10-3 頭を締めつけない留め具
翌日から、エルナは鬘本体ではなく、その内側ばかりを見つめるようになった。表側には、陽輪花の綿毛を加工した美しい栗色の房が並んでいる。しかし裏返せば、目の粗い網と、細い糸と、後頭部で結ぶ紐が見えるだけだった。
鬘が頭から浮いた原因は、その紐にある。後ろ側だけで留めていたため、正面から風を受けると額の部分が持ち上がってしまったのだ。
「額にも留め具をつければいいんじゃない?」
チャチャが尋ねると、エルナは首を横へ振った。
「金具を増やせば、落ちにくくはなります。ただ、頭皮へ当たる場所が増えます」
従来の鬘には、細かな金属製の留め具がいくつも使われていた。重い鬘を固定するため、地毛へ差し込み、強く引っかける構造になっていた。長時間使えば、引っ張られた髪の根元が痛む。留め具の触れていた頭皮が赤くなり、汗でかぶれることもある。
それでも、大人たちは我慢してきた。痛みや蒸れは、身だしなみのために必要なものだと考えられていたからだ。けれどチャチャには、痛いことを当然として受け入れる理由がわからなかった。
「軽くなったのに、金具で痛くなったら確かに意味がないね」
「はい。材料が変わったのですから、留め方も変えるべきでしょう」
エルナは細い紐を何種類も並べた。
絹糸を編んだものや麻を柔らかく加工したもの、衣服の袖口や下着に使う、少し伸び縮みする編み紐などだ。
その中の一本を、マリアネーゼが手に取った。
「こちらを輪にして、頭の周りへ沿わせてはいかがでしょうか」
「鉢巻きのように?」
「そのままでは額へ跡が残ります。ですが、耳の後ろと後頭部で支えるよう形を変えれば、正面だけが持ち上がるのを防げるかもしれません」
マリアネーゼは裁縫へ慣れている。
人が動いたとき、どの部分へ力がかかるのか。衣服のどこを締めればずれず、どこを緩めれば苦しくならないのか。鬘職人ではなくても、長年、人の体に触れる布を扱ってきた経験があった。
エルナはすぐに紙を広げ、鬘の内側の形を描き始めた。二人は、紐を留める位置について話し合っていた。チャチャは横から見ていたが、次第に言葉についていけなくなった。
「ここへ斜めに渡せば、前へ引く力を分散できます」
「ですが、耳へ触れるのではありませんか?」
「幅を広くして、柔らかな布で包みます」
「結び目は、後頭部の中央を避けたほうがよろしいかと」
「寝椅子へ頭を預けたとき、当たりますね」
鬘は、ただ頭へ縛りつければよいわけではないらしい‥‥‥
立っているときや歩くとき、椅子へ座るときや首を動かすときなど、どの場面でも苦しくならないよう、力のかかる場所を考える必要がある。それは、チャチャたちだけでは思いつかなかった視点だった。
エルナの職人としての知識とマリアネーゼの生活に根ざした知恵が二つが合わさることで、これまでにない留め具の形が少しずつ見えてきた。
「二人とも、すごいね」
チャチャが感心すると、マリアネーゼは微笑んだ。
「毎日使うものは、毎日使う者の都合に合わなければなりませんからね」
「今までの鬘は、どうして合ってなかったの?」
「我慢するのが当たり前になりすぎて、変えようと考える者が少なかったのでしょう」
当たり前という言葉は、便利である。
なぜ痛いのか?なぜ臭いのか?なぜ重いのか?
すべてを「当たり前だから」で終わらせらていた。けれど、当たり前だと言われているものが、本当に変えてはいけないものとは限らないんのだ。
試作の留め具が完成し、再びお父様の頭を借りることになった。今回は逃げなかった。正確には、お母様が部屋へ入ったときには、すでに椅子へ座っていた。
逃げる前に、行き先を塞がれたともいう。エルナはお父様の地毛を薄い布の下へまとめた。
耳の位置を確かめ、柔らかな紐を後ろへ回す。
「少し失礼いたします」
頭の形をなぞるように指を動かし、紐の位置を調整し、後頭部へ触れたところで、エルナの手がわずかに止まった。髪の薄い部分を見つけたのだろうか?
しかし、何も言わず作業を続ける。フェリクスも、黙って別の方向を見ていた。
「この辺りには、留められないね」
口が先に動いた。お父様が鏡越しにチャチャを見る。
「なぜだ?」
「髪が‥‥‥」
マリアネーゼが、小さく咳をした。
「頭皮へ負担をかけないためでございます」
すぐに言い直してくれた。
「そう。それ!」
「今、別のことを言おうとしなかったか?」
「気のせいだよ」
以前なら、赤ん坊が寝返りをせず後頭部だけ薄くなったようだと考えたかもしれない。今は言わなかった。やはりチャチャも、少しずつ大人になっているんだ‥‥‥
新しい留め具は、耳の後ろと後頭部の低い位置で鬘を支えた。額には細い布を沿わせ、風を受けても持ち上がりにくくする。金属の留め具は使わず、頭全体へ力が分散するよう設計されている。
「苦しくありませんか?」
「大丈夫だ」
「首を動かしてみてください」
お父様は左右を向き、次に上と下を向いた。鬘は動かないようだ。
「今度は庭へ行こう」
チャチャが言うと、お父様は静かに立ち上がった。
「今日は板を使わないのだろうな?」
「風が吹かなかったら使うよ」
「使うのか」
前回と同じ裏庭へ移動した。幸い、この日はほどよい風が吹いている。
栗色の毛先が揺れる。正面から風を受けても、鬘は浮かなかった。
お父様が少し速く歩くいたり、立ち止まり、振り返えったりしても軽い鬘は頭の形に沿ったまま、ほとんど位置を変えなかった。
「とりあえず、成功だね!」
チャチャが喜ぶと、お父様も安心したらしい。背筋を伸ばし、先ほどより堂々と歩き始めた。
軽いし、涼しいし、 風を受けても飛ばない。
今度こそ、完成へ大きく近づいた。そのとき、草むらからポポが飛び出してきた。
「にゃっ!」
風に揺れる栗色の毛先へ、迷わず飛びつく。
「うわっ!」
鬘は飛ばなかった。新しい留め具が、しっかりと頭へ固定している。
その代わり、お父様の頭ごと後ろへ引っ張られた。
「ポポ、離して!」
「にゃううう!」
ポポは毛先をくわえたまま離さない。お父様は鬘を押さえ、チャチャはポポを抱き上げようとし、フェリクスは絡まった毛先を外そうとする。エルナだけが、房の根元を真剣に観察していた。
「強く引かれても、網から抜けていませんね」
「今、確認するところはそこなのか?」
お父様の声が低くなる。
「職人としては、重要でございますよ」
「父親としては、先に助けてほしいのだが‥‥‥」
ようやくポポが毛先を離した。栗色の房は少し乱れたものの、抜けても切れてもいなかった。
頭を締めつけない留め具は完成した。
風にも耐えたし、ポポにも耐えたんだ。
「これなら、かなり丈夫だね」
「試す必要のない丈夫さまで確認できたな」
お父様は乱れた鬘を押さえ、深いため息をついた。その足元では、ポポが再び毛先を狙って身を低くしている。
新しい鬘に残された最大の問題は、風ではない。
にゃわんの届かない場所で被ることだった。




