7-4 お父様は近づけない
翌日の午後。
チャチャとフェリクスは、お母様と一緒に厨房を訪れていた。
調理台の上には、料理長が用意した果物が三種類並んでいる。
一つ目は、淡い桃色をした雫桃。手のひらほどの大きさで、皮をむくと柔らかく透き通った果肉が現れる。香りは弱いが、よく熟したものは蜜のように甘い。
二つ目は、赤くて小さな紅珠の実。指先ほどの大きさしかないが、甘酸っぱい果汁が多く、子供たちにも人気がある。
三つ目は、黄色い皮に覆われた蜜瓜。香りが強く、切っただけで厨房中が甘い匂いに包まれる果物だった。
「三種類とも持っていくの?」
チャチャが籠の中をのぞき込む。
「少しずつなら、よいのではありませんか?」
お母様が言うと、料理長が難しい顔をした。
「わたくしども人間には問題のない果物ですが、にゃ‥‥‥」
料理長はそこで口を閉じた。
周囲にほかの使用人がいないことを確かめてから、小声で続ける。
「その生き物の身体に合うかどうかは分かりません。一度に何種類も与えますと、腹を壊したときに、どれが原因か分からなくなります」
「オスカーも同じことを言っていたわ」
「では、本日は雫桃だけにいたしましょう。香りが弱く、果肉も柔らかいため、最初に試すにはよろしいかと存じます」
料理長は熟した雫桃を一つ選び、皮と種を取り除いた。
果肉を小さく切り分け、白い皿の上へ並べていく。
「お父さんとお母さんで食べるから、もう少し多くてもいいんじゃない?」
「お嬢様。気に入るかどうかも、まだ分かりませんよ」
「きっと気に入るよ。陽輪花の果肉も甘かったもの」
「違う果物ですからな。同じ甘いものでも、好みはあるでしょう」
フェリクスの言葉に、チャチャは頷いた。
確かに、チャチャだって甘ければ何でも好きというわけではない。
甘いお菓子は好きだが、香水の匂いが移った菓子だけは食べたくなかった。もっとも、この世界の大人たちは花の香りがする菓子を上品だと喜んでいる。
食べ物まで香水のような匂いにしなくてもよいと思う。
「タンとポポは食べられるのかしら?」
お母様が尋ねる。
「まだ無理だと思います」
料理長が答えた。
「歯も生えておらず、母親の乳を飲んでいるのでございましょう? 親と同じものを与えるのは、もう少し大きくなってからのほうが安全ですよ」
「では、これは両親の分ですね」
「父親が全部食べてしまわなければよいが」
フェリクスが呟く。
昨日の父にゃわんは、自分の分の陽輪花の種を食べ終えると、母にゃわんの種まで横から狙っていた。
母にゃわんに前足で顔を押し戻されていたので、奪うことはできなかったが‥‥‥
「そのときは、ちゃんと注意します」
「チャチャに注意されて聞くのか?」
「‥‥‥たぶん?」
「たぶんなのか」
雫桃の皿には布がかけられ、持ち運びやすい小さな籠に収められた。
チャチャが持とうとすると、マリアネーゼが先に籠を持ち上げる。
「お嬢様は、転ばないことだけをお考えくださいませ」
「転びませんよ」
「昨日は草原で眠っていらっしゃいました」
「それと転ぶことは関係ありません」
「お疲れなのですから、足元にはお気をつけくださいという意味です」
どうやら、勝手に一晩を草原で過ごしたことについて、マリアネーゼはまだ完全には許していないらしい。
四人が裏庭へ出ると、オスカーが待っていた。
お母様は周囲に人がいないことを確かめ、草原へ続く小道に掛けられた札を見る。
そこには『陽輪花保護調査中につき、立ち入りを禁ず』と書かれていた。
「これなら、にゃわんたちのことを知られずに済みますね」
「今朝、旦那様から正式な指示をいただきました。この先へ入れるのは、ご家族と私、マリアネーゼだけでございます」
「料理長にも?」
「食べ物を用意する理由は、陽輪花の研究のためとしております。料理長は余計な詮索をする者ではございませんから、深くは尋ねないでしょう」
にゃわんの存在を知る者は、少ないほどよい。
疑っているわけではなく、守るためだった。
一度口から出た秘密は、元には戻せない。
四人は小道を抜け、陽輪花の草原へ入った。
昨日まで二枚だった新しい芽の葉は、中心から三枚目が顔を出している。
まだ小さいが、朝露を弾くほど肉厚で、地面へ張りつくように広がっていた。
「また、少し大きくなってるみたい」
チャチャが近づこうとすると、オスカーが腕を出して止めた。
「本日は眺めるだけにいたしましょう。根がどこまで伸びているか分かりませんので、周りの土を踏み固めてはいけません」
「水はあげなくていいの?」
「土の中はまだ湿っております。水が多すぎても根が腐りますからな」
「何もしないことも、お世話なのですね」
お母様の言葉に、オスカーが頷く。
「植物は口が利けません。だからこそ、よく見てやらねばなりません。育てたい者が手をかけすぎて枯らすことも、珍しくはございませんから」
植物も、動物も同じなのかもしれない。
かわいいからといって触りすぎたり、食べ物を与えすぎたりすれば、かえって苦しめることになる。
隠れ家へ近づくと、チャチャたちはいつもの場所へ腰を下ろした。
今日は見慣れないお母様もいるため、すぐには食べ物を置かない。
しばらく何もせず、にゃわんたちが落ち着くのを待った。
やがて、父にゃわんが隠れ家から顔を出した。
チャチャとフェリクスを見たあと、お母様を見る。
それからマリアネーゼの持つ籠へ鼻を向けた。
「甘いものを持ってきたよ」
チャチャが言うと、父にゃわんの耳がぴんと立った。
「昨日、話したでしょう? 陽輪花とは違う果物だよ」
言葉が分かっているのか、それとも甘い匂いを感じ取っただけなのか。
父にゃわんは隠れ家から出ると、迷うことなく籠の前へやってきた。
「近い。近いです」
マリアネーゼが驚いて、一歩下がる。
父にゃわんは籠を追い、さらに一歩進んだ。
「マリアネーゼ、逃げたら追いかけてしまうよ」
「申し訳ございません。これほど積極的に近づいてくるとは思わなかったものですから‥‥‥」
マリアネーゼはその場にしゃがみ、ゆっくりと籠を地面へ置いた。
布を外すと、父にゃわんの鼻が忙しなく動く。
オスカーが皿から雫桃を一切れ取り、父にゃわんの前へ置いた。
「まずは、これだけだ」
父にゃわんはすぐには口にしなかったが何度も匂いを嗅ぎ、前足で軽く触る。
柔らかな果肉が潰れ、透明な汁が草の上へ落ちた。
父にゃわんは果汁を舐めた。
その瞬間、身体がぴたりと止まる。
「固まったぞ」
フェリクスが小声で言った。
「身体に悪かったのかしら?」
お母様も不安そうに呟いた
父にゃわんは目を見開いたまま、チャチャのほうを見た。
そして、次の瞬間‥‥‥
「にゃわん!」
大きな声を上げ、雫桃へ飛びついた。
前足で果肉を抱え込み、夢中で食べ始める。柔らかな実に顔を押しつけるものだから、鼻の周りが果汁で濡れていた。
「気に入ったみたい」
「気に入ったというより、興奮しているな」
一切れを食べ終えると、父にゃわんは皿へ顔を突っ込んだ。
「あっ、一度に食べたら駄目だよ」
チャチャが皿を押さえる。
父にゃわんも反対側から皿を前足で押さえた。
「今日は少しだけ。お腹壊さないか様子見ないと‥‥‥」
「にゃーう‥‥‥」
「お母さんの分も残してあげて」
「にゃうう」
「駄目です。半分こです」
チャチャと父にゃわんは、白い皿を挟んで見つめ合った。
父にゃわんは離そうとしない。
チャチャも離さなかった。
「チャチャ。野生の生き物と食べ物を取り合う令嬢など、聞いたことがありませんよ」
「わたくしが食べたいわけではありません」
「傍から見ると、そう見えます」
お母様に指摘され、フェリクスが吹き出した。
「笑わないでください、兄様」
「だって、どちらも同じ顔をしているから」
「同じではありません」
「にゃう!」
「ほら、向こうも違うと言っているぞ」
最後には、父にゃわんが根負けした。
皿から前足を離すと、一切れだけ口にくわえる。
そのまま隠れ家の中へ戻っていった。
「持っていってしまった」
「母親に運んだのかもしれませんな」
オスカーの言葉どおり、隠れ家の中で待っていた母にゃわんの前へ、雫桃が置かれた。
母にゃわんはすぐには食べなかった。
父にゃわんの口元を嗅ぎ、それから果物の匂いを確かめる。
一度だけ舐めたあと、ようやく小さくかじった。
母にゃわんの目が丸くなったように感じた。
そして、残りを誰にも取られないよう、前足で抱え込んだ。
「お母さんも気に入ったみたいだね」
「似た者夫婦ですね」
お母様が微笑む。
二匹が雫桃を食べている間も、タンとポポは母親の腹元で眠っていた。
まだ、果物には興味がないらしい。
ときどき小さな前足が動き、柔らかな毛の中から「にゃあ」と頼りない声が聞こえてくる。
「今日は、これ以上与えないほうがよろしいでしょう」
オスカーが残った果物へ布をかける。
「明日まで腹を壊さないか、食欲が落ちないかを確認しましょう。問題がなければ、また少量与えてもよいでしょう」
「毎日、違う果物を食べさせるのではないの?」
「身体の変化を見るには、二日か三日は空けたほうがよろしいかと思いますよ」
チャチャとしては、紅珠の実や蜜瓜を食べた反応も早く見たかった。
けれど、楽しみは後に取っておくことにした。
そのとき、草を踏む音が聞こえた。
「皆、もう来ていたのか?」
振り返ると、お父様が小道から歩いてきたところだった。
昨日は同行を止められたため、今日こそはと早めに仕事を切り上げたらしい‥‥‥
頭には、いつもの朝食用よりも大きな鬘をかぶっている。
丁寧に巻かれた白い髪が左右へ広がり、後ろには青い飾り紐までついていた。
礼装ほどではないが、庭を散歩するには明らかに立派すぎる出で立ちだった。
「あなた。その鬘でいらしたのですか?」
お母様が呆れたように尋ねた。
「初めて会うのだから、当主として恥ずかしくない姿を見せるべきだろう?」
「相手は、野生の生き物ですよ」
「だからこそ、軽く見られてはならない」
にゃわんが鬘の大きさで人間の身分を判断するとは思えない。
チャチャたちが何も言えずにいる間にも、お父様は胸を張って近づいてくる。
すると、風向きが変わった。
甘い花と草の匂いに混じり、濃い香料の匂いが流れてきた。
薔薇。
香木。
甘い油。
さらに、鬘へ染みついた古い粉の匂い‥‥‥
部屋の大掃除をしたあと、鬘は十個まで減らした。しかし、残した鬘のすべてを洗い直したわけではなかった‥‥‥
傷みの少ないものを選び、表面の埃を落とし、日陰へ干しただけの鬘も残っている。
どうやら今日のお父様は、その中でも特に香りの強いものを選んできたらしい‥‥‥
最初に反応したのは、父にゃわんだった。
隠れ家から顔を出し、鼻をひくつかせる。
一度、二度‥‥‥
その目が、お父様へ向けられた。
「おお。あれが父親か?」
お父様が嬉しそうに一歩近づいた。
父にゃわんは同時に一歩下がった。
「‥‥‥あれっ?」
お父様がもう一歩進む。
父にゃわんは、さらに二歩下がった。
「待て、待て。私は怪しい者ではないぞ」
お父様が手を伸ばした瞬間、父にゃわんは大きく鼻を鳴らした。
「ぶにゃっ!」
くしゃみだった。
父にゃわんは前足で鼻をこする。
続けて、もう一度。
「ぶにゃっ!」
その声を聞いた母にゃわんが、隠れ家の中で素早く身体を丸めた。
タンとポポを腹の下へ隠し、お父様から見えないようにした。
父にゃわんも入口へ戻り、妻と子供たちを守るように立ちはだかった。
「なぜ私だけ警戒されるのだ?」
「お父様が臭いからでは?」
チャチャが答えると、お父様の顔が固まった。
「チャチャ。父親に向かって、臭いとは何事だ」
「でも、父にゃわんはくしゃみをしていますし‥‥‥」
「花粉だろ?」
「お父様が来るまでは、一度もしていませんでしたよ!」
フェリクスの冷静な指摘が追い打ちをかける。
お父様は助けを求めるように、お母様を見た。
「あなた。今日は香水を変えましたか?」
「いや。いつもどおりだが‥‥‥」
「では、いつもどおり香りが強すぎるのでしょう」
「公爵として、身だしなみを整えているだけだぞ‥‥‥」
「にゃわんには、あなたの爵位など分かりませんよ」
「私は、この家の当主だ」
「にゃわんには、爵位より鼻のほうが大事なんでしょう」
チャチャが言うと、父にゃわんが同意するように「にゃう」と鳴いた。
「ほら」
「今のは偶然だろ」
「ですが、お父様が近づくと、また鼻を押さえています」
実際に父にゃわんは、前足を鼻先へ当てていた。
偶然なのかもしれない。
しかし、そうとしか見えない姿だった。
お父様は立ち止まり、自分の袖の匂いを嗅いだ。
「私には、よい香りにしか思えないんだがな‥‥‥」
「人間は、毎日嗅いでいる匂いに慣れてしまいますから」
「チャチャも臭いと思うのか?」
真剣に尋ねられ、チャチャは少し迷った。
「正直に答えても、怒りませんか?」
「‥‥‥内容による」
「それでは正直に答えられません」
「怒らないと約束する」
チャチャは、もう一度お父様の鬘を見上げた。
「‥‥‥臭いです」
「そこまで迷ったのに、答えはそれなのか……」
「お父様の香水だけなら、少し強いくらいですけど、鬘に残っている昔の香料と、今日の香水が混ざっていて変な匂いになっています」
「‥‥‥それほどか?」
「その鬘を洗ったのは、いつですか?」
「表面の手入れなら、先月したはずだ」
「洗ったのは?」
「‥‥‥覚えていない」
「それが答えです」
お父様は黙り込んだ。
陽輪花の根元を吹き抜ける風が、再びお父様の匂いを隠れ家へ運ぶ。
父にゃわんが顔を背け、母にゃわんは子供たちをさらに奥へ押し込んだ。
「今日は、ここまでにしたほうがよろしいでしょう?旦那様!」
オスカーが遠慮がちに言う。
「これ以上は、母親を不安にさせてしまいます」
「私は、まだ赤ん坊の顔すら見ていないのだが‥‥‥」
「このままだと一生見せてもらえませんよ‥‥‥きっと‥‥‥」
「‥‥‥」
お父様の肩が目に見えて落ちていった。
公爵として追い返されたことなど、これまで一度もなかったのかもしれない。
どこへ行っても最もよい席へ通され、人々のほうから頭を下げられる。
けれど、にゃわんたちには通じないようだ。
立派な鬘も、高価な香水も、何の役にも立たなかった。
むしろ、近づけない原因になっていた。
お父様は名残惜しそうに隠れ家を見たあと、一人で小道へ戻り始めた。
チャチャも、その後を追う。
「お父様」
「今は、話しかけないでくれ」
「怒っていますか?」
「怒ってはいないよ」
「落ち込んでいるのですか?」
「‥‥‥公爵は、落ち込まないさ‥‥‥」
落ち込んでいる人の歩き方だった。
立派な鬘まで、いつもより小さく見えた。
しばらく黙って歩いていると、お父様が足を止めた。
周囲には、二人しかいない。
お父様は誰も聞いていないことを確かめるように辺りを見回すと、少しだけ身を屈めた。
「チャチャ」
「はい」
「あの子らに近づくには、どうすればよいかな?」
声が小さい。
公爵家の当主が、幼い娘に尋ねているとは思えないほど、控えめな声だった。
「お父様も、タンとポポを見たいのですか?」
「当たり前だ。家族で私だけ見ていないのだぞ」
「それだけですか?」
「父親のほうにも、もう少し歓迎されたいし‥‥‥」
チャチャは笑いそうになるのを我慢した。
にゃわんに避けられたことが、よほど悔しかったらしい。
「まず、その鬘を取っちゃってください」
「今日のために選んだのだが」
「だから駄目なのです。飾りも大きさも関係ありません。香りの残っていない、きれいな鬘を選んでください」
「香水は?」
「つけないでください」
「まったくか?」
「はい」」
「それでは身だしなみが‥‥‥」
「タンとポポに会いたいのでしょう?」
お父様は、しばらく黙っていた。
鬘と香水‥‥‥それと風呂もだ‥‥‥
公爵として、難しい決断なのかな?慣れちゃえば、どうってことないのに‥‥‥
やがて、お父様は覚悟を決めたように頷いた。
「分かった。明日は香水を使わない」
「鬘もつけないで、髪も洗ってくださいね」
「‥‥‥」
「たぶん、鬘の臭いにも反応しますよ」
「‥‥‥注文が多いな」
「にゃわんの鼻は、お母様より厳しいのですよ」
「それは相当だな‥‥‥」
お父様が真顔で答えたので、チャチャはとうとう笑ってしまった。
翌日、お父様はもう一度、にゃわん一家のもとを訪れることになった。
高価な香水も、大きな鬘も、公爵という身分も置いて‥‥‥




