7-2 タンとポポ
いつまで起きていたのだろうか?
隠れ家の前に敷いた毛布の上で、チャチャはフェリクスと肩を並べ、にゃわんたちを見守っていた。
メスは、ときどき苦しそうに身体を丸め、オスはそのたびに隠れ家の中をうろうろする。チャチャが「大丈夫だよ」と声をかけると、オスは少しだけ落ち着き、メスのそばへ戻った。
それを何度も繰り返しているうちに、空はすっかり暗くなっていた。
眠ってはいけない。
何かあったとき、すぐに助けを呼ばなければ、そう思っていたはずなのに、いつの間にかチャチャの瞼は重くなり、意識はゆっくりと遠のいていた。
――にゃあ。
どこかで、小さな声がした。
――にゃあ、にゃあ。
「‥‥‥んん?いつも間にか眠っちゃったんだ」
チャチャは目をこすりながら、ゆっくりと身体を起こした。
毛布が肩から滑り落ちる。
隣では、フェリクスが丸くなって眠っていた。チャチャの肩に自分の上着をかけたまま、寒そうに両腕を抱えている。
空は、夜と朝の間の色をしていた。
東の端だけがほんのりと明るくなり、草原には白い朝靄が漂っている。巨大な陽輪花も、その輪郭だけを薄暗い空に浮かべていた。
また、小さな声がする。
「にゃ、にゃあーー」
オスやメスの鳴き声より、ずっと高くて頼りない。
チャチャは眠気も忘れ、隠れ家へ顔を向けた。
入口には、オスが座っている。
チャチャと目が合うと、オスは耳をぴくりと動かした。それから、隠れ家の奥を振り返る。
「もしかして‥‥‥」
チャチャは音を立てないよう、四つん這いになって隠れ家へ近づいた。
外から、そっと中をのぞき込む。
乾いた草の上に、メスが横たわっていた。
昨夜まで苦しそうに膨らんでいたお腹は少し小さくなり、その腹の辺りで、何かがもぞもぞと動いている。
1匹。
その隣に、もう1匹いた。
2匹の小さな生き物が、メスの身体にしがみつくようにして鳴いていた。
「生まれてる‥‥‥」
思わず声が漏れた。
メスが顔を上げる。
けれど、唸りも逃げもしなかった。疲れ切った様子でチャチャを見たあと、赤ちゃんたちを包み込むように身体を丸める。
チャチャたちが眠っている間に、2匹も生まれていたのだ。
「兄様。兄様、起きて!」
チャチャは慌ててフェリクスのもとへ戻り、肩を揺すった。
「ん?なんだ‥‥‥」
「生まれたの。赤ちゃんが生まれたんだよ」
「‥‥‥えっ?」
「2匹、生まれたんだよ!」
フェリクスは一瞬で目を覚ました。
跳ね起きそうになったので、チャチャは慌ててその腕を押さえる。
「急に動いたら驚かせちゃうでしょ」
「そ、そうだった」
二人は身を低くし、並んで隠れ家へ近づいた。
少し離れた場所では、オスカーが木にもたれて座っていた。
眠っているように見えたが、二人が起きたことに気づくと、すぐに目を開ける。
「オスカー、赤ちゃんが生まれているよ」
「ええ。夜明け前に」
「知っていたの?」
「小さな声が聞こえましたので。ただ、母親も落ち着いておりましたし、下手に近づくべきではないと思いまして」
オスカーは一晩中、離れた場所から見守ってくれていたらしい。
チャチャとフェリクスは、もう一度隠れ家をのぞいた。
2匹の赤ちゃんは、まだ目も開いていなかった。
身体はチャチャの両手に収まりそうなほど小さい。濡れていた毛はメスが舐めたのか、ほとんど乾いて、ふわりと柔らかそうに膨らみ始めている。
1匹は、両親によく似ていた。
淡い金色の毛に、耳や尻尾の先だけ少し色が濃い。背中には陽輪花の花びらを思わせる模様が広がっている。
「こっちの子は、お母さんにそっくりだね」
「耳は父親に似ているんじゃないか?」
「本当だ。先が少し尖ってる」
二人が小声で話していると、両親似の赤ちゃんが「にゃう」と鳴き、前足をばたばたさせた。
まだ自分で好きな方向へ進むこともできないらしい。メスの腹から離れかけ、懸命に身体をくねらせている。
するとオスが近づき、赤ちゃんを鼻先でそっと押し戻した。
「ちゃんとお父さんをしてるね」
「昨夜は、あんなにうろうろしていたのにな」
「何をすればいいか、分からなかったんだよ。きっと‥‥‥」
「今も分かっているのか怪しいけどな」
オスは赤ちゃんを押しすぎて、ころりと半回転させてしまった。
赤ちゃんが驚いて鳴くと、オスはびくりと身体を震わせ、慌てて後ろへ下がる。
フェリクスの言うとおり、まだ父親には慣れていないようだった。
もう一匹は、少し毛色が濃かった。
全身は蜂蜜を焦がしたような茶金色で、耳と四本の足の先はさらに濃い。けれど、目の上にだけ、2つの白い模様がついている。
目はまだ閉じているのに、白い模様のせいで眉毛があるように見えた。
「この子、眉毛がある」
「眉毛?」
「ほら、目の上。白いところ」
「本当だ」
赤ちゃんの顔が動くたびに、白い模様も上下する。
どこか困ったようにも、得意げな顔をしているようにも見えた。
チャチャは思わず笑いそうになり、両手で口を押さえた。
かわいい。
ものすごく、かわいい。
前世の地球にも、目の上に眉毛のような模様を持つ犬がいた。黒や茶色の毛の中に、別の色の斑点が入る模様。
『タン』と呼ばれる模様だったはずだ。
正確には色を表す言葉だったような気もする。しかも、この子の眉毛は白い。しかし、今のチャチャには、その名前が妙にぴったりだと思えた。
「この子、タンってどうかな」
「タン?」
「眉毛みたいな模様があるでしょう? こういう模様の子に合う名前なの」
「どこの国の言葉だ?」
「ええと‥‥‥とても遠い国、かな?」
「‥‥‥」
フェリクスが疑わしそうにチャチャを見る。
チャチャは都合が悪くなり、隠れ家へ視線を戻した。
「でも、呼びやすいでしょう?タン」
名前を呼ばれた濃い色の赤ちゃんが、小さな口を開いた。
「‥‥‥にゃあ」
「ちゃんと返事をしたよ!」
「偶然だろう」
「気に入ったんだよ。きっと」
「まだ目も開いていないのに、名前が分かるのかな?」
「にゃわんだもの。普通の動物とは違うかもしれないでしょう」
チャチャがもう一度『タン』と呼ぶと、赤ちゃんは前足を伸ばした。
その小さな足が、メスの毛を懸命につかむ。
「この子はやっぱり、タンって名前にしようよ」
では、もう一匹はどうしよう。
両親に似た淡い金色の赤ちゃんは、メスの腹に顔を埋めたまま、一生懸命に乳を飲んでいる。
丸い背中に広がる模様は、まだ開ききっていない花のようだった。
チャチャは隠れ家の外に立つ、巨大な陽輪花を振り返った。
この草原で生まれた子。
陽輪花の種をきっかけに、チャチャたちと両親は出会った。
絵本の中でも、名もなき少女と動物たちは、花の根元でともに暮らしていた。
「こっちの子は、ポポ」
「ポポ?」
「陽輪花からもらったの」
「陽輪花なら、ヨウとかリンじゃないのか?」
「それだと、ちょっと堅いもの」
この世界では陽輪花と呼ばれているけれど、チャチャにはどうしても巨大なタンポポに見える。
だから、タンポポの後ろ半分をもらって、ポポ。
タンと、ポポ。
2匹を続けて呼べば、それだけで元の名前になる。
「オスの方がタンとメスの方がポポか?」
フェリクスは交互に赤ちゃんを見た。
「2匹で一つみたいな名前だな」
「兄妹だもの。いつも一緒にいられますようにって」
「でも、大きくなったらどちらがどちらか分からなくならないか?」
「こんなに模様が違うんだから分かるよ。兄様、ちゃんと覚えてね」
「チャチャに言われなくても覚える」
フェリクスはそう言いながら、両親似の赤ちゃんへ顔を近づけた。
「お前がポポだぞ」
「にゃっ!」
ポポが乳を飲むのをやめ、小さく鳴いた。
「ほら、ポポも返事をしたよ」
「本当に分かっているのかな?」
フェリクスが首を傾げる。
2人が話していると、オスが隠れ家の入口へやってきた。
赤ちゃんに近づきすぎたと思ったチャチャたちは、すぐに身体を引いた。
「ごめんね。勝手に名前をつけたら嫌だった?」
オスはチャチャを見つめる。
それから、隠れ家の中の赤ちゃんたちを振り返った。
「濃い色の子がタン。お父さんとお母さんに似ている子がポポ。どうかな?」
オスは何度か鼻を動かした。
そして、濃い色の赤ちゃんの頭を舐め、次に淡い色の赤ちゃんの背中を舐める。
「タン」
チャチャが呼ぶと、オスは濃い色の赤ちゃんへ鼻先を寄せた。
「ポポ」
今度は淡い色の赤ちゃんを見る。
偶然かもしれないけど、わかっているような気もする‥‥‥
チャチャの視線を追っているだけかもしれない。それでも、まるで2匹の名前を確かめているようだった。
オスはチャチャへ顔を向け、一度だけ小さく鳴いた。
「にゃう」
「気に入ってくれたのかな」
「少なくとも、嫌ではないようだな」
メスも目を開き、チャチャたちを見ていた。
子供を守ろうと牙を見せることも、唸ることもしない。しばらく二人を見つめたあと、安心したように目を閉じた。
その仕草を見て、チャチャの胸が温かくなる。
2匹は、赤ちゃんを見せてくれている。
完全に信頼されたとは、まだ言えないかもだけど‥‥‥
けれど、昨夜まで確かに存在していた人間と野生の生き物の境目に、小さな扉が一つ開いたような気がした。
オスカーも赤ちゃんの姿を確認し、安堵したように息を吐いた。
「2匹とも元気そうですな。母親も水を飲めております。しばらくは静かに休ませてあげるのがよいでしょう」
「種はもっと置いておいたほうがいい?」
「母親は腹が減るでしょうから、食べられる分は用意しておきましょう。ただし、置きすぎれば傷みます。朝と夕方に様子を見ながら運ぶのがよろしいかと」
「じゃあ、今日から当番を決めよう」
チャチャが言うと、フェリクスもすぐにうなずいた。
「僕も手伝う。ただし、チャチャ一人では来るなよ」
「兄様だって一人で来ちゃ駄目だよ」
「僕は兄だぞ」
「兄様も子供でしょう?」
「チャチャよりは大人だ」
二人が小声で言い合っていると、隠れ家から『にゃあ、にゃあ』と2匹の声が重なった。
まるで、喧嘩をしてはいけないと注意されているようだった。
チャチャとフェリクスは顔を見合わせ、同時に笑った。
朝日が草原を照らし始める。
陽輪花の大きな花が光を受け、その根元に作られた小さな隠れ家にも、柔らかな朝の色が差し込んだ。
タンとポポ。
絵本には、動物の子供と少女が絆を結ぶと、その土地が豊かになったと書かれていた。
けれど、チャチャは豊かさも幸運も望んでいない。
2匹が無事に育ってくれれば、それでいい。
今はまだ、触れることさえ許されていない小さな命。
それでもいつか、タンとポポのほうから近づいてきてくれる日が来るかもしれない。
「おはよう、タン。おはよう、ポポ」
チャチャがそっと呼びかける。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
2匹の赤ちゃんは母親の温かな毛に包まれながら、もう一度、小さな声で鳴いた。




