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プロローグ

何かが頭に乗っている。

そんな感覚で目が覚めた。


いや?

乗っているどころではない。

押し潰されている。

頭頂部から首の付け根まで、ずっしりとした重みがのしかかっている。


‥‥‥これは、まるで漬物石のようだ。


昔、祖母の家の土間の隅に鎮座していたのを見たことがある。

丸くて分厚く、まるで地面そのものを切り出してきたような石だった。

子供だった私は両手で抱え込んでもびくともさせられず、持ち上げようと踏ん張った瞬間、自分の方が潰されそうになったのを覚えている。

ふと、突然思い出した丸くて大きくて、持ち上げようとしてもびくともしなかったあの石を‥‥‥


あれが頭の上に乗っていると言われた方がまだ納得できる。

私はそっと首を動かそうとした。

だが、後ろへ傾けるのは本能的に危険だとわかった。

少しでも上を向けば最後だ。この重みは前へ戻せない。

一度倒れた本棚を一人で起こせないように、一度後ろへ持っていかれたら、そのまま首ごと持っていかれる気がした。


これは、絶対に戻せないやつだ。

私は慌てて正面を向いたまま固まった。

動けない。

正確には動く。

動くのだが、動かすたびに首の骨が『やめておけ』と抗議をしてくる。

じんわりと肩が痛い。

背中も痛くなってきた。

その重みは、どう考えてもこの体には過積載だった。


「チャーちゃん、動かないの」


鏡の前で、母のような人が微笑んだ。

母?なの?そう思った瞬間、違和感が走る。

けれど、今の私にとっては間違いなく母だ。

優しく髪を撫でてくれた記憶がある。

熱を出したときに看病してくれた記憶もある。

だがその顔は、鏡に映る今の母ではなく、頭の奥にいたのは別の女性だった。

黒髪に黒い瞳をした年配の女性だった。どこか親しみを覚える顔立ちで、頭に浮かんだその女性もまた、母だったのだと不思議な確信があった。


鏡に映る金髪で琥珀のような瞳の少女である、私とは明らかに似ていなかった。

二つの記憶が重なり合い、私は一瞬、自分が誰を見ているのかわからなくなった。


チャーちゃん‥‥‥


その呼び方でようやく自分がチェチェーリア・フォン・クラウゼンであることを思い出した。

8歳の公爵令嬢。

今日が初めての楽しみにしていたお茶会の日。

だから朝から侍女たちが大騒ぎしていたのだ。

だが今の私にとってそんなことはどうでもいい。

問題はこの頭だ。

私は恐る恐る鏡を見た。

そして、固まった。


「……なに、これ」


頭の上に建物があった。

建物と言っていい。

一瞬、自分の頭そのものが巨大化したのかと思った。


いや、違う。


これは自分の頭なのか? 髪の毛なのか? それとも地の頭が大きいだけなのか?

鏡の中のそれを見ても判別がつかない。

髪型というには規模が大きすぎる。

ふわふわと膨らんだ金色の塊が何層にも積み上がり、巻かれ、ねじられ、盛り上げられている。

横幅もかなりある。

高さもある。

どう見ても私の顔より大きい。

むしろ私の頭が添え物だ。

巨大な何かを支えるための土台として存在している。

「素敵ですわ、お嬢様」

侍女がうっとりと言う。

「公爵家に相応しい、2樽ですもの」


‥‥‥2樽って?いったい?


ちょっと、よく意味がわからない。

私は8歳なので当然知らないのかもしれない。

『2樽』と言われてもいまいち、ぴんと来なかった。

けれど、そういえば昨日、母から何か説明を受けていた気がする。

初めてのお茶会だから頭に載せるものを用意したこと。

年齢や立場に合わせて少しずつ大きくしていくこと。

そして、将来は公爵家の令嬢に相応しい大きさにしていき、最終段階まで育てていくこと。そんな話だったような気がする。

正直、そのときは半分も理解していなかった。

だが今なら断言できる。


絶対にろくでもない単位だ。

なぜなら軽いものに樽などという単位は使わない。

樽と聞いて思い浮かぶのは、酒やワインを入れる樽だ。

保存食だったり、重いものだったり‥‥‥

つまりこの頭は、重い。

非常に重い。

頭蓋骨が証言している。

「お母様」

「なあに?」

「これ、本当に必要なんですか?」

母は、なぜかきょとんとした。

まるで『なぜ靴を履くのですか』と聞かれたような顔だった。

「もちろんよ」

「どうして?」

「格式だから」

やっぱり、よく意味がわからない。

格式とは首を犠牲にして得るものなのだろうか?

私は再び鏡を見た。


どこからどう見ても‥‥‥

異常だった。


そのとき、鼻をつく匂いがした。ツンとした刺激が鼻腔をかすめる。

甘い花の香り。

果実の香り。

香木の香り。

それだけではない。

麝香(じゃこう)のような重たい香りに、柑橘の爽やかな香り、どこか薬草めいた香りまで混ざっている。

色々と混ざりすぎている。

突然の不意打ちだった。

次の瞬間、鼻を殴られたような破壊力が襲ってくる。

過ごしきれないほど濃密な香りの奔流が脳を痺れさせるような刺激とともに容赦なく押し寄せ、めまいを覚えるほどだった。

部屋の侍女、全員から別々の香水が漂っている。

私は顔をしかめた。

『くっさ……っ!』

いや。

若干、‥‥‥良い匂いも混ざっているけれども‥‥‥

花の香りや果実の香りは確かに上品な香りだ。

だがその中に、獣脂が酸化したような重たい匂いや、何日も洗われていない布に香料を振りかけたような匂いまで混ざっている。

正直に言えば、物凄く臭い。

一つ一つなら良い匂いのものもあるのだろうが、だが十種類混ざると話は別だ。

目がしょぼしょぼして痛くなってきたような気もするし、鼻の奥も痛いような気がしてきた。

刺激が強すぎて、じわりと涙まで滲んできた。

何?ここ‥‥‥


「大丈夫?」


母が心配そうに聞いてきた。その瞬間だった。

甘ったるい香り。

そういえば、と私は母を見た。

この母もまた、私と同じような巨大な頭をしていた。

何かが頭に乗っている。

いや、正確には頭ではない。

鏡に映った自分の生え際の向こうに、頭とは別の何かが不自然に積み上がっているのが見えた。

そこでようやく納得した。やっぱり、これは自分の頭ではない。

どう考えても(かつら)だよね。自分の頭がやたら大きいわけじゃなかったことに少し、安堵する。

先ほどまで自分のことで精一杯だったせいで気づかなかったが、母の鬘も十分に異常だった。

私のものより一回り以上大きいそれを載せたまま、母は不思議そうに首を傾げている。

傾げている?

私は思わず目を見開いた。

「お母様……」

「なあに?」

「お母様の首は、曲げられるのですね?」

母はぱちぱちと瞬きをしたあと、くすりと笑った。

「もちろんよ。鍛えておりますもの」

「鍛える……」

そんな発想が必要な時点でおかしいのではないだろうか。

「公爵夫人たるもの、3樽程度で音を上げていては務まりませんわ」

なんだか誇らしげに言われても困る。

それは本当に誇るべきことなのだろうか‥‥‥

私は鏡越しに母の巨大な鬘を見上げた。

やはりこの世界は、変だ。

優雅に微笑んでいるが、その首は本当に大丈夫なのだろうか。

そして香りもきつい。

花や果実を煮詰めて濃縮したような匂いが容赦なく鼻を刺激してくる。

思わず鼻を摘まみたくなる。


いや‥‥‥


私はすでに無意識に鼻を摘まんでいた。

「お嬢様、そのようなはしたない行動はおやめください」

背後から侍女にたしなめられ、私は、渋々手を離した。

鏡の中の自分は、ぱっちりとした琥珀の宝石のようにキラキラと輝く瞳に整った顔立ちをした、誰が見ても可愛い美少女だ。もし頭の上の巨大なものさえなければ、絵本から抜け出してきたお姫様のように見えただろう。

頭の重みに耐え続けたせいなのか、それとも鼻を刺すほど濃い香りのせいなのか。あるいはその両方だったのかもしれない。それらが何かの引き金になった。

頭の奥で弾ける音がした。

ぱちん。

そんな音。

そして。

知らないはずの記憶が溢れ出した。

高い建物。

夜の街。

スマートフォン。

エアコン。

シャンプー。

洗濯機。

柔らかい枕。

軽い布団。

毎日入る風呂。

電車。

コンビニ。

日本。

令和。

前世。

「あ……」

私は息を呑んだ。

思い出したのだ。

全部。

そして理解した。


私は転生者だったのだ。


同時にもう一つの事実も理解した。

この世界。

やっぱり、おかしい。

風呂文化が未発達。

なのに香水文化だけ発展している。

頭には巨大な鬘。

しかも皆が誇らしげに被っている。

どう考えても順番がおかしい。

私は鏡の中の巨大な鬘を見上げた。

見れば見るほど理解できない。

これを発明した人は首に恨みでもあったのだろうか?


「チャーちゃん?」


母が不思議そうに覗き込む。

私はゆっくりと口を開いた。

「お母様」

「なあに?」

「みんな、首は大丈夫なんですか?」

後に、その素朴な疑問が王国を揺るがすことになる。

もっともこのときの私は。

まだお茶会ですら始まっていなかった。



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