【特別編】婚姻届と誓約書
~世界一合理的な結婚記念日~
二十六歳になったばかりの、良く晴れた平日の午前中
私と巧は、有休を取得して市役所の市民課ロビーにいた。
二週間前に新居への引っ越しと住民票の異動はあらかじめ済ませてある。
今日という平日に有休を取った目的はただ一つ。
「婚姻届の提出」と、それに伴う「各種身分証の改姓手続き」を一日で完結させるためだ。
ロビーは朝から大混雑で、モニターには呼び出し番号が淡々と表示されている。
周囲には、長時間の待ち時間にぐずる子供をあやす親御さんや、
申請書類を前に不機嫌そうに溜め息をつく人など、役所独特のどこか殺伐とした
空気が漂っていた。
そんな中、私たちは番号札を握りしめ、長椅子の端っこで
静かに順番を待っていた。
膝の上にあるクリアファイルには、記入済みの婚姻届が収まっている。
右側の「証人欄」に書かれた二名分の成人署名――
それは、学生時代からの私たちの親友に書いてもらったものだ。
私の証人になってくれたのは、大学時代からの友人。
私が「ベタベタした恋愛や同調圧力が苦手」だと知っても変な目で見ず、
お互いに程よい距離感で付き合ってくれてきた大切な理解者だ。
『茜らしい結婚だね! 無理に世間に合わせなくていいと思うよ。おめでとう!』
と、笑顔でサクッと署名してくれた。
巧の証人も同じく、学生時代からの友人。
巧のゲーム好きや一人時間を愛する性格をよく知る人物で、
『安藤のそのこだわりを理解してくれる人が見つかったなら最高じゃないか』
と喜んでくれたそうだ。
双方の親に頼んで「どんな相手だ」「式はどうする」と余計な干渉をされる
のは避けたかったけれど、
私たちの価値観をフラットに理解してくれる友人の存在は、
本当にありがたかった。
『702番の安藤様、8番窓口へお越しください』
機械的なアナウンスに呼ばれ、私たちは立ち上がった。
「安藤さん、茜さんですね。婚姻届ですね、お預かりします」
窓口の職員さんが手慣れた手つきで書類の記入漏れや証人欄の捺印をチェックしていく。
「はい、書類に不備はありません。これで受理となります。
本日付けで入籍となりますので」
「ありがとうございます」
あっけないほど一瞬で終わった行政手続き。
だが、これで私たちは法律上も正式に夫婦となったのだ。
しかし、私たちの「タスク」はこれで終わりではない。
そのまま住民課の窓口へ移動し、新戸籍の反映を待ってマイナンバーカードの
追記欄に『安藤』の文字を入れてもらう。
さらに市役所を出たその足で近くの警察署へ向かい、
裏面に新姓が記載された運転免許証を受け取った。
「よし。これで公的な改姓手続き(タスク)は一切完了ですね。
お疲れ様でした、茜さん……いえ、今日から『安藤茜』さんですね」
「警察署まで半日で回れて良かった。
職場ではアカウントやアドレスの変更申請が面倒だから旧姓のまま通すけど、
これで晴れて『安藤家』の公的な権利を手に入れたわけだね」
私たちは警察署の出口で顔を見合わせ、満足そうに笑い合った。
何百万という大金をかけて見栄を張り、大勢の人の前に立って気疲れする
結婚式なんて、最初から挙げるつもりは一切なかった。
その資金をこれからの生活費や、それぞれの趣味に回す方がよっぽど合理的だからだ。
◇
午後、私たちは家具もまだ揃いきっていない新居のマンションへと戻ってきた。
組み立てられたばかりのシンプルなダイニングテーブルに、向き合って腰掛ける。
「さて、茜さん。市役所で『法律上の婚姻』が完了したところで…
…ここからは、僕たちの『真の契約』を取り交わしましょう」
「うん。これが一番大事な本番だもんね」
巧がビジネス用のレザーファイルから、丁寧に印刷された二枚のA4用紙を取り出した。
そこには、一年の交際期間を経て、二人で何度も推敲を重ねて作成した
文章が並んでいる。
『安藤家 共同生活基本誓約書』
一、双方は互いの完全プライベート空間(個室)を尊重し、
事前の許諾なく侵入しないこと。
一、睡眠環境の最適化のため、寝室およびベッドは完全別個とする。
一、生活費および固定費は完全折半とし、個人の口座および自由資金には相互に
一切干渉しない。
一、夜の営みおよび過度なスキンシップの要求は行わず、
互いのパーソナルスペースを最優先とする。
一、家事は完全担当制(茜:料理・洗濯/巧:掃除・ゴミ出し・設備管理)とし、
不履行時は理由を問わず外食・代行サービスで柔軟に補うこと。
「文面に変更や異論はありませんか、茜パートナー?」
「完璧。何も文句なしだよ、巧パートナー」
万年筆を取り出し、私たちはそれぞれの署名欄に滑らかな字で
自分の名前を書き入れた。
カチリ、と硬質な音が聞こえた気がした。
世界にたった一つしかない、私たちだけの「快適な城」の鍵がかかった音だ。
「よし、契約完了!……じゃあ、お祝いに二人でご馳走でも食べに行こうか」
「いいね。あ、でも高いレストランとかじゃなくて、あの駅前の美味しい
洋食屋さんのハンバーグが食べたいな」
「賛成。あそこのデミグラスソース、絶品だもんね」
豪華な指輪も、ドレスも、誓いのキスもない。
あるのは、役所の冷たい窓口で受け取った受領証と、
テーブルの上に並んだ二枚の誓約書。
世間から見れば「味気ない」「冷めてる」と言われるかもしれない。
だけど、この紙切れ一枚に込められたお互いへの深い敬意と信頼こそが、
私たちの「愛」の形なのだ。
「これからよろしくね、旦那さん」
「こちらこそよろしく、奥さん」
お互いに「旦那」「奥さん」という言葉を使い慣れない口調で呼び合い、
私たちはくすくすと笑い合った。
世間のルールに縛られない、世界一自由で快適な夫婦生活が、ここから
始まったのだ。
(【特別編】・終わり)
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます
元々この物語は本編(第10話)で完結のつもりでした。
だけど想像以上にたくさんの方に作品を読んでいただいている
のが嬉しくて、ついつい安藤夫妻の過去や結婚当日のエピソードまで
書き足してしまいました。
各役所での煩雑な手続きをこなし、理解ある友人に支えられながら
誓約書を交わす、どこまでも二人らしいスタートラインを描いたつもりです。
楽しんでいただけましたら幸いです。
もしかしたら、また思い立った時にふらっと**新しいスピンオフ(特別編)**
を投稿するかもしれません
その時はまた温かくお付き合いいただけると嬉しいです。
最後に
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