7-3 家族だけの秘密
屋敷へ戻ったころには、朝食の時間をとうに過ぎていた。
チャチャとフェリクスは、一晩中草原にいたせいで、服の裾には土がつき、髪には乾いた草が絡まっていた。
フェリクスに至っては、片方の靴下がずり落ちていた。
「兄様もひどいお姿ですね」
「チャチャにだけは言われたくない」
「わたくしのどこがひどいのですか?」
「頭に葉っぱをつけたままの人間に言われてもな‥‥‥」
フェリクスがチャチャの髪から、小さな葉を一枚つまみ取る。
昨夜までは、いつ子供が生まれるのかと緊張していた。それなのに無事に生まれたと分かった途端、身体中に疲れが押し寄せてきた。
「お腹が空きましたね」
「僕もだ」
二人が朝食の残りをもらおうと食堂へ向かうと、その扉の前にマリアネーゼが立っていた。
チャチャたちの姿を見るなり、安堵したように息を吐く。
「お嬢様、坊ちゃま。やっと、お帰りになったのですね」
「ただいま、マリアネーゼ」
「お母様は、もう朝食を終えてしまった?」
「奥様と旦那様は、お二人をお待ちでございます」
「待っている?」
チャチャとフェリクスは顔を見合わせた。
嫌な予感が‥‥‥
「も、もしかして、お母様は怒っている、とか?」
「それはもう‥‥‥」
マリアネーゼは笑顔だった。
笑顔なのに、目が少しも笑っていなかった。
「わたくしも、お二人が草原に残ると知ったのは夜になってからでございますし、オスカーがついているとはいえ、お子様だけで外泊なさるとは思いませんでしたよ」
「外泊‥‥‥というほどでは?庭だし‥‥‥」
「一晩、屋敷へお戻りにならなかったのです。立派な外泊でございます」
「兄様が残ると言ったから」
「チャチャが帰らないと言ったんだろう?」
「お二人とも、中へお入りください」
言い争っている場合ではなかったようだ‥‥‥
二人が恐る恐る食堂へ入ると、長い食卓の奥に、お父様とお母様が並んで座っていた。
料理はすでに片づけられている。
お母様の前に置かれたお茶からは、湯気すら上がっていなかった。
「おはようございます、お父様、お母様」
「‥‥‥お、おはようございます」
チャチャに続き、フェリクスも頭を下げる。
「随分と遅い朝の挨拶ですね」
お母様の声は穏やかだった。
穏やかすぎて、かえって怖い。
「チャーちゃん。フェリクス。二人が屋敷にいないと聞いたとき、わたくしがどれほど心配したか分かりますか?」
「ごめんなさい」
「申し訳ありません」
「オスカーが一緒だからといって、一晩中外にいてよい理由にはなりません。何かあれば、すぐに屋敷へ知らせるべきでしたね」
「でも、お母様。赤ちゃんが生まれそうだったのです」
「あなたが産むわけではないでしょう?」
「そ、それは、そうなのですけれど‥‥‥」
何も言い返せない。
隣でフェリクスが俯いている。けれど、肩がわずかに震えていた。
‥‥‥笑っている?
チャチャはテーブルの下で、兄の足を軽く蹴った。
「痛っ!」
「フェリクス?」
「なんでもありません、母上」
お父様は何か言いたそうに口を開いたが、お母様の横顔を見て、そのまま閉じた。
どうやら今は、子供たちを助けるつもりはないらしい。
「それで?」
しばらくして、お母様が尋ねた。
「赤ちゃんは、無事に生まれたのですか?」
その声から、ほんの少しだけ厳しさが消えていた。
「はい!」
チャチャは顔を上げた。
「二匹生まれました。どちらも元気です。一匹はお父さんとお母さんに似た金色の子で、もう一匹は少し色が濃くて、目の上に白い眉毛みたいな模様があるのです」
「‥‥‥そう。二匹とも無事だったのですね」
「はい。名前もつけました」
「もうつけたのか?」
お父様が口を挟むととお母様がお父様をジロリと睨んだ。
「タンとポポです」
「どちらがタンで、どちらがポポなのだ?」
「眉毛のある子がタンで、金色の子がポポです」
「なぜ眉毛がタンなのだ?」
「とても遠い国では、そのような模様をタンと呼ぶのです」
「また、遠い国、か‥‥‥」
フェリクスが呟く。
「そして陽輪花は、遠い国の花に似ているのです。その花の名前から、もう一匹はポポにしました。二匹合わせると、タンとポポです」
「二匹合わせて呼ぶことが前提なのか?」
「兄妹ですから」
お父様は納得したような、していないような顔をしていた。
お母様は冷めたお茶を一口飲むと、マリアネーゼへ新しい茶を頼んだ。それからチャチャたちを席に座らせ、遅い朝食を運ばせる。
「食べながらで構いません。昨夜、何があったのか最初から話してください」
チャチャとフェリクスは、にゃわんのメスが突然産気づいたこと、オスが慌てていたこと、オスカーと一緒に隠れ家を広げたことを順番に説明した。
話を聞いているうちに、お母様の表情も柔らかくなっていく。
しかし、二人が夜中に眠ってしまったところでは、再び眉を寄せた。
「つまり、出産を見守ると言いながら、二人とも眠ってしまったのですね?」
「一生懸命、起きていようとはしたのですけれど‥‥‥」
「結果として、眠ったのでしょう?」
「‥‥‥はい」
「オスカーがいてくれて、本当によかったです」
ぐうの音も出なかった。
ひととおり話を聞き終えると、お父様が腕を組んだ。
「そのにゃわんという生き物は、これからもあの草原に住むつもりなのだろうか?」
「分かりません。でも、赤ちゃんが歩けるようになるまでは、隠れ家にいると思います」
「ならば、屋敷の者にも知らせておく必要があるな。知らずに近づいて、驚かせては困る」
「全員に知らせるのですか?」
チャチャが聞き返すと、お父様は首を傾げた。
「そのつもりだったが、何か問題があるのか?」
「珍しい生き物がいると広まったら、見たがる人が増えますし、使用人の皆を疑うわけではありませんけど、誰か一人がお友達や家族に話せば、そこから広まってしまいますし‥‥‥そういうのは避けたいと思いまして‥‥‥」
珍しい生き物、そう‥‥‥陽輪花と深く関わり、古い絵本にも似た動物が描かれていた。
その存在が知られれば、見たいと思う者だけでは済まないかもしれない。絵本にも書かれていたぐらいだ。
捕まえたい者。
売りたい者。
幸運をもたらすという伝説を信じ、自分のものにしたい者。
絵本の中で、少女と動物たちを追い出した人々も、最初から彼らを傷つけようとしていたわけではない。
豊かな土地が欲しかっただけだけれど‥‥‥
「にゃわんたちは、ようやく私たちの近くで休めるようになったのです。赤ちゃんが生まれた今は、なるべく静かにしてあげたいのです」
「わたくしも、チャーちゃんの考えに賛成です」
お母様が言った。
「屋敷の者全員に知らせる必要はありません。あの草原へ続く道を、しばらく立ち入り禁止にしましょう。陽輪花の保護と調査のためと言えば、不自然ではありません」
「では、誰まで知らせる?」
「家族のほかは、オスカーとマリアネーゼ。それから、食べ物を準備する料理長くらいでしょうか」
「料理長は、にゃわんを見なくても準備できます。陽輪花の調査に使うと言えばよいと思います」
チャチャが答えると、お母様が頷く。
「それならば、実際に居場所を知るのはオスカーとマリアネーゼだけにしましょう」
「二人とも信用できるのか?」
「お父様。オスカーは、にゃわんたちのために何日も観察小屋を作ってくれたのですよ」
「それに、マリアネーゼはチャチャが生まれる前から、この家に仕えている」
フェリクスも加わった。
「二人が誰かに言いふらすとは思えません」
「そうか」
お父様は少し考えてから、重々しく頷いた。
「では、にゃわん一家のことは、ここにいる者とオスカーたちだけの秘密とする。草原に用事のある者は、必ずオスカーの許可を取るように命じよう」
「ありがとうございます、お父様」
「ただし、チャチャとフェリクスも勝手に行くことは禁止だ」
「えっ!」
「‥‥‥当然でしょう」
お母様に見つめられ、チャチャは小さくなった。
「必ず、大人と一緒に行くこと。一日に何度も押しかけないこと。赤ちゃんへ勝手に触らないこと。そして、もう二度と屋外で朝まで眠らないこと」
「はい」
「分かりました」
二人は揃って返事をした。
朝食を終えると、お母様もタンとポポを見に行くことになった。
「わたくしも、赤ちゃんをこの目で確かめなければなりません」
「お母様も見たいのですか?」
「心配しているだけです」
「見たいのですね」
「チャーちゃん?」
「なんでもありません」
お父様も同行しようとしたが、お母様が止めた。
「一度に大勢で近づけば、母親を不安にさせます。あなたは午後にしてください」
「だが、私はこの家の当主だぞ」
「相手は野生の生き物です。当主かどうかなど関係はありません」
「むしろ、お父様の大きな鬘を見たら、驚いて逃げてしまうかもしれませんね」
「チャチャ‥‥‥」
お父様は不満そうだったが、赤ちゃんを怖がらせる可能性を指摘されると、諦めるしかなかった。
チャチャとフェリクス、お母様、マリアネーゼの四人は、オスカーの待つ草原へ向かった。
陽輪花の近くまで来ると、お母様は歩みを止めた。
「本当に大きな花ですね。屋敷から眺めたことはありましたが、これほど近くまで来たのは久しぶりです」
「チャチャが生まれた年から、急に咲き始めたのですよ」
「ええ。縁起のよい花だとは聞いていました」
その根元では、二つの小さな芽が朝露を受けていた。
以前より、葉が少しだけ大きくなっている。
「お母様。あの芽は、にゃわんが種を運んでくれたから生えたのです」
「では、この花も、あの子たちがいなければ増えないのですね」
「たぶん、そうなんです」
オスカーの案内で隠れ家へ近づくと、父にゃわんが最初に顔を出した。
見慣れないお母様の姿に気づき、入口の前で足を止める。
けれど、お母様は近づこうとしなかった。
ドレスが汚れることも気にせず、少し離れた草の上へ静かに腰を下ろす。
「初めまして」
お母様は、父にゃわんへ穏やかに語りかけた。
「わたくしは、この子たちの母です。あなたたちを傷つけるつもりはありません」
父にゃわんは、お母様とチャチャを交互に見た。
チャチャがお母様の隣へ座ると、ようやく警戒を解いたのか、隠れ家の中へ戻っていく。
しばらく待っていると、母にゃわんも顔を上げた。
その腹元で、タンとポポが寄り添って眠っている。
お母様は二匹を見たまま、しばらく何も言わなかった。
「お母様?」
「‥‥‥とっても、小さいのですね」
ようやく出てきた声は、思っていたよりずっと優しかった。
「そして、とっても‥‥‥」
「かわいいでしょう?」
「ええ」
お母様は、今度は素直に認めた。
「この子たちが安心して育てるように、わたくしたちが守らなくてはなりませんね」
その声が聞こえたのか、眠っていたタンが小さく身じろぎした。
白い眉のような模様が動き、口がわずかに開く。
「にゃあ」
お母様の顔が、ぱっとほころんだ。
「今、わたくしに返事をした?」
「偶然ですよ」
先ほどフェリクスに言われたことを、そのまま返してみる。
「わたくしを歓迎してくれたと思う方が楽しいでしょう?」
「お母様も、わたくしと同じことを思ったのですね」
「こういうことは、信じた者勝ちです」
どうやら、お母様もすっかりタンとポポを気に入ってしまったらしい。
少し離れたところでは、オスカーが新しい水を用意していた。
「母親は、陽輪花の種をよく食べております。子を育てるため、以前より腹が減るのでしょう」
「陽輪花以外のものも食べるのかな?」
「試してみる価値はあるでしょう。ただし、一度に何種類も与えてはいけません。何か身体に合わなかった場合、原因が分からなくなります」
「では、甘い果物を一種類ずつ試しましょう」
お母様が提案した。
「まずは、香りが弱く、柔らかなものがよいでしょうね。料理長に少量だけ用意させます」
「お父さんにゃわんが先に食べると思います」
「なぜです?」
「何でも最初に試すのは、お父さんだからです。お母さんは、それを見てから食べるのです」
「まあ。毒見役のつもりなのかしら?」
「本人は、ただ食べたいだけかもしれませんよ」
チャチャが言うと、フェリクスとお母様が笑った。
笑い声に反応した父にゃわんが、隠れ家から顔を出す。
その表情は、何を話しているのだと尋ねているようだった。
「明日は、甘い果物を持ってくるね」
チャチャが説明すると、父にゃわんは耳を立てた。
「甘いものだよ。陽輪花の果肉以外にも、おいしいものがあるかもしれないし」
意味が分かっているのかは分からない。
それでも父にゃわんは、期待するように尻尾を左右へ振った。
タンとポポが育つ様子。
にゃわんたちが何を好み、どのように暮らすのか?
そして、二つの陽輪花の芽が、これからどのように大きくなっていくのか?
これからがとっても楽しみになった。そして、家族みんなで少しずつ見守ればよいのだ。
これは公爵家だけが知る、小さくて大切な秘密。
陽輪花の根元で始まった4匹の暮らしは、チャチャたち家族の毎日にも、ゆっくりと根を張り始めていた。




