7-5 鬘の下のお父様
翌日の午後。
チャチャが玄関広間へ向かうと、フェリクスとお母様は、すでに出かける準備を終えていた。
「お父様は、まだですか?」
「もういらっしゃると思うけれど」
お母様が階段へ目を向けた。昨日、お父様は、にゃわん一家へ近づくため、香水を使わず、清潔な鬘を選ぶと約束したはず‥‥‥
朝食の席では、いつもどおり白い鬘をかぶっていたが‥‥‥
「これは仕事用だ。午後には替える」
と言っていた。
きっと今ごろ、残した十個の鬘を一つずつ嗅ぎながら、最も香りの薄いものを選んでいるのだろうか?
「お父様、どの鬘にするか迷っているのかな?」
「小さくて、きれいなものにすればいいだろう」
「兄様。お父様にとって、小さな鬘を選ぶのは大変な決断なのです」
「赤ちゃんに逃げられることより大変なのかな?」
「それは、お父様に聞かないと分かりませんけど‥‥‥」
二人が話していると、階段の上から足音が聞こえた。
「待たせたな」
お父様の声がした。。
チャチャが顔を上げる。そして、そのまま固まった。
階段を下りてきたのは、確かにお父様だ。
服も、顔も、声も変わらない。
けれど‥‥‥頭が違った。
白く大きな鬘が、ない‥‥‥
巻いた髪も、飾り紐も、香りのついた白い粉もない。
代わりに見えていたのは、灰色を帯びた栗色の短い髪だった。
「兄様」
「なんだ?」
「お父様の髪、兄様と同じ色ですね」
「僕も今、そう思っていたよ」
えっ?兄様も‥‥‥?フェリクスより少し暗いが、光が当たるとよく似ている。
物心がついたころから、お父様はいつも鬘をかぶっていた。
朝食の席でも。
執務室でも。
庭へ出るときでさえも。
チャチャはこれまで一度も、お父様の本当の髪を見たことがなかった。
大人になれば、鬘で髪を隠す。
それが、この国の貴族にとって当たり前の身だしなみだったのだ。
けれど、鬘を外したお父様は、思っていたより普通の人に見えた。
いつもより頭がずっと小さい。
顔つきも少し若く、同時に頼りなく見える。
ただし、髪が均等に生えているわけではなかった。
耳の上や横側にはしっかり残っているのに、後頭部から頭頂部にかけては髪が細い。鬘の内側が強く触れる部分だけ、地肌がうっすらと透けていた。
チャチャは前世で見た赤ちゃんの頭を思い出した。赤ちゃんは長い時間、仰向けで寝ている。
すると、寝具に触れ続ける後頭部の毛が擦れ、そこだけ丸く薄くなることがあった。
毛が最初から生えないのではない。
何度も同じ場所が擦れるうちに、柔らかな毛が抜けてしまうのだ。
いわゆる寝禿げである。
お父様の場合は、寝具ではなく鬘禿げ‥‥‥か‥‥‥?
赤ちゃんは一日の大半を寝て過ごし、お父様は一日の大半を重い鬘とともに過ごしている。
蒸れたうえに、同じ場所を毎日擦られているのなら、髪が弱っても不思議ではない。
つまり――。
お父様の頭には、うっすらと鬘禿げができていた。
「いつまで見ている」
お父様が頭を片手で隠した。
「初めて見たので‥‥‥」
「何をだ」
「お父様の頭です」
「髪と言いなさい。頭では、何もないように聞こえる」
「ちゃんとありますよ。周りには」
「周りには、とはどういう意味だ?」
聞いてはいけないところまで聞かれてしまった。
チャチャが答えに困っていると、フェリクスが横からお父様の後頭部をのぞき込む。
「確かに、後ろから上にかけて少し薄いですね」
「フェリクス、お前まで‥‥‥」
「どうして、この部分だけ薄いのですか?」
「‥‥‥年齢のせいだろ?」
「お父様は、まだそれほどお年ではないでしょう?」
「髪の量には個人差があるのだ!」
お父様が必死に説明する。
お母様は扇を口元へ当て、笑いをこらえていた。
「あなた。以前より少し薄くなっていますものね?」
「お前まで何を言い出す」
「毎日、重い鬘をかぶっていますもの。蒸れたうえに、内側の布で擦れているのではなくて?」
「鬘と髪の量は関係ない」
「本当に?」
「歴代の当主も皆、鬘をかぶっていた」
「歴代の当主も、肖像画では立派な鬘をかぶっています。実際の髪がどれほど残っていたのかは、誰にも分かりませんよね?」
お父様が言葉に詰まる。
確かに肖像画の中では、歴代公爵たちは皆誰もが大きく豪華な鬘をかぶっていた。
確かに、その下がどうなっていたのかは、子孫にも分からないだろう‥‥‥
「お父様」
「今度はなんだ」
「赤ちゃんも、寝ていると後頭部の毛が薄くなることがあるのです」
「それが私と何の関係がある?」
「赤ちゃんは寝具で擦れて、お父様はまだお若いのですから同じように鬘で擦れたのかもしれませんよ」
「私の頭を赤ん坊と一緒にするな」
「毛が抜ける仕組みは、似ていると思いますけど‥‥‥」
「似ていない」
「赤ちゃんは寝はげで、お父様は鬘はげですね」
「そのような言葉を勝手に作るな!」
お父様の声が玄関広間へ響く。
近くに控えていた使用人が肩を震わせ、慌てて俯いた。
「チャーちゃん。これ以上、お父様の頭を観察するのはおやめなさい」
お母様に止められ、チャチャは口を閉じた。
フェリクスはお父様の頭と、自分の髪を交互に触っている。
将来の自分を心配しているのかもしれない。
「兄様も、大人になって重い鬘をかぶったら、同じところが薄くなるかもしれませんね」
「僕は、もっと軽い鬘にするよ」
「まだ、鬘をかぶる年齢でもないだろう」
「父上の頭を見たら、今から考えておいたほうがよい気がしてきました」
「私の頭を教訓にするな」
お父様の機嫌が、目に見えて悪くなっていく。
「それで、今日は鬘をかぶらないのですか?」
チャチャが尋ねると、お父様は頭から手を下ろした。
「香りの弱い鬘を選ぼうとしたのだが、十個すべてを確かめても、何かしらの香料が残っていた」
「長い間、香水や香りのついた粉を使っていたのですもの。一度干したくらいでは抜けませんよね」
「だから、置いてきた」
「全部捨てたの?」
「捨ててはいない! 今日は、かぶらずに来ただけだ」
「香水は?」
「使っていない」
「本当に?」
「疑うなら嗅いでみなさい」
チャチャは、お父様の袖へ顔を近づけた。
昨日までの薔薇や香木の匂いはしないが‥‥‥微妙‥‥‥?まぁー許容範囲かなぁ?
「とりあえず、完璧がどうかは微妙ですけれど、お風呂にもちゃんと入ったのですよね?」
「朝から湯を運ばせたし、髪も身体も洗った」
「お父様が、自分から?」
「そこまで驚くことか!」
大掃除を始める前なら、考えられないことだった。
湯を浴びるのは、特別な日の前か、身体が目に見えて汚れたときだけだった。
しかも朝から大量の湯を運ばせ、髪まで洗うことなど、お父様は面倒がっていた。
「にゃわんに会うためなら、お風呂にも入れるのですね」
「私は以前から、必要なときには入っている」
「必要な日が、ずいぶんと少なかった‥‥‥ですね」
「チャチャ。それ以上言うと、今日は留守番を命じるぞ」
「もう言いません」
お父様は香水を使わず、鬘もかぶっていない。
服も、香料を焚き込めていない清潔なものに着替えている。
ここまで準備したのなら、昨日よりは近づけるかもしれない。
家族は屋敷を出て、オスカーの待つ陽輪花の草原へ向かった。
途中、何人かの使用人とすれ違ったが、皆がお父様の頭を二度見した。
声に出す者はいない。
けれど、目が「旦那様の頭に鬘がない」と叫んでいた。
お父様も気づいているらしく、最初は背筋を伸ばして歩いていた。
ところが、三人目に見られたあたりから、落ち着かない様子で頭を撫で始める。
「今からでも、帽子をかぶったほうがよいのではないか?」
「帽子にも匂いがついているでしょう?」
「では、頭に布を巻くか!」
「怪我人か病人に見えますよ」
「このまま歩くよりはいいのではないか?」
「お父様、タンとポポに会いたいのでしょう?」
チャチャが尋ねると、お父様は頭から手を下ろした。
「‥‥‥」
色々、言いながらも、お父様の本当の髪は風に揺れていた。この方が絶対に髪にはいい。
鬘の巻き毛は、どれほど強い風が吹いても、こんなふうには動かない。
チャチャは初めて、お父様の頭にも風が通るのだと知った。
「涼しいですよね?」
「‥‥‥思っていたよりはな」
「蒸れませんしね」
「‥‥‥」
お父様は髪を押さえる手を下ろし、陽輪花の草原へ続く小道を歩いていく。
公爵としての威厳を支えてきた鬘も、身分を示す香りもない。
今日は初めて、何も載せていない本当の頭で、にゃわん一家に会いに行くのだ。
果たして、父にゃわんは同じ人物だと分かってくれるのだろうか‥‥‥
それとも、昨日とは頭の大きさが違いすぎて、別人だと思われてしまうのだろうか?
チャチャは、少し小さくなったお父様の後ろ姿を追いかけた。




