4-3 お父様の頭を干す方法
結局、お父様の執務室を午前中だけで攻略することはできなかった。
原因は、あまりにも多すぎる鬘‥‥‥だけではない。
必要なのか不要なのか分からない書類や、机の上に並べられた空のインク壺、削り直せば使えるかもしれない羽根ペン、いつか何かを入れるかもしれない空箱。
お父様に確認するたび、『必要だ』『まだ使える』『そのうち使う』と返ってくるため、ほとんど何も捨てられなかった。
それでも、書類を用途ごとに分け、本を本棚へ戻し、仕事に関係のない贈答品や鬘を別の場所へ移すだけで、執務室には少しずつ空間が戻ってきた。
窓を開けられるようになり、部屋に溜まっていた重い空気も外へ逃がすことができた。
けれど、まだ掃除は始まったばかりだ。
壁際に並んだ本棚も、大きな机も、その下に敷かれた分厚い絨毯も動かしていない。例の中身が分からない箱に至っては、お父様が『あとで確認する』と言ったきり、部屋の隅に残されたままだ。
できることなら、午後もそのまま続けたかったが、お父様にも仕事がある。使用人たちもだ‥‥‥
執務室を掃除するために何日も仕事を休んでもらうわけにはいかなかった。
そこで話し合った結果、執務室の掃除は、天気のよい日の午前中に少しずつ進めることとなった。
午前中なら、お父様にも必要な物と不要な物を確認してもらえる。運び出した本や書類を外の風に当て、絨毯やカーテンの埃を払うこともできる。
午後は、お父様が仕事をしている間に、使用人たちが空になった棚や箱を掃除する。
一日で終わらせることはできないけれど、毎日少しずつ進めれば、いつかは必ず終わりが来るはずだ!
けれど、ひとまず今日の掃除を終え、昼食の席についた頃には、私はすっかり疲れ果ててしまった。
体を動かしたからではない。
鬘の数を数え、それぞれの用途を聞き、どこへ保管するのかを考えているうちに、頭の中まで鬘でいっぱいになってしまったのだ。
「チャチャ、午後はどうする?」
昼食を終えたお兄様が尋ねてきた。
「今日は、もうお掃除はしません」
「珍しいね」
「私だって、毎日お掃除ばかりしているわけではありません」
そう答えたものの、よく考えてみれば、熱が下がってからの私は、本当に掃除ばかりしている。
先生から外へ出てもよいと言われたあとも、自分の部屋、客室、居間や食堂、お兄様の部屋。そして今日からは、お父様の執務室。
自分で床を磨いたり、大きな家具を運んだりしたわけではないけれど、何を外へ出すのか、何を洗うのか、どこを掃除するのか、皆に説明しながら進めるのは、それなりに疲れるものだ。
私は、窓の外へ目を向けた。
朝からよく晴れていて、雲も少ない。窓から差し込む光の中で、庭の木々が風に揺れている。
「午後は、お庭をお散歩してきます」
「僕も行こうか?」
「お兄様は、先生とのお勉強があるのでしょう?」
「‥‥‥そうだった」
お兄様は、心の底から残念そうな顔をした。
けれど、私の掃除に付き合ったから勉強をしなくてもよい、ということにはならないらしい。食堂の入口に立っていた家庭教師が、お兄様へにこやかな笑顔を向けている。
「チャチャ。あまり遠くへ行ってはいけないよ」
「お庭の中ですから、大丈夫ですよ」
「うちの庭は広いんだ。奥まで行ったら、屋敷からは見えなくなる」
「‥‥‥マリアネーゼと一緒に行きます」
「それなら安心だ」
お兄様はようやく納得したものの、何度もこちらを振り返りながら、家庭教師と一緒に食堂を出ていった。
昼食後、私は動きやすい靴に履き替え、マリアネーゼとともに庭へ向かった。
屋敷の正面に広がる庭園は、どこから眺めても美しく見えるように整えられている。
中央には大きな噴水があり、その周囲から白い砂利を敷いた道が左右へ延びている。低く刈り込まれた植え込みは複雑な模様を描き、その間を埋めるように、季節ごとの花が植えられていた。
貴族の屋敷にふさわしい、きちんと計算された庭だ。
けれど、公爵家の庭は、それだけでは終わらない。
整形式庭園の向こうには果樹園があり、さらに進めば薬草園や温室もある。厨房で使われる野菜や香草を育てている場所もあれば、馬を走らせるための草地もある。
その先には小さな林と川まであり、すべて含めれば『庭』と呼んでよいのか迷うほど広い。
前世の感覚なら、庭というより公園、いいえ、それ以上かもしれない。
少なくとも、家の中で忘れ物に気づいて気軽に取りへ戻れる距離ではなさそうだ。
「お嬢様、本日はどちらまで参りましょうか?」
「まずは、花壇を見て回りたいです。しばらく、お庭をゆっくり見ることもありませんでしたから」
「かしこまりました。ただし、疲れる前にお戻りくださいませ」
「分かっています」
熱はすっかり下がっているし、それでも病み上がりであることを忘れてはいけないと、先生から何度も言われていた。
私たちは、噴水の横を通り、花壇の間に作られた小道を歩いていった。
窓から眺めているだけでは分からなかったが、近くへ来ると、さまざまな花の香りが漂っている。
部屋に置かれていた香水のような濃く重たい匂いではない。風が吹くたびに淡く運ばれ、通り過ぎれば自然に消えていく。
これなら、いくつもの花が咲いていても息苦しくなかった。
しばらく歩いていると、花壇の向こうに一人の男性が見えた。
使い込まれた上着に丈夫そうな長靴。袖を肘までまくり、地面に膝をついて、花の根元を覗き込んでいる。
すぐそばまで近づいているのに、こちらにはまったく気づかない。
男性は細い棒で土を崩すと、指先でその感触を確かめ、今度は葉の裏を一枚ずつ調べ始めた。
「オスカー」
マリアネーゼが呼びかけた。
しかし、男性は振り向かない。
「オスカー」
二度目の声にも反応はなかった。
「オスカー・ベルクマン」
「はい!」
今度は少し厳しい声で名前を呼ばれ、男性が勢いよく立ち上がった。
手にしていた小さな道具が宙へ飛び、それを慌てて両手で受け止める。
「なんだ、マリアネーゼか。驚かせないでくれよ」
「わたくしは、三度も呼びました」
「‥‥‥本当か?」
「お嬢様もいらっしゃいます」
そこでようやく私の存在に気づいたらしい。
オスカーは目を見開くと、慌てて服についた土を払い、頭を下げた。
「これは、これは、チャチャお嬢様。大変失礼いたしました」
「構いません。それほど夢中になって、何を見ていたのですか?」
「葉の裏に、小さな虫の卵を見つけたのでございます。このままにしておけば、数日後には孵って、せっかくの葉を食べてしまいますから」
オスカーは、先ほどまで見ていた葉を指さした。
確かに、その裏には小さな粒がいくつか並んでいる。
私には言われなければ気づけないほどの大きさだった。
「これを一つずつ見つけているのですか?」
「できる限りは。すべての虫が悪いわけではございませんが、この虫は食欲がありますので」
「あなたと同じですね」
マリアネーゼが言うと、オスカーは少し困った顔をした。
どうやら、よく食べる人らしい‥‥‥
オスカー・ベルクマンは、公爵家の庭を任されている庭師だ。けれど、生まれたときから庭師になると決まっていたわけではない。
彼はもともと下位貴族の家に生まれ、幼い頃には、貴族として必要な作法や領地経営について学ばされていた。
しかし本人が興味を持ったのは、舞踏会での立ち居振る舞いでも、他家との付き合いでもなかった。
屋敷の裏にある畑で何が育っているのか?花はなぜ季節ごとに咲くのか。痩せた土と肥えた土では、なぜ同じ種を蒔いても育ち方が違うのか。
気がつけば、礼儀作法の教師から逃げ出しては、庭師の後ろをついて歩く子供になっていたそうだ。
成長してからも興味は変わらなかった。
家族からは何度も反対されたという。貴族として生まれた者が、土にまみれて働くなど聞いたことがない。庭を管理したいなら、庭師を雇う側になればよい。自分で土を掘る必要などない、と‥‥‥
けれど、オスカーがなりたかったのは、庭師へ命令する主人ではなかった。
自分の手で種を蒔き、花を育てる庭師だった。
そして、最終的には家を出て、公爵家で働き始めた。
庭園だけでなく、果樹園や薬草園まで所有するこの屋敷は、彼にとって何より魅力的な場所だったらしい。
一方、マリアネーゼも下位貴族の家に生まれている。
けれど、彼女は五女だった。
上に四人も娘がいれば、全員に十分な持参金を用意し、よい家へ嫁がせることは難しい。だからといって、何もせず実家で暮らし続けることもできなかった。
そこで彼女は、貴族として身につけた作法や教養を生かし、高位貴族の令嬢に仕える道を選んだ。
そうして公爵家で働き始めたマリアネーゼと、貴族の立場を離れて庭師になったオスカーが出会ったのだ。
片方は、働かなければならなかった元貴族。
もう片方は、どうしても働きたかった元貴族。
二人が夫婦になったと聞いたとき、私はずいぶん不思議な組み合わせだと思った。
けれど、今こうして並んでいる姿を見ると、案外よく似ているのかも‥‥‥
マリアネーゼは私の世話に夢中になると、ほかのことが目に入らない。オスカーは植物に夢中になると、妻の呼びかけさえ聞こえない。
夢中になる対象が違うだけで、根本的には同じなのかもしれない。
「オスカーに、ご相談したいことがあります」
「私にでございますか?」
「はい。木や籐を使って、人の頭のような形をした物を作れませんか?」
「‥‥‥人の頭を?」
オスカーの顔から笑みが消えた。
マリアネーゼも、わずかに眉を寄せている。
「お嬢様。なぜ、そのような物が必要なのですか?」
「お父様の頭を干したいのです」
「公爵様の頭を⁉」
オスカーが大きな声を上げた。
少し離れた場所にいた庭師たちまで、何事かとこちらを振り返る。
「お嬢様。旦那様の頭は干せませんよ」
マリアネーゼが、幼い子供へ大切なことを教えるように言った。
「分かっています。干したいのは、お父様の頭ではなく、鬘です」
「それなら、最初からそうおっしゃってください」
マリアネーゼが額を押さえ、オスカーは目に見えて安堵した。
「今朝、お父様の執務室から、たくさんの鬘が出てきました。形を崩さずに保管しなくてはなりませんし、内側に溜まった湿気や匂いも逃がしたいのです」
「風通しのよい場所に置くのでは、いけないのでしょうか?」
「箱へ寝かせたままでは、内側に風が通りません。けれど、そのまま外へ置けば形が崩れます。順番に誰かが持っているわけにもいきませんし‥‥‥」
「何個くらいあるのです?」
「執務室に十二個。衣装室には、同じくらいあるそうです」
「それは‥‥‥公爵様の頭では足りませんね‥‥‥」
「お父様の頭は一つしかありませんから」
当たり前のことを確認し合ってから、私たちはしばらく黙った。
オスカーは顎に手を当て、何かを考え始める。
「棒へ掛けるだけでは、いけませんか?」
「それでは、鬘の重さが一か所にかかってしまいます。内側の形に合わせて支えたほうがよいと思います」
「それなら、丸い木を削りますか?」
「木の塊では、風が通らないのではありませんか?」
「確かに。しかも、20個以上となると重くなります」
「50個は必要です。家族みんなの分もですからね?持ち運びやすくて、倒れにくくて、違う大きさの鬘にも使える物がいいです」
「注文が多いですね」
オスカーはそう言いながらも、嫌そうではなかった。
むしろ、新しい植物を見つけたときのように目を輝かせている。
「細い枝を曲げて、頭に近い形の骨組みを作るのはどうでしょう。横木を何本か渡せば、鬘を全体で支えることができます」
「枝の間から風も通りますね」
「はい。ただ、細い枝だけでは倒れやすい。下に広い台座が必要です」
「台座から取り外せるようにはできませんか?」
「取り外せる?」
「頭の部分だけ外せれば、鬘を載せたまま運べます。使わないときは、重ねて片づけられるかもしれません」
「なるほど‥‥‥」
オスカーは足元の土へ、指先で簡単な形を描き始めた。
丸い台座の中央に短い棒を立て、その先へ、細い枝で作った籠のような頭を載せる。
「最初から大きさを一つに決めず、何種類か作ったほうがよさそうですね。公爵様の鬘にも、形の違いがあるのでしょう?」
「長い物も、巻き毛の大きな物もありました」
「では、まず三種類ほど試してみましょう。実際に鬘を載せ、どこに重さがかかるのか確かめなくては‥‥‥」
「作ってくださるのですか?」
「面白そうですから」
オスカーは迷うことなく答えた。
その返事を聞いたマリアネーゼが、呆れたような視線を夫へ向ける。
「オスカー。本来のお仕事を忘れてはいけませんよ」
「分かっている。剪定で出た枝を使えば、材料も無駄にならない。それに、鬘を管理しやすくなれば、屋敷の仕事にも役立つだろう?」
「作り始めたら、食事を忘れるのではありませんか?」
「夕食までには戻る」
「それは、戻らない人の言い方です」
二人のやり取りを聞きながら、私は笑ってしまった。
まだ、うまくいくかは分からない。
枝が折れるかもしれないし、台座が倒れるかもしれない。鬘を載せてみたら、形が合わない可能性もある。
けれど、最初から完璧な物を作る必要はない。
一つ作って、実際に使い、駄目なところを直す。そうして少しずつ、使いやすい形に近づけていけばよいのだ。
「明日の午前中、試作品を一つお持ちします」
「そんなに早くできますか?」
「材料になりそうな枝に、心当たりがあります。ただし、公爵様には内緒にしておいてください」
「どうしてですか?」
「『お父様の頭を作っている』と伝わったら、途中で止められるかもしれません」
それは十分にあり得る。
私とオスカーは、顔を見合わせて頷いた。
相談を終えたあと、オスカーが庭の奥へ案内してくれることになった。
「少し先に、今ちょうど珍しい花が咲いております。お嬢様がお疲れでなければ、ご覧になりますか?」
「行きたい!」
「遠すぎる場所はなりませんよ」
マリアネーゼが念を押す。
「大丈夫だ。薬草園の手前だから」
「あなたの『少し先』は、時々信用できません」
公爵家の敷地では、少し先という言葉の意味が普通とは違うらしい‥‥‥
私たちは、整えられた庭園を抜け、果樹園へ続く道を進んだ。
辺りの景色は、歩くほどに変わっていく。
左右対称に植えられていた花は少なくなり、代わりに背の高い草や、自然な形に枝を伸ばした木々が増えてきた。道も白い砂利から柔らかな土へ変わり、遠くからは水の流れる音が聞こえてくる。
屋敷を振り返ると、もうずいぶん小さく見えた。
これだけ広い敷地を、オスカーをはじめとする庭師たちが毎日手入れしているのだ。
花壇の美しさだけでなく、果樹園の実りも、薬草の管理も、林の中で倒れそうな木がないか確認することも、すべて彼らの仕事になる。
庭が好きというだけでは務まらない、大変な仕事だ。
それでも、先を歩くオスカーの足取りは軽かった。
「あちらです」
オスカーが、道の先を指さした。
草地の向こうには、太陽をそのまま小さくしたような黄色い花が、いくつも並んで咲いていた。
長く伸びた茎の先に、幾重もの細い花びらを広げている。前世で見たタンポポによく似ているけれど、その大きさはまるで違う。花だけでも私の両手に収まりきらないほどあり、周囲の草よりも頭一つ高い場所で、風に合わせてゆったりと揺れていた。




