1-2 カツラは洗うものではない?
――だから臭う‥‥‥
そう結論づけた私は、しばらく言葉を失っていた。
目の前で母が穏やかに微笑み、侍女たちもいつも通りの顔をしている。
誰一人として異常だと思っていないようだった。
それが余計に恐ろしかった。
前世の記憶を思い出したばかりの私には、この部屋の空気は耐え難いものだった。
香油。
香水。
人の匂い。
布の匂い。
様々な匂いが幾重にも重なり合い、部屋の中に澱のように溜まっている。
窓は閉じられたままだし、空気は動かない。
まるで長年使われていない箱の中に閉じ込められているような感覚だった。
外はとても天気がいいし、ここから見える庭の木々も揺れている。
きっと、そよ風も吹いているのだろう。
あ~、あの空気を思いっきり吸いたい。心の底からそう思った。
「チャーちゃん?」
母が不思議そうに私を見ている。
私は慌てて視線を戻した。
今はそれどころではない。
もっと重要な問題がある。
「お母様」
「なあに?」
「とりあえず」
「ええ」
私は再び窓を見た。
全部の窓という窓、扉という扉が閉め切られている。
動かない淀んだ空気。
鼻の奥にツンとくる重たい香り。
そして、頭上の鬘‥‥‥
「全部の窓を開けてください。扉もすべて!」
部屋が静まり返った。母がぱちりと瞬きをする。
「窓を?」
「はい」
「全部?」
「はい」
私は真剣に頷いた。
「今すぐにです」
「どうして?」
「空気が腐っています」
侍女たちがざわりと顔を見合わせた。
どうやら変なことを言ったらしい。
だが私には切実な問題だった。
「それに」
私は頭を指差した。
「本当に……洗わないのですか?」
自分でも未練がましい質問だと思った。
聞き間違いであってほしい。
冗談であってほしい。
そんな願いが少しだけあった。
しかし母は迷いなく頷いた。
「ええ」
その一言で希望は砕け散った。
私は鏡の中の自分を見た。
ふわふわと盛り上げられた金色の髪。
正確には髪ではなく鬘だ。
幾重にも巻かれた毛束の隙間には小さな真珠や金具が埋め込まれている。
近くで見ると職人の技術は素晴らしかった。
継ぎ目も見えない。
まるで最初からそういう生き物だったかのような完成度である。
だからこそ恐ろしい。
「鬘、汚れませんか?」
「汚れるわね」
母はあっさり言った。
私は思わず目を瞬いた。
認めるのだ。
「でしたら……」
「香油を塗るの」
優雅な答えだった。
解決にはなっていない。
むしろ問題の上に香りを塗り重ねているだけである。
だが母も侍女たちも当然のような顔をしていた。
私はふと、侍女の一人へ目を向けた。
年齢は二十歳前後だろうか。
綺麗に結い上げられた茶色の鬘を身につけている。
先ほどから気になっていたのだ。
花の香りの奥に、わずかに油の古い匂いが混ざっている。
前世なら品質検査で弾かれる程度の微かな変化だ。
だが私にはわかってしまう。
「その鬘はどのくらい使うのですか?」
侍女は嬉しそうに答えた。
「こちらは5年目です」
「ご、ご‥‥5年」
私は静かに息を呑んだ。
思ったより短い‥‥‥
ほんの少~し安心した。
だが次の言葉で、その安心は消し飛んだ。
「毛を足しながら使いますので、あと10年ほどは問題ございません」
‥‥10年
つまりトータルすると、15年‥‥‥
私は頭の中で計算した。
15年っていったい‥‥‥
今の私の年齢より、ずっと長い。
どう考えても長い。
長すぎる。
「お嬢様の鬘など、もっと長く使いますわ」
「ひょえっ‥‥‥」
思わず、変な声が出てしまったではないか‥‥‥
別の侍女が誇らしげに言った。
「公爵家の鬘は代々受け継がれるのです」
「代々?」
「はい」
私はゆっくり母を見る。
母は当然のように頷いた。
「私が嫁いだ時にも、公爵家の鬘を譲り受けたのよ」
「お、お祖母様のですか?」
「それより前の公爵夫人様から受け継いだ毛束も使われているわね。傷んだ部分は新しい毛に替えながら、代々手入れして受け継いでいるのよ」
私は再び鏡を見た。
豪華だった。
確かに豪華だ。
職人の技も素晴らしい。
宝石も綺麗だ。
だが、どうしても気になる。
「あ、洗ったことは?」
部屋が静かになった。
母は少し考えるような顔をした。
まるで珍しい質問を受けたようだった。
「‥‥‥ないわ、ね」
「一度も?」
「ええ」
私は思わず窓の方へ視線を向けた。
庭の木々が風に揺れている。
その様子をぼんやり眺めながら、私はしばらく現実から目を逸らした。
理解が追いつかず、思考が少し停止した。
‥‥‥前世の私なら絶対に近寄らないし、品質管理室に持ち込まれたら防護手袋を探すかもしれない。
だがこの世界では、代々受け継がれる貴重な家宝として扱われている。
価値観の差に頭がくらくらした。
その時だった。
母がくすりと笑った。
「でも安心して」
「はい?」
「今日はとても軽い鬘なのよ」
‥‥軽い。
その言葉を聞いた瞬間、肩がピクリとはねた。私は思わず反応した。
か、軽いのかしら?これで?
母は鏡越しに私を見た。
「初めてのお茶会ですもの」
その声音には娘を気遣う優しさがあった。
「まだ2樽しか使っていないわ」
私は鏡を見上げる。
2樽‥‥‥
その単位はまだ、よくわからない。
ただ、前世の記憶にある樽なら知っている。
酒樽もあればワイン樽もあったし、大きなものから小さなものまで様々だった。もちろんこの世界の樽がどれほどの大きさなのかはわからないが、少なくとも軽さを表す単位には聞こえなかった。
だが確実にわかることが一つある。
重い。
非常に重い。
首の後ろがずっとじんわり痛い。
肩も疲れている。
これで軽いなら、本番はどうなるのだろうか?
そんな不安が胸をよぎった。
「お母様はな、なん樽なのですか?」
「今日は3樽ね」
母はさらりと答えた。
私は改めて母を見る。
確かに大きかった。
先ほどまでは自分の頭のことで精一杯だったが、落ち着いて見れば母の鬘はさらに一回り大きい‥‥‥
金の装飾。
真珠。
小さな宝石。
豪華で美しい。
そして、頭上には小さな塔でも載せているかのような毛量の髪と装飾が積み上がっているのに、不思議とそれを支えている首は細くしなやかだった。
顎から首筋にかけての線だけ見れば、ごく普通の貴婦人にしか見えない。だが、その細い首で平然と3樽を支えているのだ。剛腕ならぬ剛首とでも呼ぶべきか‥‥‥
「首は痛くなりませんか?」
私が尋ねると、母は少しだけ笑った。
「痛くなるわ」
意外な答えだった。
もっと誇らしげな答えが返ってくると思っていた。
「肩も凝りますし、長い夜会の後は頭痛もするわね」
その言葉には妙な説得力があった。
経験者の声だった。
私は思わず聞いてしまう。
「‥‥‥でしたら、なぜ被るのですか?」
母はすぐには答えなかった。
鏡の中で自分の姿を見つめる。
その横顔はとても美しかった。
だがどこか寂しそうにも見えた。
「‥‥‥公爵夫人だからよ」
静かな声だった。
それは誇りでもあり、諦めでもあるように聞こえた。
私は何も言えなくなった。
母は好きで苦しんでいるわけではない。
ただ、そうするのが当然だと思って生きてきたのだ。
ふと疑問が浮かぶ。
「お父様も同じですか?」
「同じ?」
「重い鬘です」
母は一瞬きょとんとしたあと、小さく笑った。
「お父様は執務中ですもの」
「はい」
「今頃は半樽もないわね」
私は瞬きをした。
半樽。
それは聞き捨てならない。
私の2樽よりずっと軽いと思われる響き‥‥‥
「ど、どうしてですか?」
「仕事がありますもの」
母は当然のように言った。
私は自分の頭を見上げた。
重い。
どう考えても重い。
それから母を見る。
もっと重そうだ。
私はしばらく考えた。
そして率直に聞いた。
「女性は仕事をしないのですか?」
部屋の空気がぴたりと止まった。
侍女たちの表情が固まる。
母だけが少し困ったように笑っていた。
どうやらまた、変なの質問をしてしまったらしい‥‥‥




