10-3 一週間、洗わないでください
装着方法が決まったことで、陽輪花の鬘はようやく日常生活の中で試せる状態になった。次に確かめるのは、長く使ったときの変化である。完成した直後だけ軽くても意味がないのだ。汗や皮脂を吸って重くなったり、数日で形が崩れたりするなら、実用品にはならない。そしてチャチャが最も気にしているのは、やはり匂いだった。
古い鬘が臭くなった原因は、一つではない。
頭皮から出る汗や皮脂や形を整えるための香油。匂いを隠すために、上から繰り返し使われる香水。さらに、空気中の埃や暖炉の煤まで付着する。
それらを十分に洗わないまま使い続ければ、どんなに高価な鬘でも、最後には独自の匂いを育て始める。一度ついた匂いを別の香りで隠そうとすれば、さらに強い香水が必要になるし、汗と香油と香水が何層にも重なり、やがて何の匂いなのか、誰にも説明できないものが完成する。
お父様の部屋で発見された鬘の一部は、すでに香水という言葉だけでは表せない段階へ達していた。
あれは、長い年月だった。できれば、二度と再会したくない。
「ですから、一週間、洗わずに使ってください」
エルナが説明すると、お父様は椅子へ座ったまま固まった。
「洗わない、のか?」
「毎日、状態を確認いたします。一週間後に洗い、汚れの落ち方や乾くまでの時間も調べます」
「一週間も、匂いを確認されるのか‥‥‥」
「必要な試験なんです」
「誰が確認する?」
お父様の視線が、チャチャへ向いた。チャチャは元気よく手を挙げた。
「私です」
「やはり、お前か‥‥‥」
お父様は額へ手を当てた。
「娘に毎日、頭の匂いを嗅がれる生活になるとは思わなかった」
「鬘の匂いだよ。お父様の頭じゃないよ」
「慰めになっていない」
試験には、いくつかの決まりを設けた。陽輪花の鬘を朝から夕方まで使用する。
従来の香油や香水はつけない。
夜は鬘置きへ載せ、風通しのよい場所で保管する。
毎朝、重さと形を調べるなどだ。お父様の頭皮に赤みやかゆみがないかも確認する。
試験初日。
鬘は完成したときと変わらなかった。チャチャはお父様の周りを一周し、前後左右から眺めた。
「匂いは?」
「無臭です」
マリアネーゼが答える。チャチャも毛先へ鼻を近づけた。
「木の実の染料の匂いが、少しするだけだね」
お父様は落ち着かない様子で椅子へ座っている。
「もうよいか?」
「頭皮も見ます」
「毎日、見られるのか‥‥‥」
「赤くなっていないか確認しないと」
「髪の量を確認しているわけではないな?」
「今日は、赤みだけ」
「今日は?」
言葉の端を拾われてしまった。
二日目。
綿毛の房が少し広がり、初日より柔らかく見えた。人の髪も、洗った直後と一日過ごしたあとでは状態が違うし、陽輪花の繊維も、体温や空気中の水分を受け、わずかに形を変えるらしい。
それでも、崩れたというほどではなかった。櫛を軽く通せば、元の流れへ戻った。
三日目。
耳の後ろに近い房が、少し絡まっていた。
「頭をよく動かす場所だからだね」
衣服の襟と擦れたことも原因らしい。エルナは絡まりをほどき、記録へ書き加えた。
次に作る鬘では、耳の後ろと襟に触れる部分へ、少し硬い繊維を使うという。
陽輪花の綿毛もすべて同じではないのだ。
外側の長く丈夫な繊維や内側の短く柔らかな繊維など、採れた場所によって使い分ければ、より形を保ちやすくなる。
四日目。
お父様は、匂いを確認される前から自分で鬘を差し出した。
「早く済ませてくれ」
「慣れてきましたね」
「慣れたくはなかった」
チャチャが鼻を近づける。ほんの少し汗に似た匂いがした。けれど、古い鬘のような重い匂いではない。
「少しだけ汗の匂いがする」
「私のか?」
「お父様以外、被ってないでしょう?」
「もう少し遠回しに言えないのか」
「使用者由来の匂いですよ」
フェリクスが言い直した。
「内容は同じだ‥‥‥」
陽輪花の繊維は、水分を表面へ含んでも内部まで深く吸い込みにくいようだった。さらに房と房の間を空気が通る。汗で湿っても、鬘置きへ載せて一晩置けば、翌朝にはほぼ乾いていた。
五日目には、お父様の態度にも変化が現れた。朝、自分から陽輪花の鬘を選んだのだ。
試験のためではある。それでも、以前の白い鬘を使おうとはしなかった。
「こっちのほうが軽いから?」
チャチャが尋ねると、お父様は鏡を見ながら毛先を整えた。
「仕事をしていても、首が疲れにくい」
「涼しい?」
「ああ。頭に熱がこもらない」
「気に入ったんだね」
「まだ、試験中だろう」
認めるには、少し早いらしい。それでも、鏡の前にいる時間が以前より長くなっていた。
六日目。
鬘の重さを測る。完成直後と比べても、ほとんど増えていなかった。香油を使っていないため、埃の付着も少なかった。櫛を通すだけで形が整い、白い粉をつけ直す必要もない。
問題は、毛先の一部が乾燥し、少し広がっていることだった。エルナは香りの弱い植物油を布へ一滴だけ落とし、その布で毛先を撫でた。
油を直接かけるのではない。表面へ薄い膜を作る程度にする。それだけで広がりが収まり、滑らかさも戻った。
「今までの香油より、ずっと少ないね」
「油が多ければ形を固めやすくなりますが、その分、汚れもつきますし」
「少なくて済むなら、そのほうがいいと思う」
七日目。
最後の匂いの確認が行われた。お父様は無言で椅子へ座り、チャチャが近づくのを待っていた。
すっかり諦めた顔だ。チャチャは鬘の前、横、後ろの匂いを確かめた。
「少し汗の匂いはする。でも、近づかなければわからないくらい」
マリアネーゼとエルナも同じ結論だった。
香水で覆い隠す必要はない。何より、部屋へ入った瞬間に匂いがわかるような状態にはなっていなかった。
「では、洗浄しましょう」
エルナは鬘を木枠へ固定し、ぬるい湯へ静かに沈めた。
香りの強い石鹸は使わないで汚れを落とすための液を少量だけ加え、綿毛の流れに沿って湯を通す。
強く揉めば房が絡まるため、押し洗いもしない。
湯を何度か入れ替えると、わずかに濁っていた水が透明になった。
「もう終わり?」
「はい。油をほとんど使っていないため、汚れも落ちやすいのです」
洗い終えた鬘は、専用の鬘置きへ載せられた。
風通しのよい日陰へ置き、自然に乾かした。
厚く重い従来の鬘は、内側まで乾くのに長い時間が必要だった。表面が乾いていても、土台や毛の根元に湿気が残る。その状態で箱へしまえば、嫌な匂いや傷みの原因になる。
陽輪花の鬘は、房の間を空気が通るし、昼過ぎに洗ったものが、夕方にはほとんど乾いていた。
エルナが櫛を通し、形を整える。
栗色の毛は、使用前とほとんど変わらない姿へ戻った。
「これなら、毎日使ってもよい」
お父様が、乾いた鬘を見ながら言った。部屋の中が静かになった。
何日も逃げ続けていた人から、初めて出た合格の言葉だった。
「気に入ったんでしょう?」
チャチャが確認する。
「軽く、蒸れにくい。洗ったあとも早く乾く。今までのものより使いやすいことは認める」
「もっと短く言うと?」
「気に入った」
チャチャは笑った。フェリクスも、満足そうにうなずいていた。
マリアネーゼは、そっとエルナの方を見た。エルナだけは、乾いた鬘から目を離せずにいた。これまで彼女が作った鬘は、別の職人の名前で納められてきた。客に喜ばれても、その言葉が彼女へ届くことはない。目の前で使われ、感想を聞くのは、これが初めてだったのかもしれない。
お父様がエルナへ顔を向けた。
「この鬘を作ったのは、あなたか?」
エルナの肩が、わずかに強張った。以前の工房で同じことを尋ねられたなら、作ったのは親方だと答えなければならなかった。
けれど、今は違う。
「はい。皆様のお力をお借りしましたが、鬘として仕上げたのは私でございます」
エルナは、はっきりと答えた。
「名は?」
「エルナと申します」
「そうか。覚えておこう」
それだけだった。
大げさな褒美の話も、立派な宣言もない。けれどエルナは、しばらく顔を上げなかった。
床へ落ちた影の上に、小さな雫が一つだけ落ちた。
チャチャは見なかったふりをした。
代わりに、乾いた鬘を指さす。
「じゃあ、お父様。明日からそれを使ってね」
「ああ」
「香水は、たくさんつけないでね」
「わかっている」
「香油も一滴くらい」
「わかっている」
「お父様は、わかっていると言ったあとに――」
以前、同じような返事をしたフェリクスは、その直後に綿毛を顔へ飛ばした。
お父様まで同じことをしないと信じたい。こうして、陽輪花から作られた最初の鬘は、ようやく完成した。
まだ、屋敷の外へ出すことはできないので、陽輪花とにゃわんの秘密も守らなければならない。エルナが女性の鬘職人だと知られれば、何を言われるのかもわからなかった。
それでも、公爵家の朝食の席には翌日から、強い香水の匂いではなく、淡い栗色の新しい鬘を被ったお父様が現れることになる。
チャチャが同じ食卓で、鼻を押さえずに朝食を食べられる。
今は、それだけで十分に大きな成功だった。




