1-8 公爵令嬢、お花を摘むのも一苦労
「ふぅ……。」
思わず、小さな息が漏れた。
二皿目のケーキを食べ終えたところで、チャチャのお腹はすっかり満たされていた。
もう、これ以上は入らないかもしれないとそう思うくらいには、しっかりと食べたわ。
けれど‥‥‥
(でも、あっちのデザートも気になるし‥‥‥)
テーブルの向こうには、まだ見たことのないお菓子が並んでいる。
色とりどりで、どれもとても美味しそうに見える。嫌‥‥‥絶対に美味しいに決まっている。
(もう少しだけなら、入るかも?‥‥‥きっと)
そんな欲張りな気持ちが、むくむくと顔を出し、すでにお腹はいっぱいなのに、目と心はまだ満たされていない。
そこで、残りの半分は給仕にお願いすることにした。運ばれてきたお菓子たちをとりあえず、一口味わってみるけれど、やっぱりこれ以上は無理だと感じて、持ち帰りを提案する。給仕は少し驚いたようだったけれど、すぐににこやかに頷き、丁寧に箱へと詰めてくれた。胸の前には、持ち帰り用のお菓子が入った箱を大事そうに抱えている。
ふふっ‥‥‥このお土産は夜に食べようかしらね。今日の頭はとっても重いけれど、とってもいい日だわ。美味しいケーキをたくさん食べられたし、しかも、お家でも続きを楽しめるし‥‥‥
「チャチャ、そんなに嬉しいの?」母がくすりと笑う。
「はい!」
思わず声まで弾んでしまった。
「帰ったら、お父様とお兄様にも見せるんです。」
「まあ。見せるだけ?」
「……少しだけなら、分けてあげます」
少し考えてから答えると、母は声を上げて笑った。
「それなら、お父様もお兄様もお喜びになりますね」
ひとしきり笑ったあと、母はそっと肩を回した。
「はぁ~‥‥‥さすがに少し疲れましたわね」
「お母様はあいさつ回りで大変そうですものね‥‥‥」
母はふっと微笑み、優雅な仕草で紅茶に口をつけた。
言われてみれば、チャチャも同じだった。
さっきまでは少し疲れていたけれど、お菓子を食べたら、少し元気が戻ってきた気がする‥‥‥
それでも、いつもの服装とは全然違う。ふわっと広がるスカートで、いつもよりきゅっと締められた腰。
歩くだけでも、何だか体も重たいが頭も重たい。
「いつものお洋服と違って大変です。中はどうなっているのか分からないくらい、いろいろ重なっていますし、歩くたびにふわふわして、でも、ぎゅっと締められてもいますし、なんだか‥‥‥」
「今日は正式なお茶会ですもの。初めてだから、慣れるまで大変よね?……わたくしも、昔は同じように苦労しましたわ」
母は一瞬、遠くに視線を向け、何かを思い出しているような仕草をした。
「はい‥‥‥」
(この服装は、可愛らしいけれど、快適ではない‥‥‥)
「あの、お母様」
「どうしました?」
「お花を摘みに行っても、よろしいでしょうか?」
「わかりました」
母はすぐに近くに控えていた王城の侍女へ目を向け、軽く手を挙げて合図を送った。
「申し訳ありませんが、娘をお願いできますか?」
「かしこまりました」
侍女は優雅に一礼すると、チャチャへ微笑みかける。
「チェチェーリア様、こちらへどうぞ。」
チャチャは立ち上がり、宝物のお菓子の箱を母へ預けた。
「これ、お願いします。」
「ええ。大切に預かっておきますね」
名残惜しく箱から手を離すと、侍女の後について歩き始める。すると、侍女が自然な動作でチャチャの少し後ろに回った。
「あの?」
「どうなさいましたか?」
「わたくし、一人でも大丈夫ですよ?」
その言葉に、侍女はきょとんと目を丸くした。
「ですが、お召し物のお手伝いがございますので‥‥‥」
「‥‥‥お手伝い?」
「はい、お一人では、難しいかと‥‥‥」
あまりにも当然という返事に、チャチャは首を傾げるしかなかった。
(お花を摘みに行くのに、お手伝い?‥‥‥)
まさか?用を足している場所に入ってくるわけでは‥‥‥ないですよね?
そんなことを思いながら、チャチャは侍女と一緒に廊下を歩き始めた。
案内されたのは、お茶会の会場から少し離れた静かな一室だった。
「こちらでございます。」
侍女が扉を開けれくれる。
中は明るく清潔で、ほのかに花の香りが漂っていたが、どこか別の匂いも混ざっていて、何とも言えない独特の香りがした。
「では、お手伝いいたします。」
侍女はそう言うと、部屋の奥へと進んだ。そこには腰ほどの高さの白い便器があり、その周囲にはゆったりと人が動けるほどの広さが確保されている。後ろ側にも回り込めるようになっており、侍女は自然な動きでその背後へと回った。
「え?‥‥‥大丈夫ですよ!」チャチャは思わず固まる。
「こちらに背を向けて下されば、よろしいのですよ」
慌てて言うと、侍女は困ったように微笑んだ。
チャチャは、素直に方向を変えるが、この後はどうすればいいんだろう?自分で裾をまくる?
でも、この何枚も重なったスカートをどうやって?それに、後ろには侍女がいるのに?おしりを丸出しにして、パンツを下すなんて‥‥‥そんなこと、本当にする、の?
その意味を考える間もなく、侍女はスカートの裾をふわりと持ち上げた。
「まずはこちらへお進みください。」
「は、はい‥‥‥」
言われるままに動いた。
すると今度は、後ろの大きなリボンや何枚も重なった布を手際よく整えていく。
「では、少々失礼いたします。」
「わっ!!」
チャチャは思わず肩をすくめた。
(こんなに重なっていたの!?)
自分では見えない後ろ側から、次々と布が持ち上げられていくような音がする。
一人だったら、どこをどうすればいいのか、きっと分からなかっただろう‥‥‥
(これは‥‥‥)
先ほどまでの『一人で、大丈夫です』は、心の中から静かに消えていった。
そっと、便器に腰を下ろした。ひんやりとした感触に、思わず肩がすくむ。
(は、恥ずかしすぎる‥‥‥)
どうしてもここは、落ち着かないなぁ~‥‥‥
前世では、家にはそんなものはなかったけれど、外のトイレには音をかき消すための装置があった。自動で音が流れるものもあれば、自分でボタンを押すものもあって、女性にとっては当たり前のように使われていたから用を足すときの音を聞かれるのが、どうしても気になってしまう‥‥‥
――そんな感覚が、今も体に染みついている。今世でも家では軽装であったため、侍女が一緒にトイレに入ることはなかった。
それでも、意を決して用を足す。
静かな室内に、小さな音だけが響いた。
(早く終わって‥‥‥)
そう願いながら、チャチャはじっと耐えた。
やがて、ほっと息をついた。
「終わりました」
チャチャが小さく声を掛けると、
「はい」
侍女は慣れた手つきで、終わるとそっとそこも拭いてくれた。
何枚も重なったスカートを一枚ずつ丁寧に下ろしていく。
さらさら、ふわり。
布が重なるたびに、小さな音が響く。
「こちらを少しお持ちください」
「はい」
言われるまま両手を添える。すると侍女は乱れたリボンを整え、後ろ姿を確認すると、最後にスカート全体を軽く払った。
「これでよろしゅうございます」
「‥‥‥」
チャチャはその場でくるりと回ってみる。その動きに合わせて、侍女は一瞬の遅れもなく裾をさばき、乱れを整える。その手際は見事で、まるで長年仕えてきた熟練の職人のようだった。
どこも引っ掛かっていない。
苦しくもない。
何事もなかったかのように、元通りになっていた。
(‥‥‥すごい!)
これを一人でやれと言われても、きっと無理だった。むしろ途中で、自分がどこにいるのか分からなくなっていたかもしれない。
「ありがとうございました」
自然と頭が下がり、わずかに鬘がぐらりと揺れた。
侍女は少し驚いたように目を瞬かせ、それから柔らかく微笑んだ。
「お役に立てて何よりでございます」
部屋を出ながら、チャチャはもう一度自分のスカートを見下ろした。
(服装が可愛いのは認めるわ)
ふわりと広がる裾は、お姫様みたいで素敵だ。
でも‥‥‥
(やっぱり、色々快適ではないわね‥‥‥)
そんな小さなため息と一緒に、チャチャは侍女と並んでお茶会の会場へと戻り始めた。
廊下を歩きながら、チャチャは頭の上のカツラにそっと触れた。
‥‥‥可愛い
確かに、鏡に映る自分は絵本に出てくるお姫様みたいで、見た目だけなら文句のつけようがない。
でも、その代償はあまりにも大きい‥‥‥
まず、頭の上のカツラが重い。
ふわふわとした巻き髪は見た目こそ華やかだが、その分だけずっしりとした重みが首にかかっている。
服もまた同じだ。
何枚も重ねられた布と、広がりを保つための下着が体を締め付け、動くたびにずるりと引っ張られる。
当然、歩きにくいし、一歩踏み出すだけでも裾を気にしなければならず、少しでも油断すればすぐに足を取られてしまいそうになる。
そんな状態での移動は、ただ廊下を歩くだけでも神経を使う。
ましてや‥‥‥
お花を摘むのも、お嬢様をやるのも一苦労だわ、ホント。
(もっと楽で、色々軽いといいのに‥‥‥)
そんなことを考えながら角を曲がろうとした、その時だった。
「お急ぎください!」
廊下の向こうから、慌ただしい足音が響く。数人の侍従を引き連れ、一人の少年がこちらへ向かって走ってきていた。
「あっ!」
避けようとしたけれど、大きく広がったスカートは思うように動かない。
ふらり。
体勢を崩した、その瞬間――
「危ない!」
ぐいっと力強い腕が、チャチャの体を支えた。
勢いのまま胸元へ引き寄せられる。
「申し訳――」
言葉を聞くより早く。
ぶわり。
甘ったるい香水がまず鼻を突き、続いて濃い香油の重たい匂いが絡みつく。
さらに、白粉の粉っぽい香りが空気に混ざり、それらが混然一体となって押し寄せてきた。
何日も染み込んだカツラの匂いと、乾いた汗のこもった匂いが体温で温められ、すべてが一気に鼻へガツンと流れ込んできた。
「――っ!」
頭の中で何かが弾け、ぐらりと視界が揺れた。
い、息ができない‥‥‥
「おい、大丈夫か!」
誰かが慌てて声を上げた。
けれど、その声ももう遠い。チャチャの意識は、ゆっくりと暗闇へ沈んでいった。




