9-2 鬘は煮ても髪にならない
午後、部屋には二種類の白いものが並べられていた。一つは、陽輪花から回収したばかりの綿毛。もう一つは、お父様の鬘から抜き取った毛である。
どちらも白い。
けれど、清潔さには天と地ほどの差があった。
「洗ったのですよね?」
チャチャが念を押すと、マリアネーゼは深くうなずいた。
「二度洗いました。その後、香りのない湯ですすぎ、天日に干しております」
「それでも、少しお父様の匂いがする」
「長年、大切に使われていた鬘ですから」
物は言いようである。長年、大切に使われていた‥‥‥
つまり、長年にわたって香油や香水や汗を吸い込み続けてきたという意味でもあった。
机の上に置かれた一本の毛からは、花なのか香辛料なのか判断できない、複雑な匂いが漂っていた。嫌な匂いを別の強い匂いで覆い隠そうとした結果、すべてが手を取り合って居座っている。
たった一本で、この存在感。
束になった状態は考えたくなかった。
「お父様は、この匂いを毎日、頭に載せていたんだね」
「慣れてしまうと、ご本人にはわからないのでしょう」
「鼻って、たくましいんだな」
フェリクスが感心したように言う。
「褒めてないよね?」
「‥‥‥」
二人はそっと、鬘の毛から顔を遠ざけた。
今回の研究に使う陽輪花の綿毛は、収穫したものの中でも特に状態のよい部分だけを選んであった。
風綿種を運ぶための綿毛は、太い軸から細かな繊維が放射状に広がっている。一見すると柔らかそうだが、指先で触れてみると、ただのふわふわではなかった。
一本一本の繊維には弾力があり、折り曲げても元に戻ろうとする。
細いのに簡単には切れないし、その丈夫さがあったからこそ、重たい風綿種を支え、風を受け止められるのだろう。
「まずは、太さを揃えましょう」
オスカーが綿毛の軸を押さえ、外側の繊維を一本ずつ外していく。指先の細かな作業は、庭師というより職人のものだった。
しかし、外した繊維は真っすぐにはならない。途中で緩く曲がったり、隣の繊維と絡んだりしている。
チャチャも挑戦したが、三本目で指に絡みついた。取ろうとすると別の指へ移るし、そちらから外そうとすれば、今度は袖へつく。
「じっとして」
「綿毛に言っても無理だと思うぞ」
「お兄様、笑ってないで取って」
フェリクスが指を伸ばす。
その袖にも綿毛がくっついた。
二人で取ろうとしているうちに、今度はフェリクスの胸元へ移り、最後には肩に乗った。
その様子を見ていたマリアネーゼが、申し訳なさそうに口元を押さえる。
「フェリクス様。肩に、立派な飾りができておりますね」
「似合うか?」
「将来、羽根飾りが流行した際には、先駆者になれるかと‥‥‥」
「今は流行していないんだな」
「はい」
遠回しだが、まったく褒められていないようだ‥‥‥
綿毛は丈夫でも、扱いやすいわけではない。
むしろ軽くて細い分、人間の髪より勝手に動く。鬘にするためには、この落ち着きのなさをどうにかする必要があった。
「濡らしてみるのはどうかな?」
チャチャは小皿に水を入れ、綿毛を数本浸した。
水を吸った繊維はまとまり、扱いやすくなった。指でそろえれば、ある程度は同じ方向を向いてくれる。その状態で何本かを重ね、手のひらで転がす。すると、細いこよりが一本できあがった。
「これは昨日よりきれいだな」
フェリクスが出来あがったこよりを持ち上げる。
「でも、乾かしたらどうなるんだろう」
窓辺の日当たりのよい場所へ置き、別の実験をしながら待つこと、しばし‥‥‥
次は、湯を使う。
鬘には毎日使うものだからこそ、洗ったときに形が崩れないことが必要だった。水に耐えられても、温かい湯で縮んでしまうようでは困る。
小鍋に湯を用意してもらい、綿毛の束を入れる。鍋の中で、白い綿毛がゆらゆらと揺れていた。
「なんだか、麺を茹でているみたい」
「食べてはいけないぞ」
「食べないよ」
「昨日、種の中身は食べたではないか」
「あれは果肉。これは毛だよ」
「同じ花から採れたものだ」
「じゃあ、お兄様が食べてみて」
「なぜそうなる」
二人が話している間にも、綿毛は湯の中を漂い続けている。しばらくしてから取り出すと、繊維は縮んでいなかった。指で引っ張っても、すぐには切れないようだ。ただし、水を含んだことで何本も固まってしまい、ほぐすのに時間がかかった。
「湯には耐えられますが、束のまま洗うと絡みますな」
オスカーは濡れた繊維を広げながら言った。
「先に糸の形へ加工したほうがよさそうです。あるいは、形を固定してから洗うか」
「先に鬘にしてから洗うのは?」
「失敗した場合、完成した鬘が縮れた鳥の巣になります」
チャチャの頭に、鳥の巣を載せたお父様の姿が浮かんだ。
巣の中から小鳥が顔を出していても、意外と誰も気づかないかもしれない。
なにしろ、お父様が以前使っていた鬘は、小鳥の一羽や二羽くらいなら余裕で隠れられそうな大きさだった。
「お父様の頭で試すのは、最後にしよう」
「最初から父上の頭で試すつもりだったのか?」
「完成品しか載せないよ」
実験途中のものを載せれば、またお父様が鬘を嫌がるようになってしまう。最近は数を減らした鬘にも慣れ、香水の量も少なくなった。本人は少々物足りなさそうだが、近くにいる家族と使用人は、以前より呼吸がしやすくなっている。
その平穏を、鳥の巣で壊す必要はなかった。
続いて、綿毛を板の上へ並べてみた。
一本ずつ向きを揃え、端を細い糸で縛る。
しかし、縛る力が弱いと抜け落ち、強く縛ると繊維が中央へ集まって扇のように広がってしまう。これを頭全体に植えつければ、髪というより、白い刷毛が大量に並んだものになりそうだった。
「お父様の鬘は、どうやって毛を留めているの?」
マリアネーゼが保管箱から、古い鬘の一部を持ってきた。内側には細かな網が張られ、その網目へ毛が少しずつ結びつけられている。外から見ると立派だが、裏返せば、気の遠くなるような手作業の跡があった。
「これを全部、人が結んでいるの?」
「鬘職人が何人もかかって仕上げます。大きなものですと、完成まで数か月かかることもございますから‥‥‥」
「だから、高いのか!」
フェリクスが納得したようにうなずいた。材料だけの問題ではない。髪をそろえ、染め、癖をつけ、網へ結びつけ、形を整える。その作業すべてに時間がかかる。
陽輪花の綿毛を使えば、材料不足や重さは解決できるかもしれないけど、職人の技術まで不要になるわけではなかった。むしろ、人間の髪とは違う性質を持つ材料だからこそ、新しい加工方法が必要になる。
「鬘を作るって、大変なんだね」
「父上が一日で三つも四つも交換していたのは、かなり贅沢だったということだな」
「それで、あの部屋が鬘だらけになったんだね」
一つ作るのに数か月‥‥‥
それがいくつも積み重なり、棚から溢れ、箱を占領し、部屋の隅で独自の匂いを育てていた。
お父様の執務室が片づくまで一か月以上かかった理由を、今さらながら少し理解した。
窓辺に置いていたこよりが乾いたようだ。
チャチャが持ち上げてみると、濡れていたときより少し膨らんでいる。それでも完全にはほどけず、一本の細い紐の形を保っていた。
引っ張ってみるが切れなかった。両端をさらに捻ると、表面の細かな毛羽立ちも少なくなった。
「これなら、網に結べるかもしれない」
古い鬘の網へ通し、小さく結んでみる。
一度目は結び目が緩み、抜けた。
二度目は強く引きすぎて、網のほうが破れた。
三度目。
オスカーが細い道具で網目を広げ、チャチャがこよりを通す。フェリクスが端を押さえ、マリアネーゼが結び目を整えた。
4人がかりで、ようやく一本できた。網から白い繊維が垂れ下がり、髪と呼ぶには少し太く、表面もふわふわしている。それでも、刷毛には見えない。
「できた‥‥‥」
「一本だけだがな」
「鬘に必要なのは、あと何本くらい必要かな?」
誰も答えなかった。
古い鬘を見れば、数える気がなくなるほどの毛が使われている。チャチャは網から垂れた一本と、その隣に結ばれている本物の毛を見比べた。
太さも、手触りも、光り方も違うし、今のままでは完成には、ほど遠い‥‥‥
けれど、陽輪花の綿毛は湯で縮まなかったし、濡らして捻れば形を保ち、網へ結びつけることもできた。失敗ばかりに見えて、その中には小さな成功が3つもあった。
「次は、もっと細くしてみよう。それから、何本も同じ太さにする方法を考える」
「色はどうする?」
「それは、まだ先。まずは髪の形にするところから」
一度に全部を解決しようとすれば、何が成功し、何が失敗したのかわからなくなる。チャチャは紙を取り出し、今日試したことを書き留めた。
水で濡らすと、そろえやすくなり、湯に入れても、縮まない。束のまま洗うと絡まるし、捻れば、一本の細い糸になる。
網へ結べる。ただし、かなり面倒。
最後の一文を書いたところで、フェリクスが紙をのぞき込んだ。
「研究の記録に、面倒と書いていいのか?」
「大切なことだよ。毎回4人で一本ずつ結んでいたら、お父様の鬘が完成するころには、私たちも鬘を被る年齢になってるよ」
「それは困るな」
「うん。私、自分の鬘を作るために、お父様の鬘を作ってるんじゃないもの」
夕方の鐘が鳴った。
研究机の上には、濡れた綿毛、絡まった綿毛、鍋で茹でられた綿毛、そして網に結ばれた一本の綿毛が残されている。
今日完成したのは、鬘ではないが鬘の毛ですら、まだない。
しいて言うならば、鬘の毛になれるかもしれないものが一本だけできただけ‥‥‥
「先は長そうだね」
「ああ。だが、父上の部屋の掃除よりは終わりが見えそうだ」
フェリクスの言葉に、チャチャは少し考えた。
「‥‥‥本当に?」
二人は同時に、机いっぱいに広がった綿毛を見た。
‥‥‥答えは出なかった。




