9-6 髪ではなく、房にする
エルナが屋敷へ来てから、研究室の空気は変わった。これまでの机には、チャチャたちが思いつくまま集めた道具が並んでいた。
エルナは、まず道具を片づけることから始めた。
梳くためのものや染めるための道具。乾かすためのもの、失敗した試作品。使っていない材料などそれぞれを別の場所へ分けていった。
「失敗したものも残すの?」
チャチャが尋ねると、エルナはまだらに染まったこよりを持ち上げた。
「捨ててしまえば、同じ失敗を繰り返します。なぜ失敗したのかを書き添えておけば、これは材料ではなく記録になりますから」
失敗したものにも役目があるらしい。チャチャは、その考え方が気に入った。
自分たちが何日もかけて作った毛玉も、完全な無駄ではなかったのだ。もっとも、毛玉であることに変わりはない。机の中央には、エルナが昨日作った小さな房が置かれていた。
綿毛を髪のような一本のこよりへ加工するのではなく、何本かを薄く広げ、根元だけを糸で固定したものだ。
表面から見ると、一本の太い縄ではないが細い繊維が別々に光を受け、人間の髪がまとまって垂れているように見えた。
「鬘は、一本ずつ毛を作らなくてもいいの?」
「人の髪を使う場合は、一本から数本ずつ網へ結びつけます。ですが、材料が違えば、作り方も変えるべきですからね」
エルナは古い鬘を裏返した。
網目の細かな土台へ、長い毛が何千、何万と結びつけられている。表から見れば豪華だが、裏側には気の遠くなるような手仕事が隠されていた。
「これまでの鬘は、人の髪や獣毛を前提に作られています。陽輪花の繊維へ、同じ方法を無理に当てはめる必要はありません」
チャチャたちは、綿毛を髪へ近づけることばかり考えていた。
細く捻り、色を染め、一本ずつ網へ結ぶ。
けれどエルナは、鬘として完成した姿から逆に考えているようだ。
頭へ載せたとき、髪のように見えること。
軽いこと、そして崩れないこと。洗って繰り返し使えること。その条件を満たすなら、途中の作り方は今までと違ってもよいのだ。
「まずは同じ大きさの房を、いくつも作ります」
エルナは梳いた綿毛を薄く広げた。
長さを揃え、根元だけを細い糸で二度巻く。さらに、糸が抜けないよう小さく折り返して留めた。
出来あがった房を、チャチャが持ち上げる。
「軽い」
「ええ。ただし、これでは毛の量が多すぎます」
「少ないと思うけど?」
「一房だけなら少なく見えます。これを土台全体へ並べれば、頭が陽輪花の綿毛へ戻ります」
エルナは同じ房を五つ、横一列に並べた。
確かに、急に膨らんで見える。この調子で頭全体を覆えば、鬘ではなく、巨大な白い綿毛を被った人になるだろう。
「お父様なら、似合うかもしれないよ」
「試すのか?」
「まだ逃げられると思う」
「前回より警戒しているだろうな」
緑色の染液を見て以来、お父様は研究室の前を通る際、わずかに歩く速度が上がっていた。
気のせいかもしれないが‥‥‥
ただし、扉が開いている日は、別の廊下を使っている。それは気のせいではなさそうだった。
「試着は、まだ先です」
エルナの一言に、チャチャとフェリクスは机へ向き直った。鬘職人としての仕事を始めると、エルナは厳しかった。房の重さを揃えるため、一つずつ小さな天秤へ載せる。
重いものからは綿毛を抜き、軽いものへは足す。見た目だけでなく、実際の重さが同じになるよう調節していった。
「そこまで揃える必要があるの?」
「あります。鬘は頭へ長時間載せるものです。一部分だけ重ければ、土台が傾きます。傾けば留め具が頭皮へ食い込み、痛みの原因になります」
チャチャは、お父様の古い鬘を思い出した。
大きく豪華な鬘には、たくさんの留め具がついていた。重さでずれないよう、髪や頭へ強く固定するためだ。被ったあとの額には赤い跡が残り、外したときには汗で髪が頭へ張りついていた。
あれを身だしなみと呼ぶのだから、大人になるのは大変である。
「軽い鬘なら、留め具も減らせる?」
「土台が安定すれば、可能でしょう。ただし、風で飛ばされない程度には必要です」
「お父様の鬘が飛んだら、拾うの大変だものね」
「追いかけたくはないな」
風に転がる大きな鬘と、それを追う家族。想像すると、少しだけ見てみたかった。
エルナは房を並べながら、土台となる網を調べた。
従来の網目は細かすぎる。綿毛の房を一つずつ留めれば、糸や結び目が重なり、せっかく軽い材料を使っているのに土台が重くなる。
「もっと目の粗い、軽い網が必要ですね」
「新しく作るの?」
「はい。それと、房の根元を同じ幅で留めるための道具も欲しいところです」
エルナは紙へ簡単な形を描いた。
細い木枠の両側に、等間隔で小さな溝を作る。そこへ綿毛を渡せば、同じ幅の房を一度にいくつも作れるという。
「オスカーなら作れるかも」
呼ばれてきたオスカーは、図をしばらく眺めた。
「大きさは、どの程度がよろしいでしょう」
「まずは、手のひらに載るくらいでお願いします」
「承知しました」
オスカーは図を持って部屋を出ていった。庭師の仕事から、鬘置き、観察用の隠れ家、にゃわんじゃらし、そして鬘製造の道具へ。庭師という職業の範囲は、日に日に広がっていた。
「オスカーは、何でも作れるのね」
「頼まれるたびに、庭から遠ざかっている気もするが‥‥‥」
「あとで、お花の世話を手伝ってあげようっと‥‥‥」
「それで足りるだろうか」
その日の夕方、オスカーは試作品を持って戻ってきた。
手のひらほどの木枠へ、左右それぞれ十本の小さな溝が刻まれている。エルナが綿毛を溝へ渡し、根元へ一本の糸を通すと、同じ幅の房が十個、ほぼ同時に出来あがった。
昨日まで、一房ずつ指で押さえながら作っていたものが、短い時間で揃っていく。
エルナは何度も枠を裏返し、綿毛の並びを確かめた。その口元が、ほんのわずかに緩む。
「使えそう?」
「改良は必要ですが、とてもよくできています」
「では、次は何を作る?」
オスカーが尋ねると、エルナは少し驚いた顔をした。以前の工房では、彼女の意見を聞いて道具を作る者などいなかったのだろう。
「‥‥‥溝を、もう少し浅くしてください。それから、枠の端を丸く。綿毛が引っかかりませんので」
「わかりました。明日の朝までに直しましょう」
当たり前のように意見を受け入れられ、エルナはしばらく黙っていた。
チャチャは、その横顔を見つめた。腕があるのに、女性だから職人と呼ばれなかった。
工夫しても、成果は別の者の名前になった。だから、自分の考えを口にすることさえ、怖くなっていたのかもしれない‥‥‥
「エルナ」
「はい」
「遠慮しないで、たくさん注文してね。オスカーなら、たぶん作ってくれるから」
「たぶん、なのですか?」
「庭師だから」
エルナが目を丸くした。
オスカーは何も言わず、木枠を抱えて部屋を出ていった。しばらくして、エルナは小さく笑った。
それは、彼女が屋敷へ来てから初めて見せた、職人ではない普通の笑顔だった。
翌日、改良された木枠から、二十個の揃った房が生まれた。エルナはそれらを軽い網へ仮留めし、小さな布の上へ並べた。まだ頭へ載せられる形ではないけれど、表から見れば、柔らかな栗色の髪が流れているように見えた。
「次は、これを頭の形にするの?」
「その前に、確かめることがあります」
エルナは完成した小さな毛束を指で持ち上げた。
「この繊維が、本当に人の体温と汗に耐えられるか。まず、それを試さなければ‥‥‥」
チャチャは毛束を見た。
次にフェリクスを見た。
「お兄様」
「断る」
「まだ何も言ってないよ」
「目が、私の頭を見ている」
専門家が加わっても、試す頭が必要なことだけは変わらなかった。




