすのだった。




