8-1 タンとポポの目が開いた日
タンとポポが生まれてから、一週間が過ぎた。
チャチャは午前中に勉強し、午後になると家族の誰かと陽輪花の草原へ向かう生活を続けていた。
にゃわん一家を知る者は、ごくわずかだ。
チャチャたち家族と、オスカー、マリアネーゼ。そして、食べ物を用意する料理長だけ。
草原へ続く小道には、陽輪花の保護調査を理由に立入禁止の札が立てられ、ほかの使用人が近づかないようになっている。
お父様も、タンとポポに会う日だけは決まりを守っていた。
髪と身体を洗い、香水を使わない。香りを焚き込めていない服へ着替え、鬘も外してくる。
最初は、使用人に地毛を見られるたび、落ち着かない様子で頭を押さえていた。けれど、数日もすれば慣れてきたらしい‥‥‥
「鬘がないと、思っていたより涼しいな」
昨日など、風に髪を揺らしながら、そんなことまで言っていた。
もっとも、執務中や食事の席では、今までどおり鬘をかぶっている。
急にすべてを変えることはできないようだ。
それでも、お父様が自分から鬘を外す時間を作るようになったのは、大きな変化だった。
にゃわん夫婦の好みも、少しずつ分かってきた。二匹とも、最初に与えた雫桃は大好物だった。
甘酸っぱい紅珠の実を与えた日には、父にゃわんが真っ先に口へ入れた。
ところが、思っていたより酸っぱかったのか、身体を固めたまま、眉間にしわを寄せた。
吐き出すのかと思ったが、もったいなかったらしい。
父にゃわんは目を細め、何度も首を振りながら、最後まで飲み込んだ。
「嫌なら、出してもよかったのに」
「にゃう‥‥‥わん‥‥‥」
「誰も取りませんよ」
「にゃーう」
残った紅珠の実を前足で押さえ、父にゃわんが答える。
酸っぱい。
でも、ほかの者に渡すのは嫌‥‥‥
その顔には、そう書いてあるように見えた。
「食い意地が張っているところは、お父様に似ていますね」
チャチャが言うと、お父様は不満そうに眉を寄せた。
「なぜ、私なのだ」
「お父様も、嫌いな料理以外は残さないでしょう?」
「好きな料理を残さないのは、当たり前だ」
「父にゃわんも、同じことを言っていると思います」
「にゃーう」
「ほら」
「今のは偶然だ」
母にゃわんは、酸っぱい紅珠の実を一度舐めただけで、父にゃわんへ押し返した。
一方、香りの強い蜜瓜は、父にゃわんが喜んで食べたものの、母にゃわんは最後まで口にしなかった。
同じ種類の生き物でも、好みも違うらしい。
ただし、タンとポポは、まだ母親の乳だけを飲んでいる。
料理長からも、果物を与えるのは早いと言われていた。
二匹は一週間で少し大きくなったが、目はまだ、閉じたままだった。
「今日も、まだ眠っているかな?」
その日の午後、チャチャはフェリクスとマリアネーゼを連れ、陽輪花の草原へ向かった。
お父様とお母様は仕事があり、あとから来る予定だ。
「寝ているというより、まだ目が開いていないだけだろう?」
「でも、いつ見ても眠っているようです」
「赤ん坊は寝るのが仕事だと、母上が言っていただろう」
「食べることも仕事ではありませんか?」
「それなら父親のほうは、一日中仕事をしていることになるな」
二人は顔を見合わせて笑った。
隠れ家へ近づく前に、チャチャは陽輪花の芽を確認した。
一週間前には数枚しかなかった葉が、今では手のひらほどに広がっている。
葉の表面には細かな産毛が生え、朝露を丸い粒にして弾いていた。
「二つとも、ずいぶん急に大きくなったね」
「同じ日に芽を出したのに、こちらのほうが少し大きいな」
フェリクスが指した芽は、もう一方より葉が一枚多い。
土や日当たりの違いなのかな?
それとも、種そのものに差があるのかも‥‥‥
「オスカーが、毎日大きさを書き留めています。あとで見せてもらいましょう」
マリアネーゼが言った。
「わたくしも記録してみたいです」
「お嬢様は、先に今日のお勉強をお済ませくださいませ」
「終わっています」
「先生から、復習もするように言われていたのでは?」
「‥‥‥陽輪花の観察も勉強です」
チャチャは早足で隠れ家へ向かった。
都合の悪いことは、聞こえなかったことにするのが一番だ。
いつもの場所へ腰を下ろすと、父にゃわんがすぐに姿を現した。以前のように、何度も周囲を確認してから出てくることはなくなった。
チャチャとフェリクスを見つけると、一度だけ「にゃう」と鳴く。
「こんにちは。今日は、雫桃を持ってきたよ」
マリアネーゼが籠を見せると、父にゃわんの尻尾が左右へ揺れた。
「先に赤ちゃんを見せてください」
「食べ物を使って取引するつもりか?」
「元気かどうか確認してからです」
「にゃう」
「分かっています。ちゃんとあげるからね」
言葉が通じているような返事をしながら、父にゃわんは隠れ家へ戻った。
中では、母にゃわんが身体を丸めていた。その腹元に、タンとポポが寄り添っていた。
「少し大きくなったよね?」
「ああ。隠れ家も、前より狭く見える」
フェリクスが小声で答えた。
タンの白い眉模様も、以前よりはっきりしていた。
眠っているだけなのに、難しいことを考えているような顔だ。
ポポは母親の腹へ顔を埋め、前足を小さく動かしている。
「今日も目は‥‥‥」
開いていない。
そう言おうとした瞬間だった。
ポポが顔を上げた。
閉じていた瞼が、ゆっくりと持ち上がる。
まだ眠そうな、淡い琥珀色の目が現れた。
「あっ!」
チャチャは声を上げかけ、慌てて両手で口を押さえた。
「兄様、ポポの目が開いています」
「本当だ」
ポポは何度も瞬きをした。
初めて見る光が眩しいのか、片方の目を閉じたり、また開いたりしている。
母親の身体。
隠れ家の草。
入口から差し込む日の光。そして、少し離れたところにいるチャチャたち。
目に映るものすべてが珍しいらしい。
首をあちらこちらへ動かし、懸命に見回している。
「ポポ。見える?」
チャチャが小さな声で呼びかける。
ポポの顔が、声のしたほうへ向いた。
チャチャを見ている。
「今、わたくしを見ましたよ」
「声に反応しただけかもしれないぞ」
「でも、こちらを見ています」
「僕のことを見ているのかもしれない」
「兄様ではなく、わたくしです」
二人が言い争っていると、ポポは母親の腹から離れようとした。
短い足を動かし、隠れ家の入口へ進もうとする。
しかし、まだ身体をうまく支えられない。
一歩進んでは横へ倒れ、また起き上がろうとする。
「目が開いたばかりなのに、もう外へ出ようとしていますよ」
「ずいぶん好奇心が強いな」
淡い毛色で、おとなしく見えたポポ。けれど、実際は兄弟の中で先に外へ出たがる性格らしい。
ポポが入口へ近づきすぎると、母にゃわんが前足で胸元へ引き戻した。
「にゃあ!」
ポポが不満そうに鳴く。
もう一度進もうとするが、今度は父にゃわんが鼻先で押し戻す。父と母の二匹に止められ、ようやく諦めたようだ。
それでも外が気になるのか、両親の間から顔だけを出している。
「ポポは、ずいぶん元気ですね」
マリアネーゼが微笑む。
「タンは、まだ眠っているのかな」
チャチャが呼びかける。
「タン。ポポはもう目が開いたよ」
白い眉模様の赤ちゃんは、母にゃわんの腹へ顔を埋めたまま動かない。
「タン、起きて」
「無理に起こすなよ」
「でも、ポポに先を越されちゃうよ」
「競争ではないだろう」
すると、タンの耳が小さく動いた。
チャチャの声が聞こえていたらしい。
顔を上げようとしたが、やはり眠いのか、再び母親の毛へ鼻先を埋める。
「起きませんね」
「慎重な子なのかもしれません」
「眉毛のせいで、寝ていても何かを疑っているように見えます」
チャチャが言うと、フェリクスが笑った。その声に反応したのか、タンがもう一度顔を上げる。
片方の瞼が、わずかに開いた。
白い眉模様の下から、濃い琥珀色の目がのぞく。
「開いた!」
タンは片目だけで、じっとチャチャを見ていた。
ポポのように周囲を見回そうとはしない。
チャチャだけを、疑うように見つめている。
「ものすごく警戒されています」
「眉毛のせいではないか?」
「まだ赤ちゃんなのに、兄様より難しい顔をしています」
「僕は、そんな顔はしていない」
「勉強を教えるときは、同じ顔をしています」
「チャチャが話を聞かないからだ」
タンは、もう片方の目もゆっくり開いた。
二つの濃い琥珀色の目で、チャチャを見つめる。
チャチャが右へ身体を傾けると、タンの目も右へ動く。
左へ動けば、目も左へ動いた。
「兄様。やっぱり、わたくしを見ています」
「そうだな。これは間違いなさそうだ」
チャチャは嬉しくなり、手を伸ばしかけた。
けれど、すぐに止める。
目が開いたからといって、触ってもよいわけではない。
母にゃわんも、チャチャの手元をじっと見ている。
「触らないよ」
チャチャは両手を自分の膝へ戻した。
「今日は、顔を見せてくれただけで十分だからね」
タンはしばらくチャチャを見ていたが、やがて母親の腹へ顔を戻した。
それでも眠りはしない。
白い眉の下から、ときどきチャチャを確かめている。
ポポは早くもフェリクスの靴に興味を持ったらしい。
入口から顔を出し、靴についた紐飾りが風で揺れるのを見つめていた。
フェリクスが足先を少し動かす。
紐飾りが左右へ揺れると、ポポの前足も一緒に動いた。
「兄様、遊んでいるの?」
「触ってはいない。靴を動かしているだけだ」
「ポポが外に出ようとしていますよ」
「母親が止めるだろう?」
その言葉どおり、母にゃわんの前足が伸び、ポポはまた胸元へ戻された。
「にゃあ!」
ポポが抗議する。
母にゃわんは気にせず、ポポの頭を舐め始めた。
「ポポは元気で、タンは慎重なのですね」
「見た目とは反対だな」
フェリクスが言った。
眉毛模様で強そうなタンは、母親のそばから離れない。
柔らかな金色で、おとなしく見えるポポは、今にも外へ飛び出そうとしている。
二匹の違いが、少しずつ見え始めていた。
しばらくすると、マリアネーゼが雫桃を取り出した。
父にゃわんと母にゃわんへ少量ずつ与える。
二匹が果物を食べている間も、タンとポポはそれぞれの場所からチャチャたちを見ていた。帰る時間になり、フェリクスが立ち上がる。
「また、明日だな」
「ポポ、勝手に外へ出たら駄目だよ」
ポポは返事の代わりに、母親の前足の下でもぞもぞと動いた。
「タンも、また明日ね」
チャチャも立ち上がろうとした。
そのとき‥‥‥
タンが母親の腹元から這い出した。
まだ足元はおぼつかない。
一歩進み、ふらりと身体を傾ける。
それでも倒れず、もう一歩だけ前へ出た。
チャチャは動きを止めた。
「タン?」
タンも止まる。
二匹の間には、まだチャチャの腕より長い距離があった。
手を伸ばしても、届かない。
タンは白い眉の下からチャチャを見上げ、小さな口を開いた。
「にゃあ」
チャチャがゆっくりとしゃがむ。けれど、手は伸ばさなかった。
「ここにいるよ」
それ以上今は、近づかない。
タンが自分で決めるのを待つ。
しばらく見つめ合ったあと、タンは身体の向きを変え、母親の腹元へ戻っていった。
触れることはできなかった。
抱き上げることも、撫でることもまだ、できない。
それでもタンは今日、初めて自分の意思で母親のそばを離れ、チャチャとの距離を二歩だけ縮めた。
その二歩は、チャチャにとって、どんな大きな贈り物よりも嬉しいものだった。




