6-1 警戒するのを忘れていませんか?
陽輪花と共に生きる謎の動物を、私たちが『にゃわん』と呼ぶようになってから、一週間ほどが過ぎた。
最初のうち、二匹のにゃわんは、人の気配がある間には滅多に姿を見せなかった。
私たちが隠れ場所へ入り、果肉を薄く塗った種を木皿へ載せる。けれど、にゃわんたちがやって来るのは、私たちが観察を終えて屋敷へ戻ったあとばかりだった。
翌朝になると、木皿から種がなくなっていた。周囲の土には、小さな足跡が残されていた。
それでも、少しずつ変化は起きていた。
まず、私たちが隠れ場所にいる間にも、雄のにゃわんが姿を見せるようになった。
草の間から顔だけを出し、じっとこちらを観察する。
最初はそれだけで木皿へ近づかなかったけれど、何もされないと分かると、一歩、また一歩と前へ出てくるようになった。
そして三日目には、私たちが見ている前で木皿まで近づき、果肉を舐めた。
「今日は、ここまで近づきましたね」
観察を終えた私が小声で言うと、マリアネーゼが頷いた。
「それでも、お嬢様が動けば、すぐに逃げてしまうんでしょうね」
「分かっています。無理に触ろうとはしませんよ。なでなでしたいけれども‥‥‥」
あれは、絶対に気持ち良いはずだ‥‥‥
「本当でございますか?」
「‥‥‥少なくとも、今は我慢。我慢‥‥‥」
正直に答えると、マリアネーゼは深いため息をついた。
にゃわんの淡い金色の毛は、とても柔らかそうだった。
ふさふさした尻尾も、猫のような丸い頬も、触ってみたい‥‥‥
けれど、ここで焦ってはいけない。
にゃわんたちは、長い間、人間を避けて生きてきた動物だ。少し近づいてきたからといって、急に手を伸ばせば、それまで積み重ねたものがすべて無駄になってしまう。
それに、雌のお腹には子がいる。
余計な不安を与えることだけは避けなければならなかった。
私たちは毎日、同じ時間に、同じ場所へ種を置いた。
最初は、種の表面へ陽輪花の甘い果肉を薄く塗っていた。
しかし、厨房で保管していた果肉には限りがある。時間がたてば色も変わり、傷んでしまう。
いつまでも果肉を塗り続けることはできなかった。
「今日は、果肉の量を半分にしてみましょう」
四日目、私は種の半分にだけ果肉を塗った。
雄のにゃわんは木皿へ近づくと、いつもより念入りに匂いを嗅いだ。
ちらりとこちらを見た。
もう一度、種の匂いを確かめる。
どうやら、いつもと違うことには気づいているようだ。
それでも逃げず、果肉のついた側から舐め始めた。
果肉をすべて舐め取ると、種を口の中へ入れる。
これまでは表面をきれいにしたあと、すぐに吐き出していた。
ところが、この日は、がりり、と小さな音がした。
にゃわんが種を噛んでいる。
「食べています」
私が小声で呟くと、マリアネーゼに腕を二度触れられた。
動かないで、という合図だ。
私は口を閉じ、もう一度隙間から外を見た。
にゃわんは種を完全に飲み込んだ。
どうやら、にゃわんたちは果肉だけでなく、本当の種も食べるらしい。
それなら、土へ隠している種は、食べきれない分の保存食なのだろう。
すべてをその場で食べるわけではない。腹が満たされれば、残った種を別の場所へ運んで埋める。
そして、埋めたことを忘れた種や、食べずに残した種の一部が芽を出す。
にゃわんにとっては、あとで食べるための蓄え。
陽輪花にとっては、新しい土地へ種を運んでもらうための仕組みみたいだ。
どちらか一方のためだけにある関係ではなかった。
五日目には、果肉をほんの少しだけ塗った種と、果肉をまったく塗っていない種を一つずつ並べた。
雄のにゃわんは、果肉のついた種を先に食べた。
そのあと、何もついていない種の前で立ち止まる。鼻先で転がし、こちらを見た。
もっと甘いものはないのかと、聞かれているような気がした。
「今日は、それだけです」
思わず小声で答える。
にゃわんの耳が動いた。
逃げるかと思ったけれど、その場に残っていた。
果肉のついていない種を前足で押さえ、小さな牙で噛み砕く。
どうやら果肉がなくても、大丈夫なようだ
前足を舐め、口の周りについた欠片を落とすと、満足したように草むらへ戻っていった。
翌日からは、果肉を塗らない種だけを置いてみることにした。
にゃわんが食べなければ、果肉が残っている間だけ、少量を塗ればよい。
けれど、その必要はなかった。
雄のにゃわんは、何もついていない種を食べるようになった。
私たちが中にいることを確かめても、すぐには逃げない。
食べる前と食べ終わったあとに、こちらをじっと見ることはあった。
それでも、全身の毛を逆立てたり、牙を見せたりすることはなくなっていた。
七日目には、これまで草むらの奥からほとんど出てこなかった雌も、雄と一緒に木皿まで近づいてきた。
大きなお腹を抱え、一歩ずつ慎重に歩いている。
雄は雌より少し前を進み、木皿の匂いを確認した。
安全だと分かると、種を食べずに一歩下がる。
先に雌へ譲ったのだ。
雌は木皿の前へ座り、果肉のついていない種を一つ口へ入れた。
がり、がり、と噛んでいる。
最初の一つを食べ終えると、もう一つも口へ運んだ。
雄はその間、周囲を警戒しているようだ。
ときどき、私たちの隠れ場所へ目を向けるものの、以前のように身構えることはなかった。
雌が食べ終わってから、雄も残った種を食べ始めた。
二匹がそろって食べている。
それだけなのに、私は妙に嬉しくなった。
次の日も、二匹は一緒に現れた。
さらに、その次の日も‥‥‥
最初の頃は、木皿へ来ても食べ終えればすぐに草むらへ戻っていた。
けれど、日がたつにつれて、二匹はその場に留まるようになった。
雄は食べ終わると木皿のそばへ伏せ、前足へ顎を載せる。
雌は陽輪花の葉が作る日陰へ移動し、ゆっくりと横になった。
大きなお腹をかばうように丸まっていたけれど、しばらくすると、体を横へ伸ばし始める。
風が吹くたび、二匹の淡い金色の毛が揺れた。
ずいぶんと寛いでいる様子だ。
私たちが、すぐ近くで見ているというのに‥‥‥
「もう、隠れている意味がないのではありませんか?」
私が小声で尋ねると、マリアネーゼが首を横へ振った。
「ここから外へ出れば、驚かせてしまうでしょう」
「でも、あの様子ですよ?」
雄のにゃわんは、仰向けになっていた。
背中を草へ擦りつけるように、右へ、左へと体を転がしている。
ふさふさした尻尾が地面を掃き、四本の足が空へ向いていた。
野生動物として、それでよいのだろうか‥‥‥?
身重の雌は、そんな雄を横になったまま眺めていた。
やがて、雄が転がりすぎて雌の背中へぶつかった。
雌は迷惑そうに前足を伸ばし、雄の顔を押し返した。雄は一度起き上がったものの、今度は雌の隣へぴったりと寄り添って伏せた。
雌が雄の耳を舐め、すると雄も、雌の頬を舐め返した。
「かわいい‥‥‥」
今度は声に出さないよう、口の中だけで呟いた。
二匹の耳が、同時にこちらへ向いた。
聞こえてしまったのかと思ったけれど、逃げる様子はない。
雄は、私たちの隠れ場所を一度見ただけで、また雌の隣へ顎を下ろした。
「マリアネーゼ」
「はい」
「警戒心が強い動物だと聞いていたのですが」
「そのはずでございます」
「最近、警戒するのを忘れていませんかね?」
「少なくとも、ここにいる者は危険ではないと判断したのでしょうか?」
完全に懐いたわけではないだろう‥‥‥
手を伸ばせば逃げるだろうし、無理に近づけば、また二度と姿を見せなくなるかもしれない。
それでも、にゃわんたちは、私たちがいる場所で腹を見せるようになった。
近くにいても、果実や種を奪わない。
捕まえようともしない。
毎日、同じ場所から静かに見守っているだけ。
その積み重ねによって、少しずつ危険ではないと覚えてくれたのだろうか?
私は隠れ場所の中から、寄り添って眠る二匹を眺めた。
今日より明日。
明日より、その次の日。
にゃわんたちが自分から近づいてもよいと思うまで、私は焦らずに待つつもりだった。




