10-1 職人を秘密の庭へ
エルナが屋敷へ通うようになって、十日が過ぎた。半分だけだった試作品には反対側の綿毛も加わり、ようやく頭全体を覆う形になった。まだ髪の量は少ないし、巻き髪も、飾りもない。
しかし、淡い栗色の繊維が自然な方向へ流れ、遠くから見れば短い髪の鬘に見えるところまで進んでいた。チャチャたちだけなら、一本ずつこよりを作り続けていただろう。
専門の技術を持つ者が加わったことで、研究の進む速さは大きく変わった。それでもエルナは、完成した試作品を前に、難しい顔をしていた。
「材料が足りません」
現在使っている綿毛は、最初に回収したものだけだった。
タンとポポたちの食事や、陽輪花を増やすための種を優先しているため、研究用として持ち込める量には限りがあった。
「次の陽輪花が綿毛になるまで、待つしかないね」
「それだけではありません」
エルナは白い綿毛を一本、光へかざした。
「同じ陽輪花から取れたものでも、長さと硬さが違います。花の外側にあったものは長く、内側のものは短い。雨を受けたものには、わずかな傷みがあります」
これまでは、回収した綿毛をすべて一つの籠へ入れていた。その中から使えそうなものを選び、櫛で梳いていたため、選別にとにかく時間がかかる。
採る段階から状態ごとに分ければ、作業を減らせるかもしれない。
「陽輪花を、直接見たほうがいい?」
「可能であれば」
チャチャはすぐには返事をしなかった。エルナへ見せることになるのは、陽輪花だけではない。
種を植えるにゃわんたち。
タンとポポ。
人間にはできない方法で陽輪花を増やす、まだ名前さえ知られていない生き物。家族は、その存在を王宮へ報告しないと決めているが、屋敷の中でも、知っているのは信用できる一部の使用人だけだった。
エルナを雇ったとはいえ、まだ十日である。
秘密を明かすには早すぎるのではないか?
けれど、材料がどのように育ち、どの部分が使えるのか知らなければ、職人も最善の方法を考えられない。何よりエルナは、これまで一度も陽輪花の出所を無理に聞かなかった。
綿毛を持ち帰ろうともせず、余った材料は細かな切れ端まで机へ戻している。誰も見ていないときにも、研究室の外へ情報を漏らすようなことはなかった。
「お母様たちに相談してみる」
その日の夕食後、チャチャは家族へ事情を話した。
お父様は、試作品の鬘から少し距離を取った場所に座っている。緑色ではないと説明したのだが、まだ完全には信用していないようだった。
「職人に材料を隠したまま、よいものを作れというのは難しいでしょうね」
お母様が試作品の毛先を確かめながら言った。
「でも、にゃわんのことまで話すことになるよ」
「チャチャは、エルナを信用できないと思っているの?」
「信用できないわけじゃないの。ただ、もし話してから間違いだったとわかっても、秘密は戻せないでしょう?」
一度口から出た言葉を、聞く前の状態へ戻すことはできない。チャチャが慎重になるのは、にゃわんたちを守りたいからだった。
人間にとって珍しい生き物でも、彼らは見世物でも研究材料でもない。あの庭で子供を産み、家族で暮らしている。タンとポポは、チャチャの大切な友達でもあった。
「ならば、チャチャ自身が確かめればいい」
フェリクスが言った。
「何を?」
「秘密を話す前に、エルナへ尋ねるんだ。珍しいものを見つけた場合、誰に知らせるのか。名誉が欲しいのか、工房へ戻りたいのかとか‥‥‥」
答えだけで、その人のすべてがわかるわけではないけれど、それでも、何も聞かずに悩み続けるよりはよい。
翌日、チャチャはエルナと二人で話す時間を作った。
「もし、誰も知らない材料を見つけたら、エルナはどうする?」
唐突な質問にも、エルナは表情を変えなかった。
「持ち主へ、どこまで公表してよいか確認します」
「その材料を使えば、有名な鬘職人になれるとしても?」
エルナは少し考えた。
「以前の私は、自分の名前で作った鬘を世に出したいと思っていました」
「今は違うの?」
「今も、自分の仕事を奪われたくはありません。ただ、名前を広めるために、材料を与えてくださった方との約束を破れば、以前の親方と同じことをすることになります」
他人の仕事を奪い、自分のものとして広める。エルナが最も苦しめられたことだった。
「秘密を守ってほしいの」
「承知しました」
「まだ、何の秘密か話してないよ」
「話すかどうかも含めて、チャチャ様がお決めください」
その返事を聞き、チャチャは決心した。
午後、エルナを屋敷の奥にある庭へ案内した。同行したのはフェリクス、マリアネーゼ、オスカーだけである。広い庭を抜け、さらに草原の方へ進んだ。
やがて、空へ向かって伸びる巨大な陽輪花が見えてきた。
黄色い花を咲かせたもの。
花びらを閉じ、風綿種を作り始めたもの。
すでに白い綿毛を広げているもの。
タンとポポが種を植えるようになってから、その数は少しずつ以前より増えていた。エルナは足を止めた。
「これが……あの繊維の花なのですか」
「陽輪花というの」
「書物の挿絵で見たものより、はるかに大きい……」
エルナは花へ近づこうとして、途中で動きを止めた。草の陰から、父にゃわんが姿を現したからだ。
後ろには母にゃわんもいる。
二匹は見知らぬ人間を警戒し、低い姿勢でエルナを見つめていた。
「動かないで」
チャチャはエルナの前へ出た。
「この子たちが、陽輪花を植えてくれるの。人間が種を植えても芽は出ないけど、にゃわんが噛んで埋めると育つんだよ」
「にゃ、わん?」
「私がつけた名前、にゃわんと鳴くから‥‥‥」
「そのままですね」
「わかりやすいでしょう?」
エルナは否定しなかった。おそらく、否定しても名前は変わらないと判断したのだろう。
父にゃわんと母にゃわんは、まだ近づいてこない。しかし、草むらの奥から飛び出してきたタンとポポは違った。ポポは見慣れないエルナの周りを一周し、持っていた布袋へ鼻を近づける。
タンは少し離れた場所に座り、白い眉のような模様を動かしながら観察していた。
「袋の中に何かあるの?」
チャチャが尋ねると、エルナは裁縫道具を入れた袋を開いた。中には糸巻きがいくつか入っている。
赤い糸巻きが転がった。
ポポの目が輝いた。
「あっ」
前足で糸巻きを叩く。糸巻きは草の上を転がり、ポポが追いかける。そこへタンも加わり、二匹で左右から叩き始めた。糸がするすると伸び、草の上へ赤い線を描いていく。
「ポポ、それはにゃわんじゃらしじゃないよ!」
「止めたほうがよろしいでしょうか」
「糸が全部出る前にお願い」
エルナは慌てることなく糸の端を持ち、軽く左右へ動かした。
ポポが跳ぶ。
タンが草の陰から狙う。
二匹が同時に飛びつき、糸の上でぶつかった。
エルナの口元が緩んだ。
その笑顔を見て、父にゃわんも少しだけ姿勢を戻した。
すぐに信頼されたわけではないけれど、追い払われることはなかったようだ。ひとしきり遊んだあと、オスカーが成熟した陽輪花を見せた。
綿毛は外側から順に緩み、最後に内側が開いていく。エルナは花へ触れず、さまざまな方向から観察した。
「外側と内側では、使い道を分けられそうです」
「長さが違うから?」
「はい。外側の長い繊維は、髪の表面へ使えます。内側の短く柔らかなものは、見えない部分で量を増やすのに向いています」
「今まで、全部混ぜちゃってた」
「次からは、採る位置ごとに籠を分けましょう。雨の前に緩んだものを回収できれば、傷みも減らせるかもしれません」
花を直接見たことで、エルナの中に次々と考えが浮かんでいるようだった。
綿毛が開く順番や繊維の長さ。日の当たり方による硬さの違い。
必要なのは、完成した綿毛を選別することだけではない。採取の段階から、鬘づくりは始まっているのだ。
「それから、もう一つお願いがあります」
「何?」
「鬘を作るために、無理に陽輪花を増やさないでください」
意外な言葉だった。
「材料がたくさんあったほうがいいんじゃないの?」
「この花は、この生き物たちがいるから育つのでしょう。材料を優先して関係を壊せば、いずれ何も採れなくなるかもしれません」
エルナは、タンとポポを見つめた。
「必要な分だけをいただきます。それで作れる鬘を考えるのが、職人の仕事ですから」
チャチャの胸に残っていた最後の不安が、ゆっくりと消えていった。材料だけを見ているのではない。
陽輪花が育つ理由と、そこに暮らすものまで大切にしてくれる。
「エルナ」
「はい」
「これからも、一緒に作ってくれる?」
エルナはチャチャへ向き直り、深く頭を下げた。
「私でよろしければ、最後まで」
その直後、ポポが赤い糸巻きをくわえて走り去った。
「あっ、ポポ!」
エルナが追いかける。タンも楽しそうにその後を追った。秘密の庭へ迎えられた最初の日、エルナは職人としての新しい仕事と、すべてほどかれた赤い糸を手に入れた。
得たものと失ったもの。
どちらが大きいかは、考えないほうがよさそうだった。




