8-3 タンの小さな一歩
ポポの目は、フェリクスの靴に釘づけになっていた。靴の甲につけられた細い紐飾りが、風を受けて左右へ揺れている。
ポポが進む方向を変えた。よろよろと、フェリクスへ向かって歩き始める。
「兄様。ポポが‥‥‥」
「分かっている」
「動かないでください」
「動いていない」
「声が怖いです」
「緊張しているんだ」
フェリクスは両手を膝の上へ置き、身体を固くしていた。ポポが近づいてくるが途中で二度転び、そのたびに自分の力で立ち上がった。
その後ろから、母にゃわんと父にゃわんもついてくる。両親は子供を連れ戻そうとはしないかった。
ただ、何かあればすぐに動ける距離を保っていた。
ポポはようやくフェリクスの靴へたどり着くと、鼻先を押しつけ、何度も匂いを嗅いだ。
フェリクスは息まで止めている。
「兄様。呼吸はしても大丈夫ですよ」
「分かっている」
「お顔が固まっています」
「急に動いて驚かせるよりよいだろう?」
ポポは靴の紐飾りへ前足をかけた。
飾りが揺れる。
もう一度、前足で押さえる。
また揺れた。
今度は口でくわえ、思い切り引っ張った。
「痛っ」
フェリクスの足が前へ引かれる。
ポポが驚いて紐を離した。
「兄様、動いたら駄目です」
「靴ごと引っ張られたんだ!」
「大きな声も駄目です」
「チャチャは見ていただろう!」
ポポは逃げなかった。少しだけ後ろへ下がり、フェリクスの様子を確かめているようだ。
危険はないと判断したのか、もう一度、靴の飾りへ近づいた。
「僕に懐いたというより、靴で遊んでいるだけだな」
「兄様の靴に懐いたのですね」
「それは懐いたと言わない」
フェリクスは不満そうだったが、その口元は嬉しそうに緩んでいる。
ポポが紐をくわえて引っ張るたび、フェリクスは驚かせないよう、ゆっくりと足先を動かした。
紐飾りが逃げる。
ポポが追いかける。
まだ上手に歩けないため、追いつく前に転がってしまう。それでも、すぐに立ち上がって再び挑戦した。
「遊ばせるのが上手ですね、兄様」
「自分で勝手に遊んでいるだけだ」
「嬉しくないのですか?」
「‥‥‥少しは嬉しい」
「素直ではありませんね」
「チャチャにだけは言われたくない」
兄妹が小声で話している間、隠れ家の中では、タンがその様子をじっと見ていた。白い眉模様の下にある濃い琥珀色の目が、外で遊ぶポポを追いかける。
けれど、ポポのように飛び出そうとはしない。母親が隠れ家から離れても、タンは入口より先へ進めずにいた。
「タンは、まだ怖いのかな」
チャチャが呼びかける。
タンの耳が小さく動く。
「大丈夫だよ。ポポも、お父さんもお母さんもいるよ」
タンはチャチャを見る。
次に、フェリクスの靴紐と格闘しているポポを見る。
一歩だけ前へ出る。けれど、前足が隠れ家の境目へ差しかかったところで止まった。
外の草を踏むことが怖いのかもしれない。
風の匂い。
聞いたことのない鳥の声。
隠れ家の中から眺めていたときより、外の世界はずっと広く感じられるのだろう。
「チャーちゃん。呼びすぎてはいけませんよ」
お母様が静かに言った。
「でも、タンも外へ出たいと思っているように見えます」
「出たい気持ちと、怖い気持ちの両方があるのでしょう。どちらを選ぶかは、タンに任せなさい」
「はい」
チャチャは、それ以上呼ぶのをやめた。
立ち上がらず、その場で草の上へ片手を置く。
手のひらは上へ向けない。
捕まえるつもりがないと伝えるため、指先だけをタンのほうへ向けた。
「ここまで来なくてもいいよ」
タンの目が、チャチャの指先を見つめる。
「今日は、入口まででも大丈夫」
チャチャは動かなかった。
タンが自分で決めるのを待つ。
少し離れた場所では、父にゃわんがポポの周囲を歩き回っている。母にゃわんは草の上へ横たわり、タンとチャチャを交互に見ていた。
子供を呼び戻す様子はないようだ。しばらくして、タンの前足が隠れ家の外へ出た。
次に、もう片方。
後ろ足は、まだ中に残っている。
タンは一度、母にゃわんを振り返った。
母にゃわんは動かない。
戻れとも、進めとも言わず、静かに見守っていた。
タンはもう一度、チャチャへ顔を向ける。そして、小さな身体を前へ進めた。
四本の足が、すべて日の当たる草の上へ出る。
「ちゃんと、出られたね」
チャチャが囁く。
タンはすぐには歩き出さなかった。
風が、眉のような白い模様を揺らす。
鼻を動かし、初めて嗅ぐ草原の匂いを確かめている。
やがて、一歩。
もう一歩。ポポより慎重に、一歩ずつ地面を確かめながら、チャチャへ近づいてきた。
途中で小石を見つけると、長い間匂いを嗅ぐいだり、草が動けば立ち止まったり。遠くで鳥が鳴くと、身体を低くした。それでも、隠れ家へは戻らなかった。
「タン、ゆっくりでいいよ」
チャチャの指先まで、あと少し。
タンが鼻を伸ばす。
柔らかく湿った鼻先が、チャチャの指へ触れた。
ほんの一瞬だった。
タンはすぐに顔を引き、二歩ほど後ろへ下がる。それでも逃げなかった。
チャチャは、触れられた指を動かさなかった。
自分から撫でようともしない。
「今、タンから触ってくれました」
「ああ。見ていたよ」
フェリクスも声を抑えて答える。
お母様も、お父様も何も言わず、微笑んでいる。
母にゃわんは、チャチャの手とタンを交互に見ていた。けれど、子供を連れ戻そうとはしなかった。
タンはもう一度、チャチャの指先へ鼻を近づけ、今度は先ほどより長く、匂いを嗅いだ。
それから自分の額を、チャチャの指へ軽く押しつけた。
白い眉模様の間に、指先が触れる。
チャチャが撫でたのではない。
タンのほうから、触れてきたのだ。
数日前まで、母親の腹元からチャチャを見つめるだけだった子が、今日は自分の足で隠れ家を出て、ここまで来てくれた。
「こんにちは、タン」
チャチャは動かないまま、小さく挨拶した。
「外の世界へ、ようこそ」
タンは返事をするように、「にゃあ」と鳴いた。
「私は、まだ触らせてもらっていないのだが」
お父様が羨ましそうに呟いた。
「お父様も待っていれば、いつか来てくれますよ」
「また草の上で待つのか?」
「はい」
「今度は、どのくらいだろうか‥‥‥」
「それはタンとポポが決めます」
以前、オスカーがお父様に言ったことを、そのまま返す。お父様は何か言い返そうとしたが、タンを驚かせたくなかったのだろう。小さく息を吐き、その場へ座り直した。
少し離れたところでは、ポポがフェリクスの靴紐をくわえたまま、得意そうに胸を張っている。
父にゃわんは、その周りを落ち着きなく歩き回り、母にゃわんは草の上へ身体を横たえていた。
四匹の家族が、初めてそろって隠れ家の外で過ごしている。
陽輪花の大きな葉が風に揺れ、二つの芽にも柔らかな日が当たる。
タンとポポにとって、初めての草原。
その小さな一歩を、チャチャたち家族は誰一人急かすことなく、静かに見守ったのだった。




