2-2 暇だと色々考えちゃいますよね?
三日目の朝。
ゆっくりと目を覚ますと、これまでの二日間とは明らかに違う感覚があった。
あれほど鉛のように重かった身体が、嘘のように軽くなっていた。
頭の中も、霧が晴れたようにすっきりとしていて、ぼんやりとした感覚はほとんど残っていなかった。
全身を覆っていたあの嫌な怠さも消えていて、呼吸をするのも楽になっている。
こうして自分の状態を一つひとつ確かめていくうちに、ようやく熱が下がったのだと実感した。
「お嬢様、おはようございます。」
部屋へ入ってきたマリアネーゼが、私の顔を見るなりほっと胸をなで下ろした。
「お顔の色がずいぶん良くなられましたね。お医者様がお見えになる前に、まずは朝食を召し上がってお薬を飲みましょう。消化の良いものをご用意いたしますね」
そう言ってマリアネーゼは手際よく準備を始めた。
ほどなくして運ばれてきたのは、湯気の立つパンがゆと、優しい香りのクラムチャウダーだった。
「今日はパンがゆにはちみつを少し入れております。お身体に優しいものですので、ゆっくりお召し上がりください」
「わあ……いい匂い」
スプーンですくって口に運ぶと、ほんのり甘くて、ほっとする味が広がった。
「おいしい……」
「食欲も戻ってこられて、何よりでございます」
クラムチャウダーも、具材が柔らかく煮込まれていて、とても食べやすかった。
久しぶりにちゃんとした食事をしている気がして、自然と顔がほころんだ。
食べ終えると、マリアネーゼが小さな瓶を取り出した。
「では、お薬をどうぞ」
差し出されたそれを見て、思わず顔が引きつる。
「……苦いやつよね」
「はい」
にこやかに肯定された。
覚悟を決めて一気に飲み込むと、やっぱり強烈な苦味が口いっぱいに広がる。
「にが……っ!」
思わず顔をしかめると、マリアネーゼがすぐに水を差し出してくれた。
なんとか飲み下して、ほっと息をつく。
「……ねえ、マリアネーゼ」
「はい?なんでしょうか?」
「今度から、お薬にはちみつ入れてくれたりしない?」
期待を込めて言ってみると、マリアネーゼはぴたりと動きを止めた。
そして、にっこりと微笑む。
「お嬢様」
「はい」
「お薬は、そのままお飲みいただくものです」
「……ですよね~」
「甘くしてしまっては、効き目に影響が出るかもしれません」
「うぅ……」
「それに、お嬢様はきちんと飲めていらっしゃいますから、大丈夫でございます」
優しく言われてしまうと、これ以上は何も言えなかった。
「……がんばります」
「はい、よくできました」
そう言ってマリアネーゼは満足そうに頷いた。
ほどなくして、お医者様が部屋へやって来た。
「おはようございます、お嬢様」
「おはようございます、先生」
先生はいつもの穏やかな笑みを浮かべると、私の額にそっと手を当て、脈を診て、喉や目の様子を一つひとつ丁寧に診察していく。
「……うん」
一通り診察を終えると、小さく頷いた。
「熱は下がりましたね。もう起き上がっていただいて構いませんがまだ、本調子ではありません。あと二、三日は無理をなさらず、お屋敷の中でゆっくりお過ごしくださいね」
その言葉に、思わず顔が明るくなる。
「お外は、まだダメですか?窓も開けてはいけませんか?」
「もちろんです。適度に換気するのは構いませんが、ここで無理をしてぶり返してしまっては元も子もありませんからね」
「……はい、わかりました」
少し残念だけれど、仕方がない。もうしばらくは部屋でゆっくり過ごすしかないか!
先生が診察道具を片付け始めたところで、私は前から気になっていたことを思い切って尋ねた。
「あの、先生‥‥‥」
「はい?」
「先生って‥‥‥全然匂いがしないんですね」
先生は少し驚いたように目を丸くしたあと、ふっと優しく笑った。
「そうですね。職業柄、気をつけていますからね」
「皆さんは、物凄く強いお花の香りがするんです。でも先生は、近くにいても苦しくならないし」
先生は静かに頷いた。
「実は私も、子どもの頃はお嬢様と少し似ておりました」
「先生も?」
「ええ。病弱だったこともあり、匂いにとても敏感だったのです」
少し懐かしそうに目を細める。
「その頃、大変お世話になった先生がおりまして、その先生も、ほとんど香りをまとわない方でしたね」
「そうだったんですか」
「病気になりますと、普段より匂いに敏感になることは珍しくありません。お嬢様も熱が高かった分、その影響が強く出たのでしょう」
「そういうものなんですかね?」
「熱が下がれば、少しずつ落ち着いてくると思いますよ」
先生は安心させるように微笑むと、診察鞄を手に取った。今だけといいのですけれど、と心の中でそっと呟く。
「では私はこれで失礼いたします。また明日、お嬢様のご様子を見に参りますので」
「ありがとうございました、先生」
先生は軽く一礼すると、静かに部屋を後にした。
先生が部屋を出ると、入れ替わるようにお母様が入ってきた。
診察の結果はすでに伝わっているらしく、私の体調が回復に向かっていることを確認したうえで、しかしまだ完全ではないと判断したのだろう。
起き上がること自体は許されたものの、ベッドの上から離れることは固く禁じられてしまった。
その判断は穏やかな口調で告げられたが、覆る余地はなかった。
医師の言葉を盾にしつつも、最終的には母としての判断が優先されているのがはっきりと分かる。
結果として、私の中で密かに立てていた『自由に動き回る計画』は、その場であっさりと消え去った。
それからの二日間は、ほとんど監視付きの安静生活だった。
少しでもベッドから降りようとすれば、どこからともなくマリアネーゼが現れ、静かに、しかし確実にそれを制止する。言葉数は多くないが、その態度には一切の妥協がなく、結局私は一歩も床に足をつけることができなかった。
こうして行動の自由を奪われた状態で残されたのは、限られた時間の使い道だけだった。
本を読むか、眠るか、あるいは何もせずに考え事をするか。そのどれもが単調ではあるが、逆に言えば、外部からの刺激が少ない分、自分の内側に意識を向けるには適した環境でもあった。
私はその状況を受け入れ、思考の整理に時間を使うことにした。
前世の記憶と、今世のチェチェーリア・フォン・クラウゼンとして生きてきた記憶。その二つは確かに同じ私のものでありながら、価値観も常識も大きく異なっている。
これまで私は、それらをなんとなく混ぜ合わせたまま過ごしてきた。しかし、これから先を考えるならば、それぞれをきちんと切り分け、理解しておく必要がある。どちらが正しいという問題ではなく、どちらも自分の一部として扱うための整理だ。
これから私は何をしていきたいのだろうか?
そんな問いを胸に、時間は十分にあるのだから、急ぐ必要もないと自分に言い聞かせた。
私は頭の中に散らばった二つの人生を、一つずつ丁寧に拾い上げながら、ゆっくりと整理し始めた。




