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「お待ちしておりましたわ。雪花さま」
日和殿に着くと、皇后候補の一人である日乃子がにこやかに迎えてくれた。
茶色の柔らかそうな髪を一つにまとめ、黄緑の橄欖石が埋め込まれたかんざしを挿した日乃子は人懐っこい笑顔を浮かべている。
一瞬の気の緩みが命取りになる。
雪花は若干汗ばんだ手を握り込んだ。
(なにがあっても表情を崩さないようにしなくては……)
雪花は自分に言い聞かせた。
「……お招きいただきありがとうございます。日乃子さま」
笑顔の日乃子の後ろには、十人を超える日和殿の侍女が怪訝そうな顔で雪花を見ていた。
天華宮の中で良い話を聞かない自分が、大切な主人が住まう宮殿に来ることが面白くないのだろう。
「お久しぶりですわね、雪花さま。前回の星空の宴以来かしら」
「……そうですね」
「文を受け取って頂けて嬉しいですわ」
どうやら日乃子は、自分の後ろに並ぶ侍女が雪花にじっとりとした視線を送っていることに気付いていないようだ。
雪花を見てにこにこと笑っている。
「どうぞ、こちらへ」
柔らかい黄緑地に桜の花びらと牡丹の花が美しく描かれた打掛を翻し、日乃子は歩き始めた。雪花もそのあとに続く。
日和殿と六花殿の造りは同じはずなのに、雰囲気はまるで違った。
白を基調とした六花殿に対し、日和殿は春のような暖かい色合いがふんだんに使われている。襖や装飾には春に咲く花々が描かれており、朗らかな日乃子によく似合っていた。
(住む妃によってこんなにも雰囲気が変わるものなのね)
雪花は周囲を見回す。
縁側を進んでいくと、大勢の侍女たちがせわしなく掃除をしていた。
日乃子の姿が見えた途端、侍女たちは目を輝かせながら礼儀正しく頭を下げていく。
「いつもありがとう」
「い、いえ! とんでもございません」
鈴を転がすような可愛らしい日乃子の声に、侍女たちは嬉しそうに頬を赤らめながら謙遜した。
「侍女部屋においしいお菓子を置いたからあとで食べてね」
「ありがとうございます!」
日乃子と侍女のやり取りを後ろから眺める。
(日和殿の侍女たちは楽しそうに仕事をするのね……)
日乃子がいかに侍女たちに慕われているかが見て取れた。
ふと、自分の宮殿の侍女たちの姿が思い浮かぶ。六花殿に和気あいあいとした空気感はない。
ぼんやりと目の前の光景を見ていると、侍女たちが雪花の存在に気付き、顔を強張らせて固まった。
初対面だというのに侍女たちがこんな顔になってしまうのは、雪花が冷たい妃だという話が広まっているからだろう。
噂とは怖いものだ。
日乃子と雪花は、大きな庭にたどり着いた。
赤や橙色に染まる大きな木や花弁が一枚ずつ折り重なるように咲く山茶花が庭を鮮やかにする。
落ち着きのある色味の花で統一された六花殿の庭とは違う華やかな色合いに、雪花は目を見張った。
「今日は暖かいから、お庭でお茶でもしようと思ったのですが、よろしいでしょうか?」
「はい、大丈夫です」
「良かったですわ! ではこちらにいらして!」
日乃子は雪花の手を取って庭の中央に連れ出す。
庭には、舞い落ちた紅葉が敷き詰められたような鮮やかな赤い毛氈が敷かれていた。
「こちらへどうぞ」
雪花は言われるがままに毛氈の上に座る。
「雪花さまは苦手なお茶とかございますか?」
「いえ、特には」
「それは良かったです。ちょうど昨日頂いたばかりのお茶がありましたの。そちらを頂きましょう。梓、お茶の用意を」
「かしこまりました」
日乃子の指示に、梓と呼ばれた侍女を筆頭に日和殿の侍女たちが一斉に動き出した。
梓という侍女は宴の時に見たことがある。きっと日和殿の筆頭侍女なのだろう。
人が少なくなり、雪花は少しだけ息が吸いやすくなった気がした。
「私、雪花さまと一度ゆっくりお話してみたかったのです」
人が少なくなった途端、目の前の日乃子の表情が一変した。扇子を口元に当て雪花を見る。その目は柔らかさを失っていた。
普段の柔らかい雰囲気が皆無な日乃子に、ぴくりと雪花の肩が揺れる。
「……どういったお話でしょう?」
「単刀直入に申します」
雪花と日乃子の間に冷たい風が吹きつけた。
「どうしてあなたのような方が、ここにいるのですか?」
「……」
柔らかな日乃子に似つかわしくない、雪花の心の内を覗くかのような鋭い目だった。含みのある質問に雪花は一瞬言葉に詰まる。
「私は主上さまの妻、つまり皇后の座を求めて日々過ごしております。他の妃もそうです。しかし、雪花さまからはそれが伝わってきません。あなたさまは主上さまのことをどう思っていらっしゃるのですか?」
その真剣なまなざしから、日乃子がいかに主上を慕っており、本気で皇后の座を狙っていることがひしひしと伝わった。
(そんなことを聞かれても、わたくしはただ……)
望んでこの場にいるわけではない。それに、自分が皇后の座に相応しいなんて少しも思っていない。
雪花は鼻から空気を吸い込むと、感情を一定にしたまま淡々と答えた。
「……わたくしは皇后になるつもりはございません。いえ、わたくしには皇后になる器は皆無ですのでご心配なく」
「……そうなのですか?」
日乃子はぴくりと眉を動かし反応する。雪花の答えを信用していないようだった。
「……わたくしは日乃子さまのように人々の前でにこやかに話すことも細やかな心配りもできません。誰かの小さな変化に気付けることはとてもすごいことだと思います。それに、花見の宴の際に披露されていた高度な舞も数日では獲得はできません。人々をよく見て、努力できる方が人前に立つ皇后に相応しいと私は思っておりますから」
「雪花さま……」
表情は変えないものの、つらつらと話す雪花が珍しかったのだろう。日乃子はぽかりとした表情を浮かべたのち、ふふふと上品に笑った。
「それでしたら、私たちがいがみ合う必要はございませんわね。安心しました」
「……」
「別に私は皇后候補の皆様と争いたいわけではありませんのよ?」
雪花にしか聞こえない声で呟く日乃子の表情はもう曇っていなかった。
「最近、朝晩は冷えますが、日中はお日様が出ていれば暖かいですわね」
「そうですね」
さっきまでの重い空気はどこへやら。日乃子は雪花に対して明るく一方的に話をした。淡々と返事をする雪花に愛想を尽かすこともないようで、話題が次々と湧いては変わっていく。
「お待たせいたしました」
(……?)
日和殿の侍女が目の前に置いたお茶に雪花は一瞬首を傾げた。なぜなら、茶が茶色く濁っていたのだ。緑色の茶を想像していた雪花は、初めて見た茶色い茶に内心顔を歪めた。
(腐っている……? それとも毒?)
あからさまな嫌がらせかと失礼な考えが頭をよぎる。だが、異臭が放たれているわけではないし、日乃子の前にも同じ茶が置かれていた。
(これは、なに……?)
「あら? 初めてでした?」
雪花の戸惑いを察した日乃子は湯呑を持ち上げるとそのまま口づけた。茶色の液体を一口口に含んでにっこり笑う。
「ふふふ、大丈夫ですわ。決して毒などは入っておりません。これは紅茶というお茶ですわ」
「紅茶……」
馴染みのない言葉を復唱する。見慣れない色の茶だが、湯呑を持ち上げてみると、ほんのり甘い香りがした。
「これは隣国でよく飲まれているお茶だそうです」
日乃子の言葉を聞きながら、雪花は一口茶を飲んだ。芳醇なコクのある味が口いっぱいに広がる。
「……甘い」
初めて味わう紅茶の美味しさに、思わず本音がこぼれた。
渋みが控えめでほんのり甘い。初めてでも抵抗なく飲みやすい味。そして、わずかに香る果物の風味が食欲を掻き立てた。
一口、二口と雪花は無言で飲み進める。
その時、ほんの一瞬、指先にひやりとした感覚が走った。立ち込んでいた湯気が音もなく消えかかる。
(……!)
雪花は瞬時に漏れ出ている力に気付き、緩みそうになる頬を内頬を噛んでぐっと堪えた。
だが、日乃子は雪花の変化に気付くこともなく、口許に手を当てて笑っていた。
「雪花さまは本当にお茶がお好きなのですね」
「……」
雪花は乱れた気持ちを落ち着けようと、鼻からぬるい空気をゆっくり吸い込んだ。
琴乃の心配そうにする視線が背後からひしひしと伝わってくる。
「気に入って頂けて良かったですわ。今までにない色味に私も初め戸惑いましたが、いつものお茶よりも甘みがあって気に入りましたの」
日乃子は雪花の反応がなくても饒舌に語る。あまりにも楽しそうに話すものだから聞いているうちに、雪花の気持ちは少しずつ落ち着いていった。
「こちらは先日お戻りになった春陽さまから頂いたものなのです」
「……春陽さま?」
雪花は聞き馴染みのない名前に眉を顰めた。
天華国の遥か昔からの掟。
「春」の文字を名に刻めるのは皇族だけだというもの。
帝の名は確か、春真である。春陽なんて今までいただろうか。皇族の血縁者は皆、天光殿で暮らしているのだから、そんな人がいればこれまでに会っていたはず。
それなのに「春陽」なんて今初めて聞いた。
「……雪花さま、春陽さまとは主上さまの弟君にございます」
背後から琴乃が耳打ちをしてくれる。帝に弟君がいたなんて初耳だ。
「春陽さまは長らく隣国にご遊学なさっていましたの。つい先日お戻りになられたそうですよ」
日乃子は何も知らない雪花を笑うわけでもなく、丁寧に教えてくれた。
(帝の弟君……)
「初めてお会いしましたが、とても美しい方でしたわ」
日乃子は頬に手を当てうっとりする。
「美丈夫とはあのような方のことを言うのですね。……主上さまとはまた違う素敵な方でしたわ」
(ずっと隣国にいらしたのに何故急に? 主上さまと弟君、ね…… まぁ、わたくしには関係のない話だわ)
人と関わらない雪花にとって弟君が戻ろうが戻らなかろが関係ない。
ただ、天華宮内が大きく揺れ暮らしにくくなるのはごめんだ。
紅茶を飲みながら雪花はそうぼんやりと考えるのだった。




