第八話 煙が嫌いなだけ
「支部長、ちょっといいですか」
ある日、愚王が支部長のもとへ、妙に真剣な顔で向かっていくのを、カインは休憩室の隅から見ていた。
「休憩室の喫煙、外にしてもらえませんか。煙、苦手で」
支部長は、少し驚いたような顔をしたが、意外にもあっさりと頷いた。
「まあ、確かに、他にも気にしてる子がいるかもしれないしな。じゃあ、今日から外にするか」
「ありがとうございます!」
満面の笑みでそう言い残し、愚王は上機嫌に休憩室へ戻ってきた。
新人が、しかも入社してまだ間もない人間が、こんな要望を出して、あっさり通る。普通の会社であれば、まず考えられないことだった。だが、この愚王という男に限っては、なぜか通ってしまう。理由は誰にも分からなかったが、上司たちの間で、なぜか妙に可愛がられているらしいことは、カインも薄々感じていた。
「おい、聞いたか、これ」
その日の夕方、ノアがカインのところに来て、そう耳打ちした。
「聞いた。あいつ、また勝手なことしてくれたな」
「まあ、俺は別に、煙苦手じゃないから困らないけど……お前は吸うだろ」
「吸う」
カインにとって、休憩中の一服は、数少ない息抜きの時間だった。それを、こんな形で制限されるのは、正直、腹立たしいものがあった。
しかも、腹立たしいのは、それだけではなかった。
全支部の中で、成果が最も低いのは、相変わらずフェリシオン支部の新人たちだった。それも、愚王一人の足を引っ張る割合が、圧倒的に大きい。それにもかかわらず、当の本人は、こういうところでだけ、やたらと積極性を発揮する。
「おい、ダニー」
カインは、休憩室から出ようとする愚王を呼び止めた。
「何?」
「お前、普段仕事しないくせに、こういうことだけは一生懸命だよな」
「え、これは煙が苦手だから、健康のために」
「健康のためにって、お前の健康より先に、成績のこと気にしろよ」
「それとこれとは別問題でしょ」
「別問題じゃねえよ。上司に取り入るのだけは上手いのに、肝心の仕事はできないって、一番タチ悪いパターンだろうが」
愚王の顔が、みるみるうちに歪んでいった。
「そ、そんな言い方しなくても……」
「事実だろうが。休憩時間削られてまで、お前のわがまま付き合わされてるこっちの身にもなれよ」
「わがままって言うな!」
「わがままだろうが、これ!」
「ぐお”お”お”お”ぉぉーー」
愚王が、休憩室の真ん中で、盛大に泣き出した。他の社員たちが、何事かとちらちらこちらを見ている。
「お前、これで支部長にまた変な取り入り方すんなよ」
カインがそう釘を刺すと、愚王は鼻を啜りながら、恨めしげにこちらを睨んできた。
「カインは、いつも僕に厳しい……」
「お前が甘えすぎなんだよ」
その後、支部長の耳に、この一件がどう伝わったのかは分からない。ただ、翌週には、なぜか愚王の席の周りにだけ、ちょっとした甘い菓子が差し入れされているのを、カインは見かけることになった。
(なんでこいつだけ、こんな優遇されてんだよ……)
理不尽さに、カインはただただ頭を抱えるしかなかった。




