8-2 はじめて隠れ家を出た日
タンとポポの目が開いてから、さらに数日が過ぎた。
二匹は、日に日に成長し活発になっていった。
といっても、まだ自由に走れるわけではない。
立ち上がったと思えば、すぐに尻餅をつき、まっすぐ歩いているつもりなのに、なぜか横へ進んでしまったり‥‥‥
兄弟同士でじゃれ合おうとして、二匹まとめて母にゃわんの腹元へ転がることもあった。そのたびに母にゃわんが身体を舐め、父にゃわんは心配そうに周囲をうろうろする。
「お父さんにゃわんは、子供が転ぶたびに慌てているようですね」
チャチャが言うと、隣に座っていたお父様が咳払いをした。
「父親なら、子供を心配するのは当然だろう?」
「お父様も、わたくしが転ぶと、あのようにうろうろしていたんでしょうか?」
「私は、使用人を呼ぶ」
「自分では助けないのですか?」
「お前が怪我をしていないか確かめてから、必要な者を呼ぶのだ」
「それを、うろうろすると言うのでは?」
「言わないんじゃないか?」
お父様は今日も鬘を外していた。香水も使っていない。
最初のころは地毛を見られることを気にしていたが、今では風が吹いても、それほど慌てなくなった。
ただし、チャチャが後頭部へ視線を向けると、すぐに気づく。
「今、私の髪を見ただろう」
「見ていません」
「では、なぜ目を逸らした」
「陽輪花を見たのです」
「花は、反対側だぞ」
お父様が後頭部を押さえる。チャチャは何も言わず、今度こそ陽輪花の芽へ顔を向けた。
二つの芽も、タンとポポの成長に合わせるように大きくなっていた。
初めは地面へ張りつくように広がっていた葉も、今では中心から少しずつ立ち上がっている。葉の数も増え、遠くからでも周囲の草と見分けられるようになった。
けれど、二つの芽の近くにある小さな土の盛り上がりからは、まだ何も出ていない。
父にゃわんが、新しく種を埋めたらしい場所だった。
「同じように植えても、すぐ芽が出るとは限らないのですね」
「地面の下で、ゆっくり殻が割れているのかもしれません」
マリアネーゼが答える。
「あるいは、この種は芽を出さないのかもしれませんな」
オスカーは、小さな棒を土の盛り上がりの横へ立てた。
「お父さんにゃわんが植えても?」
「牙で傷をつけ、唾液を混ぜることは必要なのでしょう。しかし、それだけで必ず育つとは限らないのでしょうな」
だからこそ、陽輪花は貴重なのだ。
種を地面へ落としただけでは増えない。人間が植えても芽を出さず、にゃわんが植えた種も、すべてが花になるわけではない。
「急がずに待ちましょう」
お母様が言った。
「芽が出るかどうかは、土の中の種が決めることです」
「にゃわんと同じですね」
「そうね。こちらが急かしても、どうにもなりません」
触れたいからと手を伸ばしても、にゃわんは近づいてくれない。まだ、信頼されるまで待つしかない。
植物も動物も、人間の都合どおりには育たないらしい。
チャチャたちは、いつもの場所へ腰を下ろした。
母にゃわんは隠れ家の入口近くで横になり、タンとポポへ乳を与えている。
父にゃわんは、マリアネーゼが持ってきた雫桃を食べていた。
初めて与えたときのように、皿を独り占めしようとはしない。自分の分を食べ終えると、母にゃわんの前へ一切れ運んだ。
「ちゃんと、お母さんの分を残せるようになりましたね」
「チャチャに皿を取り上げられると学んだのだろう」
フェリクスが言った。
「取り上げてはいません。分けただけです」
「にゃう」
父にゃわんが、チャチャへ顔を向けて鳴いた。
「ほら。お父さんにゃわんも、分けたと言っています」
「果物をもう一つ欲しいと言っているのではないか?」
「今日は、もうおしまいですよ」
「にゃうう」
どうやら、フェリクスのほうが正しかったらしい。
その声に反応し、母にゃわんの腹元からポポが顔を上げた。淡い琥珀色の目で周囲を見回し、立ち上がる。
母親の前足を乗り越えようとしたポポの前へ、母にゃわんの尻尾が伸びた。
ポポが右へ進む。
尻尾も右へ動く。
今度は左へ進む。
尻尾も左へ動いた。
「お母さんと遊んでいるみたい」
「外へ出ないように止めているのだろう」
フェリクスの言うとおり、母にゃわんはポポが入口へ近づくたび、尻尾で押し戻していた。
ところが、ポポは諦めない。
尻尾へ前足をかけ、その上を乗り越えようとし、母にゃわんが尻尾を引いた。
支えを失ったポポは、ころんと前へ転がった。
「にゃっ」
ポポは一回転し、偶然にも隠れ家の入口まで進んでしまった。柔らかな草の上で、仰向けになる。
四本の短い足をばたばたさせるが、自分では起き上がれない。
「大丈夫かな」
チャチャが腰を浮かせる。
「待て。母親が見ている」
フェリクスに止められ、動きを止めた。
母にゃわんは起き上がっていた。
けれど、すぐに子供を連れ戻そうとはしない。ポポが自分でどうするのか、見守っているようだった。
父にゃわんも果物を食べるのをやめ、仰向けの我が子を見つめている。
ポポは身体を左右へ揺らした。
一度では起き上がれない。
二度目も失敗した。
三度目に勢いをつけると、ようやく腹を下へ向けることができた。
「起きられた」
チャチャたちが揃って安堵する。
ポポはぶるぶると身体を震わせた。
目の前には、隠れ家の外に広がる草原がある。
日の光。
風に揺れる草。
大きな陽輪花。
そして、少し離れたところに座っている人間たち。
今まで入口から眺めることしかできなかった世界だ。
ポポは、恐る恐る前足を一歩出した。
後ろ足もついてくる。
もう一歩。
「外へ出た」
チャチャが囁く。
ポポの四本の足が、すべて隠れ家の外へ出ていた。
母にゃわんは止めない。
ただし、すぐ後ろに立ち、いつでもくわえて戻せるようにしていた。父にゃわんもポポの横へ来た。
二匹の間に挟まれながら、ポポは初めて草原を歩いていく。
右へよろよろ。
左へふらふら。
一歩ごとに身体が傾むいたり‥‥‥それでもポポは楽しそうだった。
草の先が鼻に触れると、驚いて後ろへ転ぶ。風で葉が動けば、前足で押さえようとしたり、自分の尻尾が視界に入ると、それを追いかけ、同じ場所をぐるぐる回った。
「忙しい子ですね」
お母様が笑う。
「誰に似たのでしょう」
ポポがふらつくと、父にゃわんが右へ回る。
次に左へ傾くと、反対側へ走る。
けれど、どこへ行けば支えられるのか分からず、結局はポポの周囲をうろうろするだけだった。
「お父様に似ていますね」
「なぜ、私を見る」
「子供が転ぶと、何をすればよいか分からず、使用人を呼ぶのでしょう?」
「必要な者へ指示を出しているのだ」
「にゃわん!」
父にゃわんが母親へ向かって鳴く。
「ほら。お母さんに助けを求めています」
「‥‥‥確かに、少し似ているかもな」
お父様が渋々認めると、皆が笑った。
その笑い声に反応し、ポポがこちらへ顔を向ける。
初めて隠れ家の外へ出たポポの目には、今度は何が映ったのだろう。
淡い琥珀色の瞳が、フェリクスの靴でぴたりと止まった。




