4-2 お父様の本当の髪は何色ですか?
お父様から午前中だけという条件つきで許可をもらった私たちは、朝食を終えると、さっそく執務室の前に集合した。
私とお兄様、お母様、マリアネーゼ。そして、掃除を担当する侍女や使用人たち。
家具や絨毯を運ぶ者、書類や本を整理する者、埃を払う者など、役割を分けて集められた人数は、私が思っていたよりも多い。
使用人総出と言ってもよいほどの大がかりなものになったのは、執務室に置かれている品物の多さだけが理由ではなかった。
「いいか!書類は一枚たりとも勝手に捨ててはならない」
扉の前に立ったお父様は、念を押すように言った。
「本を移動させるときは、必ず元の場所を記録すること。机の引き出しも、私が確認するまで開けてはならない。それから‥‥‥」
「‥‥‥お父様」
私は止まらない注意事項を遮った。
「このままでは、午前中がお父様のご説明だけで終わってしまいます」
「それほど大切な物が多いということだ」
「本当に全部、大切な物なのでしょうか?」
「当然だ」
お父様は迷うことなく答えた。
その後ろで、マリアネーゼが無言のまま空になった木箱を用意している。
どうやら、必要な物、不要な物、すぐには判断できない物の三つに分けるつもりらしい。
お父様にすべてを一つずつ確認していたら、午前中どころか、何日あっても終わらないだろう。
「とにかく、まずは中に入りましょう」
お兄様が執務室の扉を開けた。
その瞬間、室内に溜まっていた空気が、扉の外へゆっくりと流れ出してくる。
古い紙や革張りの本の匂い。長い間、窓を開けていなかった部屋特有の、重たく淀んだ空気。そこに香木と香水、葉巻の匂いが混じり合っている。
お兄様の部屋ほど甘くはない。けれど、長く吸い込んでいたい空気とも思えなかった。
「まずは窓を開けましょう」
「待ちなさい。書類が飛ぶ」
「分かっています。窓の近くにある物から移動させます」
私が答えると、使用人たちが一斉に動き始めた。
窓のそばに積まれていた書類は、順番を崩さないよう木の板に載せ、そのまま紐で縛っていく。本棚に戻せそうな本は表紙の題名を記録し、あとでお父様に確認するための箱へ移す。
床に置かれた贈答品の箱や、使われていない文房具も、勝手に捨てずに部屋の中央へ集められていった。
お父様は机の前に座り、運ばれてきた物を次々に確認している。
「これは必要だ」
「では、こちらの箱へ」
「それも必要だ」
「こちらも同じ箱へ入れます」
「待て!その箱と一緒にしてはいけない」
「では、何が違うのですか?」
「これは近日中に使う物で、そちらは少し先に使う物だ」
お父様の説明を聞いたマリアネーゼは、新たな箱を用意した。
箱は早くも四つに増えている。
お父様の言うとおり、一つ一つにきちんとした理由があるのかもしれない。しかし、理由を聞くたびに分類が増えていくのでは、別の意味で片づかない。
「父上。こちらの空になったインク壺は?」
「まだ使える」
「こちらの羽根が割れている羽根ペンは?」
「削り直せば使えるかもしれない」
「蓋のない箱は?」
「何かを入れられる」
「何を入れるのですか?」
「それは、これから考える」
お兄様が困った顔で私を見る。
昨日まで香水の小瓶をすべて取っておこうとしていた人なので、あまり強く言えないのだろう。
それでも、お兄様はお父様の返事を聞くたび、不要な物を入れる箱へ少しずつ近づけていた。
窓の周囲が片づいたところで、ようやく窓が開け放たれた。
新しい風が入ってくると、カーテンが大きく膨らんだ。室内に淀んでいた匂いが外へ押し出され、代わりに庭の草木の香りが流れ込んでくる。
「やはり、空気を入れ替えるだけでも違いますね」
私が大きく息を吸うと、お母様も満足そうに頷いた。
「本当ね。あなたも、少しは息がしやすくなったのではなくて?」
「別に、今までも苦しくはなかったが‥‥‥」
そう答えた直後、お父様が小さく咳をした。
私とお兄様とお母様の視線が、同時にお父様へ集まる。
「‥‥‥これは埃のせいだ」
「ですから、その埃を掃除するのです」
どうやら、まだ納得はしていないらしい。
それでも窓を閉めろとは言わなかったので、少しは効果を感じているのだと思う。
書類と本の仕分けが進む一方で、別の使用人たちは壁際に置かれていた棚の中身を運び出していた。
その中から、縦に細長い箱がいくつも出てくる。
最初の一つが開けられたとき、私はそれが何なのか、すぐには分からなかった。
「髪‥‥‥?」
箱の中には、丁寧に形を整えられた髪のようなものが収められていた。
けれど、人の頭から切り取った髪ではない。
細かな巻き毛が左右に並び、後ろには束ねた髪がついている。白に近い灰色で、形が崩れないよう布と紙を詰めて保管されていた。
「これは、鬘でございます」
マリアネーゼが教えてくれた。
それくらいは、私も知っている。
この屋敷にいる大人たちは、正式な場へ出るとき、必ずと言ってよいほど鬘を被っている。
ただ、驚いたのはその数だった。
一つ目の箱の隣には、二つ目、三つ目と、同じような箱が並べられていく。
白い鬘。灰色がかった鬘。少し短い物。巻き毛の大きな物。後ろで黒いリボンを結ぶ物。さらに、よく見なければ違いが分からないほど、よく似た鬘まである。
「お父様。この鬘は全部、お父様の物ですか?」
「そうだ」
「いくつあるのですか?」
私が尋ねると、鬘を管理している使用人が箱を数え始めた。
「こちらの執務室にある物だけで、十二、ございます」
「ここにある物だけで?」
「衣装室にも、同じくらい保管されております」
合わせれば二十を超えてしまう。
私の頭は一つしかないのだから、当然、お父様の頭も一つだけのはずだ。
どうして一人で、それほど多くの鬘が必要なのだろうか?
「こちらは来客を迎えるときの物。こちらは式典用。こちらは外出用です」
使用人が一つずつ説明してくれる。
「こちらの二つは、雨の日に使用いたします」
「雨の日専用の鬘まであるのですか?」
「濡れて形が崩れてしまうことがありますので」
私は思わず、お兄様を見上げた。
「お兄様も、大人になったらこんなにたくさん被るのですか?」
「たぶん、そうなのかな‥‥‥?」
お兄様は少しだけ嫌そうな顔をした。
「今はまだ子供だから、普段は自分の髪のままでも構わないらしい。けれど、大人になれば、式典や夜会に出るときは必要になるだろうな‥‥‥」
「大人になると、朝食のときも被らなければならないのですか?」
「家族だけなら必要ないと思うけれど‥‥‥」
そう答えながら、お兄様の視線がお父様へ向かう。
今日のお父様も、朝食の席からきちんと鬘を被っていた。
服装にも乱れはなく、これからすぐに来客を迎えても問題がないほど身だしなみが整っている。
それは今日に限ったことではない。
私が物心ついた頃には、お父様もお母様も、朝からきちんと髪を整えていた。
私とお兄様はまだ子供だから、屋敷の中では自分の髪のまま過ごしてよいらしい‥‥‥
けれど、大人はそうもいかないのかな?
たとえ家の中でも、人前に出るときは身だしなみを整える。貴族であれば、家族や使用人の前でも、それにふさわしい姿を保たなければならない。
それがこの世界では当たり前のことなのだろう。
ただ、そのせいで、私は大切なことを知らないまま育ってしまった。
「お父様」
「今度は何だ?」
「お父様の本当の髪は、何色なのですか?」
執務室の動きが、ぴたりと止まった。
お父様だけでなく、お母様や使用人たちまで、驚いたように私を見ている。
「チャチャは、私の髪の色を知らないのか?」
「はい。いつも鬘を被っていらっしゃるので‥‥‥」
「朝や夜に、顔を合わせているだろう?」
「朝からきちんと被っていらっしゃいますし、夜も身だしなみを整えていらっしゃいます」
お父様は、まるで考えたこともなかったという顔をした。
けれど、それはお母様も同じだった。
お母様は自分の髪にそっと触れようとして、その手が鬘の上で止まった。
「そういえば、わたくしもチャチャの前では、ほとんど外していないわね」
「お母様の本当の髪も、今と同じ色なのですか?」
「まったく同じではありませんよ。髪に合わせて作らせてはいますけれど、こちらのほうが少し明るいかしら‥‥‥?」
「長さは?」
「今は、肩より少し下までございます」
知らなかった‥‥‥
私が知っているお父様とお母様の髪は、本物の髪ではなかったのだ。
もちろん、鬘を被っていること自体は知っていた。しかし、その下にある髪が何色で、どれくらいの長さなのかを、考えたことはなかった。
前世なら、親の髪の色を知らない子供など、ほとんどいなかっただろう。
けれど、この世界では身だしなみを整えることが優先される。その結果、実の娘である私でさえ、両親の本当の髪を知らないのは‥‥‥
「チャチャ。父上の髪は、僕とよく似た色だよ」
お兄様が教えてくれた。
「お兄様は見たことがあるのですか?」
「一度だけ。朝早く父上の部屋へ行ったとき、まだ鬘を被っていなかったんだ」
「フェリクス!余計なことを言わなくていい」
「別に隠すようなことではないでしょう」
お兄様は楽しそうに笑う。
「少し寝癖がついていました。あと、ちょっと‥‥‥」
「フェリクス!」
お父様の低い声が響いたが、その場にいた使用人たちは皆、聞こえなかったふりをして俯いている。
肩が小刻みに震えている者もいた。
「お父様にも、寝癖がつくのですね。お兄様、ちょっと、なんでしょうか?」
「私にも髪があるのだから、寝癖くらいつくそれだけだ!」
お父様は不満そうに答えた。
どれほど立派な服を着て、常に身だしなみを整えていても、お父様も朝には寝癖がつくんだ。
当たり前か!
当たり前のことなのに、今までのお父様からは想像もできなかったのだ。
「それなら、いつか私にも見せてください」
「何をだ?」
「お父様の本当の髪です。寝癖がついていても構いませんよ」
「なぜ寝癖がついていることが前提なのだ」
「そのほうが、お父様らしくないので面白そうですし‥‥‥」
「面白がるために見せるものではない」
お父様は呆れたようにため息をついた。
けれど、本気で嫌がっているわけではなさそうだった。
「わたくしの髪は、あとでお見せしますわ」
お母様が微笑む。
「本当ですか?」
「ええ。家族にまで、いつも完璧に整えた姿しか見せてはいけないという決まりはございませんもの」
「母上が外すなら、父上も外せますよね?」
「どうして、そうなる」
お兄様がすかさずお父様の逃げ道を塞いだ。
私は何気なく尋ねただけだった。
けれど、お父様とお母様が常に整った姿でいようとしていたからこそ、私は二人の本当の髪さえ知らなかった。
身だしなみを整えることは大切だ。
けれど、家族の前でまで、いつでも完璧な姿でいなければならないのだろうか?
そんなことを考えながら、私は並べられた鬘の箱を見つめた。
「こちらはどういたしましょうか?」
使用人に尋ねられ、お父様は整然と並んだ鬘を見回した。
「まだ、使える物ばかりだ」
「全部、残すのですか?」
「当然だ」
「お父様の頭は一つしかありませんよ?」
「用途が違うと言っただろう」
鬘に関しては、一つも手放すつもりがないらしい。
さすが、屋敷に残された最後の難関である。
「では、全部のお手入れをして、必要な物だけを執務室に戻しましょう」
「必要な物だけ?」
「残りは衣装室へ移します。執務室は、お仕事をするためのお部屋なのでしょう?」
最初にお父様自身が言ったことだ。
お父様は反論しようとして口を開き、何も言えないまま閉じた。
その横で、お兄様が得意げに頷いている。
「チャチャの言うとおりですね、父上」
「お前は本当に楽しそうだな」
「ええ。昨日の僕を見ていた父上も、きっと同じお気持ちだったのでしょう」
お兄様の言葉に、お父様はまたしても黙り込んだ。
こうして、執務室にあった大量の鬘は、すべて形を崩さないよう一つずつ慎重に運び出されることになった。
仕事に使わない物を外へ出したことで、壁際にはようやく空間が生まれた。
けれど、部屋の奥には、まだ本棚も大きな机も、例の箱も残っている。
午前中だけで終わるのかな?
今の私には、まったく自信がなかった。




