4-5 公爵令嬢の日常に戻ります
私が病気になってから、一週間が過ぎた。
熱を出して寝込んでいたのは、ほんの数日のことだったはずなのに、その前と今とでは、屋敷の様子がずいぶん変わっていた。
私の部屋からは、いくつもの香りが混ざり合った重たい匂いが消えた。窓を開ける時間も決まり、寝具や衣類も定期的に手入れされるようになった。
客室や居間、食堂の掃除も一通り終わり、お兄様の部屋も以前とは見違えるほど快適になっている。
ただし、お父様の執務室だけは、いまだに攻略できていない‥‥‥
毎日、天気のよい午前中に窓を開け、少しずつ書類や本の整理を続けている。けれど、使用人だけでは、必要な物と不要な物を判断できない。
お父様に確認しようとしても、仕事中は声をかけられず、確認できたとしても、ほとんどの物に「必要だ」という答えが返ってくる。
そのため、仕事に関係のない物を別の場所へ移し、空いた棚や床を掃除するだけでも、何日もかかっているようだ。そのうち、何年も使っていない鬘は、お母様に確認後、こっそり処分していく方向に向かっている。
それでも、お父様の許可を得た場所から少しずつ片づけは進んでいる。一度にすべてを変える必要はないからね。
急いで勝手に捨てれば、お父様がどこに何を置いたのか分からなくなり、今度は本当に仕事に支障が出てしまう。
だから、執務室のことはお父様と使用人たちに任せ、私は自分の日常へ戻ることになった。
午前中は勉強。
昼食を挟み、午後は体力をつけるための散歩。
ここ数日は、それが私の新しい日課になっている。
「では、本日は、この国の地理と公爵家が管理する領地について学びましょう」
朝食を終えた私は、勉強部屋で家庭教師と向かい合っていた。
大きな机の上には、この国の全体を描いた地図と、さらに細かく分けられた何枚もの地図が広げられている。
前世でも地図を見ることは好きだった。
けれど、この世界の地図には、当然ながら聞き慣れた国名も地名もない。山の位置も、川の流れも、知っているものとはまったく違っている。
「こちらが王都でございます」
家庭教師が、地図の中央付近を指した。
王都には、国王陛下と王族の暮らす王宮がある。
その周囲には貴族たちの屋敷が集まり、商人や職人たちの住む区画が幾重にも広がっている。この国の政治と経済の中心であり、国内で最も多くの人が暮らす街でもあった。
「そして、王都の外側に広がるこちらの土地が、公爵家の管理する領地です」
「王宮から、ずいぶん近いのですね」
「はい。公爵様が王宮へ頻繁に出向かれますので、こちらの屋敷も王都に近い場所に建てられております」
お父様が毎日執務室へ籠もっているのは、公爵領の管理だけでなく、国の仕事にも関わっているかららしい。
王都に近い公爵領は、私が暮らしている屋敷と、その周囲に広がる農地や町だけではない。
地図の上では一色に塗られているけれど、その中には山も川も、深い森も含まれている。
農業に適した平地では穀物や野菜が育てられ、山から切り出された木材は、建物や家具に使われる。川は農地へ水を運び、人や物資を別の町へ届けるための道にもなっていた。
「この広い緑色の場所は、何ですか?」
「国によって保護されている自然公園でございます」
「自然公園?」
「珍しい植物や動物が多く生息しておりますので、勝手に木を伐採したり、動物を捕らえたりすることが禁じられた土地です」
自然公園自体は国のものだ。
けれど、その公園を実際に管理しているのは公爵家だった。
森で違法な伐採が行われていないか。保護されている動物が捕らえられていないか。川や道に異常がないか。
公爵家から派遣された管理人や森番が定期的に見回り、問題があればお父様へ報告する。
「公爵家の森ではないのに、お父様が管理するのですか?」
「国王陛下から管理を任されているのです。それだけ公爵家が信頼されているということでございます」
土地を持つということは、そこから利益を得るだけではない。
森や川を守り、そこで暮らす人々の安全を守る責任も負う。
前世で公爵と聞けば、豪華な屋敷で優雅に暮らす貴族という印象が強かった。
けれど、実際のお父様には、私が考えていたよりも多くの仕事があるらしい。
あの執務室に大量の書類が積み上がる理由も、少し分かった気がした。
「こちらも、公爵領なのですか?」
私が指さしたのは、王都から遠く離れた、国境沿いの土地だった。
「はい。公爵家が管理する領地は、一か所だけではございません」
王都近くの公爵領からは、山や川をいくつも越えなければならない。馬車で向かえば、かなりの日数がかかるという。
その領地は、隣国と接している。
国境付近には砦が建てられ、国境を守るための軍隊が常駐していた。
「その軍隊も、お父様が管理しているのですか?」
「公爵様は、国境防衛にも大きな責任を負っておられます。現地には軍を指揮する者がおりますが、人員や食料、武器に関する報告は公爵様にも届けられます」
「では、王都の近くと国境沿いでは、同じ公爵領でも役目が違うのですね」
「そのとおりでございます」
王都に近い領地では、農地や町の運営、山や川、自然公園の管理。
国境沿いの領地では、そこに暮らす人々の生活に加え、他国からの侵入を防ぐための軍隊と砦の管理。
お父様が毎日確認している書類には、税や収穫の報告だけではなく、自然公園や軍隊からの報告も混じっているのだろう。
それなら、簡単に捨てるわけにはいかない。
けれど、重要な書類だからこそ、必要なときにすぐ取り出せるよう整理したほうがよいとも思う。
次にお父様の執務室を掃除するときは、領地ごと、内容ごとに書類を分けられないか、相談してみよう。
午前中の勉強を終え、昼食を食べたあとは、いつものように庭へ出た。
散歩といっても、公爵家の敷地は広大だ。一度にすべてを回ろうとすれば、病み上がりでなくても疲れてしまう。
そのため、今日は花壇、明日は果樹園の手前までというように、歩く場所を少しずつ変えていた。
ただし、どこを歩く日でも、必ず立ち寄る場所がある。
陽輪花の咲く草原だ。
「今日も、確認なさるのですか?」
「もちろん」
マリアネーゼと一緒に草原へ向かうと、今日も黄色い陽輪花が太陽の光を受けて揺れていた。
その中で、一本だけ風綿種になったものがある。
数日前から綿毛が少しずつ外れ、重い種をつけたまま、周囲の地面へ落ち始めていた。
私は落ちていた種のうち、三つだけを回収していた。
一つは、種の外側や硬さを調べるため。
一つは、動物がくわえた種との違いを比べるため。
そして、もう一つは予備だ。
本当なら、もっと集めて詳しく調べたい。
けれど、この種は、陽輪花と共生している動物にとって大切な食料でもある。
人間がすべて拾ってしまえば、その動物は食べるものを失い、別の場所へ移ってしまうかもしれない。
そうなれば、新しい陽輪花が芽を出すこともなくなってしまうのだ。
だから、三つだけもらい、残りはそのままにしていた。
「昨日は、この辺りに二つ落ちていました」
私は、陽輪花の根元から少し離れた場所を指さした。
けれど、今日は一つしか残っていない。
風で転がった可能性も考え、周囲の草をよく見てみたが、種は見つからなかった。
「やはり、あの動物が持っていったのでしょうか?」
「その可能性は高いと思います」
近くにいたオスカーが答えた。
彼も毎朝、風綿種の周囲を確認している。
落ちた種の位置を覚えておき、次の日に種がなくなっていれば、例の動物が来た可能性があるという。
ただし、今のところ私たちは、その姿を一度も見ていないから、いつか見れるのだろうか?
「種は食べに来ているのに、姿を見せてくれないのですね」
「大変用心深い生き物ですから、人の声や足音がすれば、草むらや森の中へ隠れてしまうのです」
「夜に来ているのでしょうか?」
「夜かもしれませんし、我々が草原を離れた直後かもしれませんし‥‥‥」
少なくとも、種がなくなっている以上、この近くに来ていることは間違いないはずだ。
いつか姿を見られるかもしれないと思うと、毎日の確認も楽しみになっていた。
草原を離れる前に、私たちは庭師たちの作業小屋へ立ち寄る。そこには、オスカーへ頼んでいた鬘置きの試作品がある。
丸い木の台座から短い棒が伸び、その上に、細い枝を曲げて作った籠状の頭が載せられていた。
「昨日より、頭の部分が丸くなっています」
「最初の物は頂点が尖りすぎておりましたから。鬘の内側へ当たり、形が崩れる可能性がありました」
すでに試作品は、最初に作った物から二度も修正されている。
最初の台座は小さすぎて、重い鬘を載せると倒れてしまったようだ。
次は台座を広くしたものの、今度は頭を支える枝の間隔が広すぎて、鬘の一部が隙間へ入り込んだ。
そこで枝の本数を増やし、角が当たらないよう表面も丁寧に削ったのが、今の試作品だ。
私は実際に鬘を載せてもらい、周囲から形を確認した。
「前より安定しています。内側にも風が通りそうですね」
「では、同じ物を作りましょうか?」
「いいえ‥‥‥もう数日だけ、このまま使ってみましょう。重い鬘を載せたままにして、枝が曲がらないか確認したいです」
すぐに二十個も作って、あとから問題が見つかれば、すべて作り直すことになる。
まずは一つを繰り返し使い、不便なところを確かめる。それから、用途の違う鬘に合わせて、少しずつ大きさの異なる物を増やしたほうがよい。
「承知しました。では、しばらくはこのまま様子を見ましょう」
オスカーは残念がるどころか、楽しそうに頷いた。
試作品の確認を終え、帰る前に、私はもう一度だけ陽輪花の草原へ立ち寄った。
先ほどまで地面に残っていた種を確かめるためだ。ところが、そこにあるはずの種が見つからなかった。
「マリアネーゼ」
「はい。先ほどまでは、確かにございましたね」
風はほとんど吹いていない。
私たちが作業小屋へ行っていたのは、ほんのわずかな時間だった。私は種のあった場所へしゃがみ込み、周囲の草をそっとかき分けた。
地面には、小さな足跡のようなくぼみが残っている。その先の草が、森へ向かって細く倒れていた。
やはり、何かがいる‥‥‥
私たちが草原を離れた、ほんの短い間に、私は足跡の先へ目を凝らした。
けれど、深い草むらの向こうに、その姿を見つけることはできなかった。




