8-6 はじめて撫でた日
タンとポポが初めて隠れ家を出た日から、五日が過ぎた。二匹は、もう隠れ家の中だけでは満足できなくなっていた。チャチャたちが草原へ到着すると、真っ先に飛び出してくるのはポポだ。
淡い金色の身体を弾ませ、まだ少しふらつく足で、フェリクスのもとへ駆けていく。目的は、相変わらず靴の紐飾りだった。
今度、綿毛を使って猫じゃらしを作ってあげようかな‥‥‥?
「僕ではなく、これが好きなだけなんだろう?」
フェリクスが靴を動かすと、ポポも向きを変える。
右へ。
左へ。
紐が止まると、ポポも止まる。
「兄様も含めて、好きなのではありませんか?」
「そうだとよいのだが」
フェリクスは不満そうに言いながら、ポポが転ばないよう、以前よりゆっくりと足を動かしていた。タンも、隠れ家から出てくるようになったけど、ポポほど大胆ではない。
入口で周囲を確認し、母にゃわんの顔を見る。それから地面の匂いを嗅ぎ、一歩ずつ慎重に歩いてくる。向かう先は、いつもチャチャだった。
「こんにちは、タン」
チャチャが草の上へ手を置く。
タンは指先の匂いを嗅ぐと、白い眉模様の間を軽く押しつけた。
そこまでは、毎日同じだ。けれど、チャチャが少しでも手を動かすと、すぐに離れてしまう。
触れに来てはくれる。
まだ、こちらから触れることは許されていないらしい。
「今日も撫でられなかったね」
チャチャは残念だったが、追いかけなかった。
タンが近づいてくれるまで、何日も待った。
触らせてくれる日まで、また待てばよい。
その日のチャチャは、母にゃわんから少し離れた場所に座り、オスカーの観察記録を読んでいた。
二つの陽輪花の芽は、毎日少しずつ大きくなっているが、成長する速さは一定ではなかった。
「昨日は、ほとんど伸びていませんね」
「一昨日は雨が降りましたから、日が出なかったせいかもしれませんね」
「でも、その前の雨の日には、新しい葉が二枚も開いています」
「不思議なのは、それだけではございません」
オスカーは記録の一か所を指した。そこには、芽の大きさのほかに、誰が草原を訪れたのかも書かれていた。
チャチャとフェリクスが来た日。
お父様とお母様が来た日。
オスカーだけが水や隠れ家を確認した日。
「お嬢様とタンたちが長く一緒に過ごした翌日は、成長が早いように見えるのです」
「わたくしが来たから?」
「まだ偶然の範囲でございましょうが日照や土の温度など、ほかにも条件はございますからな」
オスカーは慎重だった。
一度や二度、成長が早かったからといって、チャチャとにゃわんの絆が原因だとは言えない。それでもチャチャは、古い絵本の内容を思い出していた。
名もなき少女と動物の子供が絆を結ぶと、周囲の土地は豊かになった。
本当に不思議な力が働いたのか。
それとも、少女と動物たちが一緒に植物を育てた結果なのか。
絵本には、そこまで詳しく書かれていない。
「もう少し観察を続けましょう」
「左様ですな。最初から答えを決めてしまえば、本当の変化を見落としてしまいます」
チャチャは記録を閉じた。
足元では、タンが小石の匂いを嗅いでいる。少し離れた場所から、ポポが勢いよく走ってきた。
フェリクスの靴紐を追っているうちに、こちらまで来てしまったらしい。
「ポポ、前を見ないと――」
言い終わる前に、ポポはタンへぶつかった。
二匹は一緒に転がり、チャチャのドレスの裾へ飛び込んでくる。
「にゃっ!」
「にゃあ!」
驚いた二匹が、布の中でもぞもぞと動く。
「ポポ。タンを巻き込んだら駄目でしょう」
チャチャは裾を少し持ち上げた。外へ出られるようにしたつもりだった。
ところがポポは、ドレスの中から出てこない。
薄暗く、暖かい場所が気に入ったらしく、チャチャの足へ身体を寄せて丸くなった。
「そこで寝るの?」
「にゃう」
ポポは短く返事をすると、目を閉じてしまった。
タンはすぐに出てきた。けれど、隠れ家へはまだ、戻らない。
チャチャの膝と、ドレスの裾で眠るポポを交互に見つめている。
「タンも来る?」
チャチャは手を出さず、膝の横を軽く叩いた。
タンは白い眉を動かし、疑わしそうにチャチャを見た。
その表情は、行きたいけれど、まだ迷っているようだった。
「無理に来なくてもいいよ」
チャチャは視線を外し、陽輪花の観察記録へ戻った。しばらくすると、足元で小さな気配がし、タンが、チャチャの靴へ身体を寄せていた。
すぐ逃げられる場所を選んだらしい。それでも、以前よりずっと近かった。
タンは前足の上へ顎を載せ、目を閉じた。
ドレスの中にはポポ。
靴の横にはタン。
身動きが取れなくなったチャチャは、助けを求めるようにフェリクスを見る。
「兄様」
「なんだ」
「動けません」
「動かなければいいだろう」
「足が痺れたら、どうしましょう?」
「父上も耐えたのだから、チャチャも耐えろ」
フェリクスは楽しそうに笑っている。近くにいた母にゃわんは、二匹の子供がチャチャのそばで眠っていることに気づいていた。けれど、連れ戻そうとはしなかった。
草の上へ伏せ、静かにこちらを見ている。
「お母さん。少しだけ、触ってもいい?」
チャチャは母にゃわんへ尋ねた。
もちろん、人間の言葉で返事はない。
母にゃわんは耳を動かしたあと、ゆっくりと目を閉じた。
許してくれた?そう受け取ってもよいのだろうか‥‥‥
チャチャは、ドレスの裾から見えているポポの背中へ、指先を近づけた。
まだ触れはしない。
母にゃわんの様子を、もう一度確かめる。
警戒した様子はなかった。チャチャの指が、ポポの背中へそっと触れた。
「‥‥‥柔らかい」
想像していたより、ずっとふわふわで柔らかかった。産毛のような細い毛が指を包み、その下から小さな温もりが伝わってくた。力を入れず、背中を一度だけ撫でる。
ポポは目を覚まさなかった。
むしろ気持ちよさそうに身体を伸ばし、さらにチャチャの足へくっついた。
次は、タン。
慎重なタンは、触れた瞬間に逃げるかもしれない。チャチャは白い眉模様の間へ、ゆっくり指を近づけた。
タンの耳が動き、目が少しだけ開いた。
「嫌だったら、逃げていいからね」
指先が、タンの額へ触れる。タンは逃げなかった。
チャチャが眉模様の間を一度撫でると、濃い琥珀色の目が再び閉じられた。
「撫でられた‥‥‥」
声に出した途端、嬉しさが胸いっぱいに広がった。
撫でたのは、ほんの一度。
抱き上げることも、何度も触ることもしない。
それでも、タンとポポが自分のそばで安心して眠ってくれたことが、何より嬉しかった。
そのとき‥‥‥
「お嬢様」
陽輪花の芽を見ていたオスカーが、低い声で呼んだ。
「どうしたの?」
「あちらをご覧ください」
チャチャは二匹を起こさないよう、身体を動かさずに顔だけを向けた。
二つの陽輪花の芽。
先ほどまで固く閉じていた中心の葉が、ゆっくりと開いていく。
一枚。
また一枚。
風で動いたのではない。
葉そのものが伸び、日の光を受けるように広がっている。
「今朝までは、閉じていたはず」
オスカーが記録を確認する。
「それに、この茎‥‥‥先ほどより伸びております」
「そんなに急に?」
「普通ならば、一日か二日は必要な変化です」
チャチャの足元では、タンとポポが穏やかな寝息を立てている。
母にゃわんも、父にゃわんも落ち着いていた。
チャチャは二匹の温もりを感じながら、新しく開いた葉を見つめた。
偶然かもしれない。
日差しや気温が、ちょうどよかっただけかもしれない。それでも、古い絵本の言葉が胸に浮かぶ。
少女と小さな動物が絆を結ぶと、その土地は豊かになったと‥‥‥
チャチャとタンたちの間にも、目には見えない何かが生まれ始めているのだろうか。
答えは、まだ分からないけど‥‥‥
ただ、チャチャの指先には、初めて触れた二匹の温かさが、いつまでも残っていた。




