7-1 小さな命を待つ夜
絵本を見つけてから、数日が過ぎた。
あの物語に描かれていた名もなき動物と、庭に現れたにゃわんたち。偶然だと片づけるには、似ているところがあまりにも多い。
けれど、今のところチャチャたちにできることは、2匹を驚かせないよう、これまでどおり静かに見守ることだけだった。
その日の午後も、チャチャはフェリクスと一緒に、草で覆われた観察小屋に入っていた。
「今日も2匹は、来るかな」
「来るんじゃないか? 昨日も、このくらいの時間だっただろう?」
フェリクスが小窓から草原をのぞく。
陽輪花の根元には、朝のうちに用意した種が3つ置いてあった。近頃のにゃわんたちは、果肉を塗らなくても種を食べるようになっている。チャチャたちが観察小屋にいることにも気づいているはずだが、以前ほど警戒しなくなっていた。
しばらく待っていると、草の間から2つの耳が現れた。
「来た!」
「声が大きいぞ、チャチャ」
フェリクスに注意され、チャチャは慌てて両手で口を押さえた。
先に姿を見せたのはオスだった。
周囲の匂いを確かめるように鼻を動かし、安全だと判断したのか、後ろを振り返って小さく鳴く。すると、膨らんだ腹をゆっくりと揺らしながら、メスが姿を現した。
お腹は一週間前よりもさらに大きくなっている。歩く速度も遅く、時折立ち止まっては、重そうに息をついていた。
「もうすぐなのかな?」
「子供が生まれるってことか?」
「うん。あのお腹だもの」
二匹は陽輪花の根元まで来ると、並んで種の匂いを嗅いだ。オスは一つを前足で転がし、硬い殻を器用に割り始める。メスも別の種を抱え込むようにして座り、殻の隙間から中身を食べ始めた。
いつもと変わらない光景だった。
少なくとも、初めはそう見えた。
そして、メスの動きが、突然止まった。
「‥‥‥あれ?」
種を抱えていた前足が地面に下りる。
メスはじっと身体を丸めたまま動かない。やがて落ち着かない様子で立ち上がったものの、数歩進んだところで再びうずくまってしまった。
尻尾が小刻みに揺れ、呼吸も速くなっている。
オスが食べかけの種を放り出し、慌ててメスへ駆け寄った。
鼻先で顔やお腹に触れたあと、周囲をぐるぐると回り始める。
「兄様」
「ああ‥‥‥様子がおかしい」
メスが低い声で鳴いた。
するとオスは一層慌て、メスの前へ行ったり後ろへ回ったり、観察小屋のほうへ走ってきたりする。
何をすればよいのか、まるで分からないらしい。
「もしかして‥‥‥?」
「今、ここでか?」
「そうみたい」
チャチャたちは顔を見合わせた。
にゃわんの出産について書かれた本は、一冊も見つかっていない。出産にどのくらいの時間がかかるのかも、一度に何匹生まれるのかも分からなかった。
助けたくても、何をすれば正しいのか分からなかった けれど、このまま陽輪花の根元にいさせるわけにもいかない。
草原は穏やかに見えても、夜になれば気温が下がる。雨が降るかもしれないし、他の動物が近づく可能性もある。
「オスカーを呼ぼう」
「僕が行く。チャチャはここにいろ」
「1人で?」
「2人とも離れたら、何かあったときに誰も見ていないだろう」
フェリクスはそう言い残すと、使用人を呼びに走った。
チャチャは観察小屋から静かに出た。
オスがすぐさまこちらを振り返る。毛を逆立ててはいないが、落ち着きなく前足で地面をかいていた。
「大丈夫‥‥‥何もしないよ」
チャチャはその場にしゃがみ、両手を見える位置に置き、はじめて話しかけてみた。
「今、兄様がオスカーを呼びに行ったからね。あそこに、あなたたちのための隠れ家を作ったの」
少し離れた木陰には、オスカーが作ってくれた簡素な隠れ家があった。
枝と乾いた草で覆われ、風や雨をしのげるようになっている。にゃわんが気に入らなければ使わなくてもよいよう、入口は広く、奥へ逃げられる抜け道も作ってあった。
「ここで産むより、あっちのほうが安全だと思うの。分かる?」
言葉が通じるはずはない。
そう思っていたのに、オスは隠れ家のほうを振り返った。
それからチャチャを見上げ、小さく「にゃう」と鳴く。
「もしかして、本当に分かる?」
チャチャが一歩進むと、オスはメスのもとへ戻り、鼻先でその頬を押した。
メスは立ち上がろうとしたが、すぐに身体を丸めてしまう。
「無理に動かさないほうがいいのかな?」
迷っていると、遠くからフェリクスとオスカーが走ってくるのが見えた。オスカーは作業道具を抱え、後ろからマリアネーゼも布や籠を持ってついてきている。
「お嬢様、離れてくださいませ!」
「オスカー、大声を出したら驚いちゃうよ」
「あっ‥‥‥これは失礼を」
オスカーは急いで声を落とした。
そのまま距離を取り、うずくまっているメスを観察する。
「これは‥‥‥子供が生まれようとしている」
「隠れ家まで連れて行ける?」
「歩けるのであれば。ただし、無理に触れるのは危険です。人にとっても、この子にとっても」
オスカーは地面に膝をつき、にゃわんたちと目の高さを合わせた。
「お前さんたちの寝床を作ってある。あちらなら風も入らんし、人目にもつかない。歩けるか?」
オスはオスカーの顔をじっと見た。
庭で何度も顔を合わせているため、覚えているのだろう。オスカーには近づかれても逃げない。ただし、撫でさせてくれるほど気を許してはいなかった。
「大丈夫だよ。怖いことはしないから」
チャチャも隠れ家を指さす。
「安全な場所へ行こう。ゆっくりでいいからね」
オスはメスと隠れ家を交互に見たあと、再び鼻先でメスの身体を押した。
メスは荒い息をしながら、ゆっくり立ち上がった。
一歩。
そして、もう一歩。
オスはぴったりと寄り添い、ときどき立ち止まってはメスの顔を確かめる。
チャチャたちは二匹を囲まないように距離を空け、静かに隠れ家まで誘導した。
中へ入ると、メスは敷き詰めてあった乾いた草の上に横たわった。オスもその隣へ入り、身体を寄せる。
2匹の呼吸が、先ほどより少しだけ落ち着いた。
「入ってくれた‥‥‥」
チャチャが胸をなで下ろす。ところが、隠れ家をのぞいたオスカーは、すぐに眉を寄せた。
「少々、狭いですな」
「2匹が寝るだけなら足りると思っていたものね」
「子供が生まれるとなれば話は別です。母親が身体を伸ばせて、オスもそばにいられる広さが必要でしょう。それに、何かあったとき、私どもが近づける余裕もあったほうがよい」
オスカーは道具を広げると、隠れ家の後ろ側へ回った。
「今から広げられる?」
「やってみましょう。最低でも、人が2人入れるほどの空間を確保します。ただし、大きな音は立てられません。少々時間がかかりますぞ」
「子供が生まれるのも、きっと時間がかかるよね」
確証はなかったが、まだ生まれそうには見えなかった。
メスはときどき苦しそうに身体を丸めるものの、しばらくすると力を抜き、目を閉じる。それを繰り返している。
マリアネーゼが清潔な布を隠れ家の入口に置いた。
フェリクスは浅い器に水を入れ、チャチャは割って食べやすくした陽輪花の種を用意する。
オスは、そのすべてを注意深く見ていた。
「これはお水だよ」
チャチャが器を示す。
「こっちは食べ物。今すぐ食べなくてもいいよ。お腹が空いたときのために置いておくね」
オスは器へ近づき、匂いを嗅いだあと、水を一口だけ飲んだ。
それから種を一つくわえ、メスの顔の近くへ置く。
「メスのために運んだのか?」
フェリクスが驚いたように言った。
「優しいね」
チャチャが褒めると、オスは耳を動かした。
オスカーが古い枝を一本外そうとした瞬間、ぱきりと乾いた音が鳴る。2匹が同時に顔を上げた。
「大丈夫だよ」
チャチャはすぐに声をかけた。
「隠れ家を広くしているだけ。壊しているんじゃないよ。あなたも、メスのそばにいられるようにするから」
オスはオスカーの手元を見つめたあと、再びメスの隣へ座った。
逃げようとはしなかった。
「ねえ、兄様。やっぱり言葉が分かっているように見えない?」
「言葉そのものを理解しているかは分からない。でも、僕たちが何をしようとしているかは、分かっているようには見える」
「人の表情や声で判断しているのかもしれませんな」
作業を続けながら、オスカーが答える。
「野生の生き物は、人間が思っている以上によく見ております。目の動き、声の調子、手に持っている物まで。もっとも、この子らが普通の動物であるかどうかは、私にも分かりませんが‥‥‥」
オスはまた耳を動かした。
まるで自分のことを話されていると分かっているようだった。
やがて陽が傾き始めるころ、隠れ家は元の倍ほどの広さになった。人が2人、身をかがめれば中へ入れる。風が直接吹き込まないよう入口には草の覆いを足し、雨が流れ込まないよう周囲に浅い溝も掘った。
「ひとまず、これでよいでしょう」
オスカーが額の汗を拭う。
メスは奥の柔らかな草の上で横たわり、オスは入口近くに座っていた。
外を警戒しながらも、ときどき振り返り、メスの様子を確かめている。
「私とマリアネーゼで見守ります。お嬢様と坊ちゃまは、お屋敷へお戻りください」
オスカーの提案に、チャチャは首を横に振った。
「何かあったら、すぐに分からないでしょう?」
「ですが、出産がいつ終わるか分かりません。夜中になるかもしれませんぞ」
「だからこそ、ここにいたいの」
「僕も残る」
フェリクスも隣に腰を下ろした。
「僕たちが急にいなくなったら、あのオスが不安になるかもしれない。さっきから、何度もこちらを見ている」
言われてみれば、オスは隠れ家の入口から、じっとチャチャたちを見つめている。
その目に、以前のような強い警戒はなかった。
代わりに宿っているのは、戸惑いと不安。それから、わずかな期待のようなものだった。
「大丈夫」
チャチャは隠れ家の前に座り、穏やかに語りかけた。
「私たちはここにいるよ。あなたの大切な子が苦しそうだったら教えてね。何ができるかは分からないけれど、一緒に考えるから」
オスは、しばらくチャチャを見ていた。
やがて一度だけ、ゆっくりと目を閉じる。そして隠れ家の奥へ戻り、メスの頬に自分の鼻先を寄せた。
「‥‥‥返事をしたみたい」
「ああ」
フェリクスも小さくうなずいた。
チャチャたちは、隠れ家から少し離れた場所に毛布を敷いた。水と食べ物、明かり、清潔な布も用意する。
何が必要なのか分からないからこそ、考えられるものを一つずつ揃えていった。
空が薄い茜色に染まり、陽輪花の長い影が草原を覆っていく。
まだ‥‥‥子供は生まれない。
けれど隠れ家の中では、新しい命が今まさに外の世界へ出ようとしているんだ。
絵本では、傷ついた動物を少女が助け、その後に生まれた子供と絆を結んだ。
あの物語と同じことが起きるとは限らないけど、それでもチャチャは、絵本の最後に書かれていた言葉を思い出していた。
――小さき友の手を離してはならない。
ならば今は、離れずにいよう。
助けを求められたとき、すぐ手を伸ばせるように。
チャチャとフェリクスは肩を並べ、不安げにメスへ寄り添うオスとともに、小さな命が生まれる時を静かに待ち続けた。




