7‐6 公爵様、草の上で待つ
陽輪花の草原へ到着すると、オスカーが一行を出迎えた。
「旦那様。今日は随分と思い切られましたな」
オスカーの視線は、お父様の頭へ向けられている。
「お前まで,じろじろ見るなよ」
「これは失礼を。旦那様の地のお髪を拝見するのは、私も初めてでございましたので‥‥‥」
「用がなければ、すぐ鬘をかぶる」
「風通しがよくて、よろしいのでは?」
「今、その話はしたくない」
お父様が不機嫌そうに答える。
それでも鬘を取りに戻ろうとはしなかった。
「にゃわんたちの様子はどうですか?」
チャチャが尋ねる。
「母親も子供たちも、変わりありません。昨日の雫桃を食べたあとも、腹を壊した様子はございませんなし」
「今日も果物を持ってきたの?」
「念のため、雫桃を少量だけ用意しております。ただし、旦那様が近づく前には出しません」
「なぜだ?」
お父様が尋ねる。
「食べ物につられて近づいたのか、旦那様を受け入れて近づいたのか、分からなくなりますからな」
「‥‥‥」
公爵領の重要な会議でも、これほど素直に人の話を聞くことは少ない気がする。
一行が陽輪花へ近づくと、チャチャは根元に生えた二つの芽を確認した。
昨日、三枚目の葉が顔を出したばかりだった。
今日は、その葉が少し開いていた。
地面へ張りつくように広がった葉の表面では、小さな水滴が光っていた。
「また少し、大きくなっていますね」
「一日で、変わるものなのか?」
お父様も芽をのぞき込む。
「旦那様。あまり近づかれませぬように」
オスカーがすぐに止めた。
「見てるだけだ」
「そのお靴で根の上を踏まれては困ります。陽輪花の根が、どこまで伸びているか分かりませんので」
「私は公爵だぞ」
「植物は、身分を確かめてから踏まれてくれるわけではございません」
オスカーは平然としている。
お父様は何か言い返そうとしたが、芽を傷つけるのは本意ではなかったらしい。大人しく一歩下がった。
「昨日から、誰も踏み込んでおりません。水も与えず、自然に任せております」
「世話をしなくてもよいのか?」
「土の中はまだ湿っております。水を与えすぎれば、根が腐ることもございますから」
「何もしないのも世話のうち、ということか」
「左様でございます」
お父様は、もう一度小さな芽を見た。
待つこと。
余計な手を出さないこと。
どうやら今日は、その二つを学ばなくてはならないらしい。
「それでは旦那様。あちらへお座りください」
オスカーが示したのは、隠れ家から少し離れた草の上だった。
敷物はない。
椅子もない。
「ここへ直接座るのか?」
「はい」
「服が汚れる」
「にゃわんたちは、旦那様の服が汚れるかどうかを気にいたしません」
「私は公爵だぞ」
「存じております」
「公爵を地面へ座らせる庭師が、どこにいる」
「ここにおりますな」
オスカーは平然と答えた。
お母様が横を向き、肩を震わせる。
チャチャとフェリクスも笑いそうになったが、お父様に睨まれたので、揃って口元を押さえた。
お父様はしばらく草の上を見つめていた。
昨日までなら、使用人に椅子を運ばせていたかもしれない。
しかし、ここへ来る途中で何人もの使用人に地毛を見られ、今さら服の汚れを気にしても仕方がないと思ったのだろう。
覚悟を決め、草の上へ腰を下ろした。
「足が落ち着かないのだが」
「楽な姿勢で構いません。ただし、にゃわんが出てきても、急に動かないでくださいね」
「どのくらい待てばよい?」
「それは、にゃわんが決めることです」
「時間も分からないのか?」
「野生の生き物と、面会の約束はできませんからな」
お父様は隠れ家を見つめた。
チャチャたちは少し離れた場所へ移動し、椅子に座って見守ることにした。
十分ほど過ぎた。
何も起こらない。
二十分ほど過ぎた。
お父様が座り直そうと身体を動かす。
「お父様、動かないように‥‥‥」
「足が痺れたのだ」
「もう少し我慢してください」
「お前たちは椅子に座っているではないか」
「今日は、お父様の再挑戦ですからね」
「理不尽だ」
さらに時間が過ぎた。
小さな虫がお父様の袖へ止まる。
追い払おうと手を上げかけたが、チャチャたちの視線に気づき、そのまま耐えた。
「顔に来たら、払ってもよいのか?」
「ゆっくりと‥‥‥」
「これは何の修行だ」
「にゃわんに信用してもらうための修行です」
お父様は深く息を吐き、再び動かなくなった。
風が草原を渡っていく。
昨日なら、お父様の周りには薔薇や香木の匂いが漂っていた。
今日は、草と土と陽輪花の匂いしかない。
お父様の短い髪も、風に吹かれるたび、頼りなく揺れていた。
やがて、隠れ家の入口から二つの耳が現れた。
父にゃわんだ。
父にゃわんは、すぐには外へ出なかった。
隠れ家の中に身体を残したまま、鼻だけを前へ突き出している。
一度。
二度。
何度も空気の匂いを確かめる。
しかし、昨日のようにくしゃみはしなかった。
父にゃわんは、お父様を見つめたまま一歩前へ出る。
お父様の顔がほころんだ。
「来た!」
「お父様、声が大きいです」
「すまない」
父にゃわんの足が止まった。
けれど、隠れ家へは戻らない。
お父様が動かないことを確かめると、もう一歩近づく。
その後ろから、母にゃわんも顔を出した。
母にゃわんは隠れ家の中に身体を残したまま、お父様の様子を観察している。
赤ちゃんたちは、まだ見えない。
父にゃわんは、少しずつ距離を縮めていった。
お父様の足元まで、あと三歩ほど。
あと二歩。
あと一歩。
父にゃわんが鼻先を伸ばし、お父様の靴を嗅いだ。
次に、ズボンの裾。
それから顔を上げ、鬘のない頭を見た。
「にゃう?」
父にゃわんが、不思議そうに首を傾げる。
「昨日と頭が違うと、言っているのかもしれませんね」
フェリクスが囁く。
「鬘も、お父様の身体の一部だと思っていたのかな」
昨日は、白く大きな巻き毛を頭に載せていた。
今日は、その十分の一ほどしかない短い栗色の髪。
同じ人間だと分からなくても、不思議ではない。
父にゃわんは、お父様の周りを一周した。
何度も匂いを嗅ぎ、正面へ戻る。
「私は、昨日と同じ人間だ」
お父様は小さな声で話しかけた。
「昨日は、驚かせて悪かった。今日は臭くないはずだ」
父にゃわんの耳が動く。
「家族を傷つけるつもりはない。ただ、赤ん坊を少し見せてもらいたいのだ」
意味が通じているのかは分からない。
それでも、父にゃわんは逃げなかった。
お父様が嬉しそうに手を伸ばそうとする。
「お父様、まだです」
チャチャが止めた。
「しかし、ここまで近づいているぞ」
「近づいてきたことと、触ってよいことは別です」
「‥‥‥そうか」
お父様は、伸ばしかけた手をゆっくりと膝の上へ戻した。
父にゃわんは、その動きをじっと見ていた。
お父様が無理に触れようとしなかったことを確かめるように、その場へ座る。
草の上で、公爵とにゃわんが並んだ。
触れられるほど近いのに、触れない。
お父様は足の痺れも忘れたように、じっとしていた。
しばらくすると、母にゃわんが隠れ家の奥へ戻る。
そのまま出てこなくなるかと思ったが、やがて口に何かをくわえて現れた。
淡い金色の、小さな塊。
「ポポだ!」
母にゃわんは、ポポを隠れ家の入口近くへ下ろした。
外へ連れ出したわけではない。
それでも昨日は身体の下へ隠していた赤ちゃんを、今日はお父様から見える場所へ置いた。
ポポは目を閉じたまま、短い足を動かしている。
その隣には、白い眉模様のタンもいた。
二匹が寄り添い、小さな声で鳴く。
「にゃあ」
「にゃあ」
お父様は、初めて見る二匹の姿から目を離さなかった。
「‥‥‥あれが、タンとポポか」
「はい」
「本当に小さいんだな」
「昨日、お母様も同じことを言いましたね」
「そうか」
お父様の声は、とても穏やかだった。
公爵としての威厳を示すための大きな鬘もない。
地位を香りで知らせるための香水もない。
上等な服の裾を草で汚し、足を痺れさせながら、ただ二匹の赤ちゃんを見ている。
父にゃわんは、お父様の隣から動かなかった。
触らせてはくれないけれど逃げもしなかった。
それは昨日より、ずっと大きな一歩だった。
「チャチャ」
「はい」
「明日も来るとき、鬘を外したほうがよいのだろうか?」
「もちろんです」
「毎日か?」
「タンとポポに会いたければですね」
お父様は頭の上を撫でた。
風が、灰色がかった栗色の髪の間を通り抜けていく。
「‥‥‥確かに、涼しくはあるな」
「蒸れませんから、髪にもよいですよ‥‥‥きっと」
「もう少し早く、気づくべきだったかなぁー」
「まだ間に合いますよ」
「何にだ?」
「逃げかけている髪を、引き止めるのにです」
「‥‥‥」
お父様が振り返った。
声は怖かったが、口元は少し笑っていた。
その横で、父にゃわんも同じ方向へ首を傾げている。
大きな鬘を脱ぎ、強い香りを捨て、長い時間を草の上で待ってようやくお父様は、にゃわん一家と同じ場所に座ることを許されたのだった。




