2-1 何が?どうなった?
「……あれ?」
目を覚ますと、見慣れた天井と見慣れたカーテン、そして窓から差し込む朝の光が、ここが自分の部屋だってことをぼんやり思い出させてくれた。
でも体はやけに重くて、布団に沈み込んだまま動く気になれなかった。頭も少しズキズキして、熱っぽい感じがする。なんだか全身がだるくて、起き上がるのも億劫だった。
私は、ぼんやりと天井を見ながら、何度かゆっくりと瞬きをした。
そういえば昨日は、確かお城のお茶会でお茶をいただいたあと、お庭でお花を摘みに行ってから‥‥‥
「ケーキ!」
思わず声が出た、その瞬間‥‥‥
廊下の向こうから、ドタドタと慌ただしい足音が近づいて来た。
「お嬢様!?」
勢いよく扉が開き、いつも私の身の回りを世話してくれる侍女のマリアネーゼが、息を切らして部屋に飛び込んできた。
彼女は母と同じくらいの年齢で、私が生まれた頃からずっとそばにいてくれる、第2の母のような存在なの。
「お嬢様、お目覚めですか!」
扉が勢いよく開き、彼女が駆け寄ってきた。
「よかった……本当によかった……! 少し熱っぽいようですが……」と、そっと額に手を当てながら、心配そうに様子をうかがうように尋ねてきた。
「頭痛がして、怠いからしばらく起きたくない」
「熱が出てしまいましたからね。あとでお医者さんが来てくれますから、安静にしてください。何か食べられそうですか?」
「今は、いらない」
「そうですか。でも、水分は少し取りましょう」
と言って、マリアネーゼはコップを差し出す。受け取った私は、意外にも喉が渇いていたようで、そのまま一気に飲み干してしまった。
彼女は、私の顔を覗き込み、ほっとしたように胸を押さえる。
「お医者様が来られるまで、どうかそのままお休みくださいませ。奥様にもお目覚めになったことをお伝えしてまいりますね」
その声は少し震えていて、目元も赤くなっているように見えたが、マリアネーゼはそれを隠すように一礼すると、静かに部屋を後にした。
ふわふわで、甘くて、とても美味しかったケーキは、いったいどうなってしまったのだろう?まだ、食べられるだろうか?熱が出たから、食べるのは無理かもしれない‥‥‥残念。
昨日は、持ち帰り用のお菓子も貰って、とても幸せな気持ちで帰るはずだった。
それから‥‥‥
廊下の角を曲がったところで、誰かとぶつかって‥‥‥
『危ない!』
と思った瞬間、とっさに腕を引かれて、身体がふわりと浮いた。
見上げると、背の高い誰かに抱えられる‥‥‥
急いでたのかな?
息が少し乱れていて‥‥‥
次の瞬間!
鼻にガツンと何かが襲ってきて、脳が揺さぶられるような刺激が走り、そのあとの記憶がない‥‥‥
「……あの人、大丈夫だったかなぁ?」
誰だかわからないけど、ぶつかっちゃったんだし、誰か判明したら謝ればいいか!
顔もわからない誰かのことを考えても仕方ないし、それよりも、これから、どうしたらいいのか?
前世の記憶が蘇ってしまった今、今後どうすればいいのか?
考えれば考えるほど分からなくなってきて、そんなことを考えているうちに、また眠りに落ちた。
ウトウトとまどろみ始めた頃だった。
廊下の向こうから、再び慌ただしい足音が聞こえて来た。
「「「「チャーちゃん!」「チャチャ!」「お嬢様あ!」「チェチェーリア」」」」
勢いよく扉が開き、お母様、お父様、お兄様、そしてお医者様が一緒に部屋へ入ってきた。皆が一斉に私の名前を呼びながら駆け寄ってきて、部屋の中は一気に騒がしくなる。
「チャーちゃん! 熱があるって聞いたけど、具合はどう?」
お母様は、今にも泣きそうな顔で駆け寄ってきた。
「熱はどうだ?大丈夫か?」
お父様も険しい表情で私を見つめている。
「チャチャ、大丈夫か?」
お兄様も心配そうに顔をのぞき込んだ。
その瞬間だった。
「うっ……」
鼻をつく濃い香りに、思わず鼻を手で押さえながら顔をしかめる。
胸がむかむかして、頭もくらくらしてきた。
「チャーちゃん!?」
「お嬢様!」
心配して近寄ってきてくれるのは分かる。分かるんだけど‥‥‥
でも、近づけば近づくほど香りは強くなってくるし‥‥‥
「ご、ごめんなさい‥‥‥少しだけ‥‥‥苦しい‥‥‥」
私の様子を見たお医者様が、一歩前へ出た。
「旦那様、奥様、若様。診察いたしますので、少しだけお部屋の外でお待ちいただけますでしょうか?」
「でも‥‥‥」
お母様がためらう。
「ご安心ください。診察が終わりましたら、すぐにお呼びいたしますので」
穏やかな口調だったが、不思議と安心させる響きがあった。
お父様は小さく頷き、みんなを廊下へと促した。
「分かりました」
「チャーちゃん、すぐ戻るからね。」
お母様は名残惜しそうに私の手をそっと握ると、お父様、お兄様とともに部屋を出ていった。
扉が閉まると、部屋は静けさを取り戻す。
「ふぅー」
私はほっと息をついた。
「少し……楽になりました」
「そうですか」
お医者様は静かに頷き、椅子をベッドのそばへ寄せた。
「では、お嬢様。診察いたしますので、少しだけ失礼いたします。」
そう言うと、私の額にそっと手を当て、脈を取り始めた。
診察を終えたお医者様は、私の額から手を離し、小さく頷いた。
「熱はありますが、脈もしっかりしております。おそらく、お茶会で気疲れなさったのでしょう。ゆっくり休養を取り、栄養のあるものを召し上がれば心配ありません」
「ありがとうございました」
「数日は安静になさってください。無理は禁物ですよ」
「はい」
そう言って立ち上がり、部屋を出ようとしたお医者様を、私は慌てて呼び止めた。
「あの、先生お願いがあるんですけど‥‥‥」
「はい?なんでしょうか?」
お医者様は足を止め、優しく微笑んだ。
「お母様たちを、一人ずつ呼んでもらえませんか?」
「一人ずつ……ですか?」
「はい。みんな一緒だと、少し落ち着かなくて‥‥‥」
臭すぎて耐えられないとは‥‥‥言えない‥‥‥
さっきみんなが一度に部屋へ入ってきたとき、とても息苦しくなったし、一人ずつなら、なんとか耐えられる気がする‥‥‥
お医者様は少しだけ考え込んだあと、穏やかに頷いた。
「承知いたしました。では、まずは奥様からお呼びいたしましょう」
「ありがとうございます」
お医者様は静かに一礼すると、扉を開けて廊下へ出て行った。
入れ替わるように、お母様が部屋へ入ってきた。
「チャーちゃん!」
心配そうな顔はそのままだけれど、さっきよりは少し落ち着いている。
お医者様が後ろで扉を閉めようとした、その一瞬。
「奥様だけです! お嬢様のご希望ですから!」
「しかし、私も――」
「父上だけずるいですよ!」
廊下で、お父様とお兄様に必死に説明しているお医者様の姿がちらりと見えた。
その様子がなんだか申し訳なくて、私は思わず両手を合わせる。
(先生、ごめんなさい。そして、ありがとうございます。)
心の中でそう呟きながら、小さくぺこりと頭を下げた。
お医者様は私に気付いたのか、小さく苦笑いを返してから、そっと扉を閉める。
部屋には、お母様と私だけになった。
「‥‥‥ふぅ」
自然と肩の力が抜ける。
やっぱり、一人だけなら何とか大丈夫みたいだ。
お母様からも香水の香りはするがでも、さっきみたいに何人分もの香りが混ざって押し寄せてくるわけじゃないから、少し強いけれど、耐えられる‥‥‥
それにしても、こんなに鼻が利くものだったかな?
熱のせいなのか、鼻の奥がいつもよりずっと敏感になっている気がする。
「チャーちゃん。大丈夫?」
ベッドの横へ腰を下ろいたお母様が、私の頭を優しく撫でてくれた。
「一つだけ、伝えておかなければならないことがあるの」
「‥‥‥はい」
「あの日、チャーちゃんがぶつかってしまったお相手だけれど‥‥‥実は、王太子殿下だったのよ」
「‥‥‥え?」
頭の中が真っ白になった。
王太子殿下?
あの、王太子殿下?
顔は見ていないからわからないけれど、間違いなく、とんでもなく偉いお方だった。
「殿下は、ご自分が急いでいたせいでぶつかってしまったと、何度も謝ってくださったのよ」
「そ、そう、ですか‥‥‥」
「気を失ったチャーちゃんを、そのまま抱き上げて馬車まで運んでくださってね。ご家族にも、ご迷惑をお掛けしましたと、何度も頭を下げてくださったのよ」
「…………」
確かに急いでいらしたみたいだけれど、私もちゃんと確認してから曲がればよかったし、そのうえ香りのせいで気絶までしてしまったし‥‥‥なんて、言えない‥‥‥
王太子殿下に抱えられて馬車まで送っていただくなんて、とんでもないご迷惑をお掛けしてしまった‥‥‥
今度お会いしたら謝らないと‥‥‥いや、謝るだけじゃ足りない気がする。
(‥‥‥土下座、した方がいいかな?)
でも、貴族令嬢って土下座していいんだっけ?そんなことをぼんやり考えていると、また頭が熱くなってきた。
目の前が少し霞む。
「チャーちゃん?」
「‥‥‥なんだか、眠く‥‥‥」
瞼が重い。
身体も鉛のように動かない。
お母様は私の額にそっと手を当て、小さく微笑んだ。
「無理しなくていいわ。また眠りなさい」
「‥‥‥はい」
「お父様とお兄様には、お母様からちゃんと説明しておくから安心して」
その優しい声を最後に聞いたところで、私の意識は再び深い眠りへと沈んでいった。




