1-1 ニオイの正体
私は転生者だった。
その事実を理解し、受け入れるまでには少し時間がかかった。
――いや、正確には受け入れている余裕などなかったと言った方が正しい。
なぜなら、あまりにも臭かったからだ。
私は思わず鼻を押さえた。
「チャーちゃん?」
母が不思議そうな顔でこちらを見る。
しまった、と私は慌てて手を離した。
「どうかしたの?」
「い、いえ……」
そう答えながらも、私はどう説明すればいいのかわからなかった。
目の前にいる母はとても美しい。
金色の髪は艶やかで、顔立ちも整っている。優しく微笑む姿は、まるで絵画から抜け出してきた貴婦人のようだったけれど‥‥‥
匂う‥‥‥
いや、母だけではない。
部屋全体が臭かった。
甘い花の香り。
熟した果実のような香り。
香木を焚いたような重たい香り。
それらが一つひとつならまだ良かったのだろう。
しかし何種類もの香りが狭い空間の中で混ざり合い、互いを打ち消し合いながら主張しているせいで、とても心地よいとは言えない状態になっていた。
もはや香りではない。
鼻を直接殴られているような感覚だった。
鼻の奥がつんと痛み、目までしょぼしょぼしてくる。
私は反射的に窓へ視線を向けた。
だが窓は閉まっていた。
一つだけではない。
見える範囲の窓がすべて閉じられている。
どうしてだろう?
この世界には換気という概念がないのだろうか。
そんなことを考えた瞬間だった。
ふわりと別の匂いが鼻をかすめた。
花や果実の甘い香りの奥に隠れていた、もっと重たく、どこか不快な匂い。
私は眉をひそめる。
この匂いを知っている。
どこかで嗅いだことがある。
頭の奥で何かが引っ掛かり、その感覚を追いかけた瞬間――記憶が蘇った。
白い部屋。
明るい蛍光灯。
棚に整然と並べられた小瓶。
試験紙。
記録用紙。
そして数え切れないほどの香り。
『確認お願いします』
誰かの声が聞こえる。
私は小瓶を受け取り、蓋を開ける。
香りを確認する時は何度も嗅がない。一度だけ、慎重に香る。
そして私は眉をひそめた。
『前回と違います』
『え?』
『油が劣化しています』
『わかるんですか?』
『わかります』
それは特別なことではなかった。
だからこそ私はそこにいたのだ。
香料会社の品質管理部。
製品の香りを確認し、異臭がないか調べ、品質を評価する仕事。
そうだった。
私は前世で香料会社に勤めていた。
香りに関わる仕事をしていたのだ。
私は香りが好きだった。
正確に言えば、心地よい香りが好きだった。
洗いたてのシーツの清潔な匂い。
天日干しした布団の温かな香り。
石鹸の泡の優しい香り。
雨上がりの澄んだ空気の匂い。
そういう自然で穏やかな香りが好きだった。
だから香料会社への就職を決めた。
けれど、香りなら何でも好きだったわけではない。
強すぎる匂いは苦手だった。
柔軟剤を必要以上に使っている人。
香水を大量につけている人。
空気の入れ替えをしていない閉め切った部屋。
そういう環境にいると頭が痛くなり、気分まで悪くなる。
そして今の私は、まさにそんな環境のど真ん中にいた。
「うっ……」
思わず呻き声が漏れる。
「チャーちゃん!?」
母が慌てて駆け寄ってきた。
周囲の侍女たちもざわつき始める。
「やはり鬘が重かったのかしら?」
「初めてですものね」
そんな声が聞こえてくるけど、違う。
原因はそこにもある。だが、それだけではない。
いや、正直に言えば鬘もかなり問題だった。
重いし暑いし首も疲れる。
だが今はそれどころではない。
圧倒的に匂いの方が凶器だった。
私は改めて部屋の中を見回した。
侍女は四人いる。
それぞれ違う香りをまとっている。
母もまた別の香りだ。
私自身にも香油が塗られているらしい。
鬘からも香料の匂いがする。
服からもする。
部屋の調度品からもする。
なんならカーテンからまで香りが漂っている。
逃げ場がない。
まるで香りの牢獄だった。
その時、私はあることに気付いた。
臭いの種類が少しずつ違うのだ。
全員が同じ匂いを発しているわけではない。
香水や香油の奥に、それぞれ別の匂いが隠れている。
私は一人の侍女へ視線を向けた。
その侍女の鬘から漂う匂いが特に気になったのだ。
「その鬘」
「はい?」
侍女が首を傾げる。
私は率直に尋ねた。
「いつ洗いましたか?」
その瞬間、部屋が静まり返った。
侍女が固まる。
母も固まる。
周囲の侍女たちも顔を見合わせている。
私は首を傾げた。
何かおかしなことを言っただろうか?
すると侍女が恐る恐る聞き返してきた。
「洗う……とは?」
私は瞬きをした。
質問の意味がわからなかった。
「洗う、です」
「鬘を?」
「はい」
再び沈黙が落ちる。
その空気に、私は嫌な予感を覚えた。
とても嫌な予感だった。
私はゆっくりと確認する。
「もしかして……」
誰も答えないし‥‥‥
「洗わないんですか?」
さらに長い沈黙‥‥‥
やがて母が困ったように微笑んだ。
「チャーちゃん」
「はい」
「鬘は、洗うものではないのよ!」
私は固まった。
そして確信した。
やはりこの世界はおかしい。
私が想像していた以上におかしい。
本当におかしい。
どうして誰も疑問に思わないのだろうか?
こんなにも臭うのに。
香料で誤魔化しているとはいえ、確かに臭うのに。
洗わないまま使い続ければ、匂いが染み付くのは当然だ。
なのに誰も気にしていない。
理解できなかった。
そして私は心の底から思った。
――だから臭いのだ、と。




